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忘れられない味

人には大抵、食の好き嫌いがある。目立った嫌いなものがない自分でも、進んで食べないものはある。
生まれ育った静岡県はウナギが有名だ。ウナギパイは好きだが、ウナギはいただけない。「あなご」や「しゃも」も好きではない。どうやら「長もの」の類いが苦手であるようだ。
親戚が会した際は決まってウナギ屋に行ったが一人浮かない顔をしたかわいげのない子供であった。なぜ皆がそんなにウナギが食べたいのか、今でも理解できていない。

幼い頃、自宅近くの小料理屋に父親を迎えに行った。一枚板のカウンターに座った父親にすすめられて初めて「白子」を食べた。大人達は美味しそうに食していたが、子供には理解できない味覚だった。しかしながら白子のまずさよりも、母親でもない人を「ママ」と呼ぶ父親の姿の方が衝撃的だった。とにかく、それ以来白子は食べていない。

大人になると味覚が変わるとよく言われる。子供の頃に嫌いだった食べ物が突然好きになったりするらしいが、自分にとってその最たるは「茄子」だった。子供の頃から茄子のフニャッとした感触があまり好きではなかったのだ。
学生の頃、下北沢の飲み屋で酒豪の友人氏は焼き茄子を頼んだ。ショウガ醤油につけて食べる茄子は・・・美味しかった。今では茄子のみそ汁も漬け物も大好物である。

一番好きな食べ物を聞かれたら真っ先に「塩辛」と答える。それも吉田港(静岡県)の目の前にある「ひげ奴」の塩辛でなくてはいけない。本当に港の目の前にあるせいで小さい頃はその真っ黒な海原に脅えたものだ。
その店は船を所有していて、採れたてのイカのキモはオレンジ色に輝いている。お酒のお通しとして大人に出されるその逸品を食べた日から塩辛の虜になってしまった。家族の人数分の小鉢をむさぼり食う子供であった。後にお土産用の塩辛を最初に注文し、家族の静止も虚しく食事の前に一瓶食べ切ってしまうようになる。

東京に住んでいるとその味が恋しい。だから帰省した際は必ずと言って良い程お店に足を運んでいる。最早、他のどの塩辛にも満足できない。


本日の1曲
曇天と面影 / eastern youth


年度末の別れ

会社には人事異動というイベントがある。その詳細はイントラネットで知ることができるが、普段会話はしているものの名前を知らない人はいつの間にかいない状態に陥りやすい。
「ほらー、前よく喫煙所で会ったあの人だよ?」と同僚に確認するとあっさり他部署に異動になっていたりする。

これまでにも最後の挨拶が出来ないまま慌ただしく異動していった上司は何人かいる。仕事の愚痴や郷土話などで一時の息抜きを共にした「おじさん」達は遠く離れた支店や関連会社に異動していく。

先月末に自分の上司の異動が発表された。定年間近である上司氏が配属されてきた時、慣れない仕事で四苦八苦していた。この職場では彼は新人である。処理を中断しては上司氏は自分に助言を求めてきた。そして恐れ多くも様々なアドバイスをさせていただいた。上司氏は若造の自分に丁寧に頭を下げてから仕事に戻った。それから2年が過ぎ、その上司氏は自分のボスになった。

お別れの際にそのエピソードを話すと上司氏は照れくさそうに「そうだったかナァ〜」と頭を掻いた。上司氏は周りが見えない程、必死だったのだ。そしてことあるごとに彼のその習性は露になったが、部下達は苦笑いしながら負担をかけまいと努力していた。その真面目で気さくな人柄で彼は皆に慕われていた。

上司氏はいつものようにゆっくりと歩いて職場を後にしていった。もう会うのが最後かもしれないのに気の利いた言葉が言えず、おじぎをしただけだった。駆けていってお礼を言おうか迷ったが恥ずかしくてできなかった。彼の後ろ姿を見てなんとも言えない気分になった。
その日の夜、遅い時間に仕事が終わり同僚達の飲み会に顔を出したら酔っぱらった当の上司氏がいて、ひっくり返りそうになった。

年度末の社内はあちこちでおじぎをする光景が見られる。口々に感謝の言葉を述べ、頭を垂れている。遠くで見ていても退社する本人がなんとも言えない表情をしているのがわかる。
廊下でばったり会った上司や同僚に突如「今日までなんですヨ」と言われる。今までしたこともない握手をしたりする。連絡先も知らない相手であるから(この先このまま会わないかもしれないな)と思う。
金曜はその場面をいくつも経験した。繰り返されるその儀式はきっと皆をある種の感傷に引き込んでいるのだと思う。

それはお互いがこれまでで一番親密な顔を見せる瞬間でもある。
なぜ、別れ際にしか感謝の意を表すことができないのだろう。もっと感謝の言葉を日常的に伝えることが出来たならばよいのに、といつも思ってしまう。


本日の1曲
Nice To Know You / Incubus


『稲葉ウアー』

そう、確かにテレビを見ていない。数日前にセンバツのコラムを書いておきながら実際のところはトリノオリンピックも、他のセンバツの試合もまるで見ていない。今日雑談していた際、初めて聞いた言葉があった。

同僚「イナバウアーすごいよねぇ?」
taso「何、それ?」
同僚「え!イナバウアー知らないの!?荒川さんだよー?」
taso「あー、荒川静香さんね。(慌てて)知ってるってそれくらい!」
同僚「じゃ、何の選手か知ってる?」

彼女なりの常識クイズだ。しかもレベルは低いと思われる。
taso「知ってるって!(クールに)スケートでしょ・・・?」
同僚「すごかったよねぇ!あれ!」
taso「・・・(表情を伺う)」
同僚「え!荒川さん知ってるのにイナバウアー知らないの!?」
taso「イナバウアーは・・・知らん。(正直に告白)」

たまらず近くにいた同僚氏も話題に加わる。
近同「金メダル取ったんだよ。イナバウアー!」
同僚「やっぱすごいよね。イナバウアー!」
taso「ほぉー」
近同「日本人なかなかメダル取れなかったんだよねぇ。」
同僚「だからすごいテレビでやったんだよー」
taso「へー」

イナバウアー談義は白熱している。
taso「で、イナバウアーってどこの国の人なの?」

すると彼女達は何故か大爆笑している。
「ほんっとにテレビ見てないんだねぇ・・・!」と目を見開き、大爆笑かつ大驚きである様子。

てっきり「稲葉」さんという人の愛称だと思っていた。
スケート関係→日本勢はメダル獲得に苦労→しかしイナバウアーは金獲得→外人の強い選手→日本のメディアで散々報道→もしや日本人ではあるめぇか?
というそれなりの思考の流れがあったのだが説明したところで虚しいので、そっと胸にしまう。

同僚氏は「すごい、イナバウアー知らないで今日生きてることがすごい!」「海外旅行してたわけでもないのに。アハハ。高円寺でイナバウアー知らないってすごい!アハハー。」と変なテンションになってしまっている。

ひとしきり笑った後に彼女は「ジャック・バウアーの妹だよ。そそ。アハハハー」笑いながらどこかに消えていった。
今となっては笑い話だが、最初にそう言われたら「へー。あの人の妹オリンピック選手なんだぁ〜」とマヌケ面して信じてしまいそうで恐い。トリノオリンピックにも疎いが『24』も最初の数時間で挫折している。

他の同僚氏達にこっそり「イナバウアーって知ってる?」と聞くと決まって皆が体を仰け反らせたアクションをする。どうやらそれは技の名前らしい。

そして数時間が経過し、イナバウアーショックが過去のものとなりつつある頃、今度は別の同僚氏が「tasoさんの秘密知ってますよォー」とニヤニヤしているので「なにー?」とこちらもニヤニヤして聞き返すと「イナバウアー知らなかったでしょ?」と言われた。どうやらアハハーと消えていった同僚が吹聴したらしいが、その清純な彼女をニヤニヤさせてしまうとはイナバウアー効果は絶大である。

自分がちょっと知らないうちにある言語がスタンダードとして定着している。
そして本当に「イナバウアー」はそんなに有名なコトバなのだろうか?と未だに疑っている。


本日の1曲
Hung Up / Madonna


隣人は歌うのがお好き

また今夜も始まってしまった。夜の高円寺に響く歌声。今回はスナックのカラオケではない。隣人の、高らかな歌声だ。マイルームに突如「ウオォォーウゥ!」というシャウトが聞こえてくる。それは昼間だろうが夜中だろうが明け方だろうが、突如始まる。何かが彼に火をつけてしまった。とにかく隣人氏は歌うのが好きなようである。

特に明け方、静まり返る空間に突如響き渡るからタチが悪い。不覚にもその奇異な歌声が響いた瞬間、体がビクッとしてしまう。ネコ氏も耳をピンと立てている。いや、我々はそれが例のリサイタルの開始だとわかっている。一度始まってしまったらしばらく続く事を覚悟しなくてはならない。

我々の驚愕にお構いなしにリサイタルは続く。隣人氏はハマショーやミスチルをこよなく愛しているようだ。残念な事にあまり自分の趣味ではないが、そこまで大声で歌うところをみると、彼なりに思い入れのある楽曲群であるようだ。
隣人の動揺にも気付くことなく、彼は感情たっぷりに歌い上げる。CDに合わせて歌っている様子はなくアカペラ状態である。カラオケを忌み嫌う自分にはちょっとした苦痛と言える。他人の悦に入った歌声ほど不愉快なものはない。

毎日の就寝時刻は明け方4時〜5時の間が多い。自室で大声で歌を歌うにはあまり適さない時刻だ。しかし彼は歌うことをやめない。ベッドに入ってもその歌声は続く。おもむろにトイレに行き、水を流してみると一瞬歌声が怯む。ニヤリとしつつその場を離れ、再度ベッドに横になる頃にはリサイタルは再開されるのだ。仕方がないのでオーディオを再生し歌声をかき消す。
CDの音源と人の歌声はちょっとわけが違う。彼の場合感情がこもり過ぎている。ソレ、アンタの歌か!?と言いたい。
この階の住人は自分と彼だけである。なんの理由で夜中のリサイタルを開催しているのか定かではないが、これでは例え怒鳴り込まれても文句は言えない状況だと思う。騒音に寛容な自分が隣人であることを感謝して欲しい。

考え方を変えればこちらが多少大きな音を出しても彼は気にしないということだ。気が楽だとも言える。上階には住人がいるが下階は店舗のため、そこまでナーバスになる必要もない。壁が隣家と接していない特殊な造りも功を奏している。
しかしその状況下にあっても隣人氏の歌声ははっきりとマイルームに届いてしまう。ものすごい形相で熱唱しているはずで想像するとちょっと恥ずかしい。

我が家に頻繁に訪れる友人達は「また歌ってるネ」と苦笑いであるが、いちいち言及するまでもない日常の騒音である。
上階の住人達は迷惑ではないだろうか?しかし隣人氏のリサイタルが継続されていることを考えると、特に苦情もないようである。
彼はこのマンションの住人達に感謝すべきだ。


本日の1曲
My Evaline / Weezer


センバツ

最初に自分がまったくの野球音痴である事を告白しなくてはならない。プロ野球中継を真剣に見た事がない。あろうことかつい最近までセ・リーグとパ・リーグは常に対戦していると思っていた。野球ファンのみなさんは好きな球団がリーグ内でしか試合を行わないのは欲求不満にならないのであろうか?と真剣に疑問に思っている。野球のルールはおろか、そのシステムを理解できていない。

昨夜テレビ番組で春のセンバツに出場している沖縄県立八重山商工のドキュメンタリーを見た。離島にある高校の初めてのセンバツ出場。島の野球人口は少なく、部員もレギュラーを2倍した程の人数しかいない。

イガグリ頭の伊志嶺監督は当初、島の子供達に野球を指導していた。選手の成長に合わせるかのように指導の場を移し、八重山商工の監督に就任した。野球部員が小学生の頃からずっと野球を教え続けていることになる。
しかし高校の教員ではない為、指導の報酬として監督氏に支払われる金額は月額5万円。驚くべき事に朝と放課後の練習時以外はゴミ収集の仕事をしているという。
早朝の練習前にはプレハブの部室で大音量で長渕剛の歌を聴くのが日課。「生き様が自分と似ている」という。間違いなく長渕剛は監督の活力になっているようだ。

彼は野球にのめり込むあまり、家族を顧みず離婚。今は一人で借家に住んでいる。監督氏の自宅の壁には息子達の写真が飾られていた。長男は20歳の若さで他界、次男と三男は高校球児だったが甲子園出場の夢は叶わなかった。
息子が成し得なかった夢を父親は叶える事が出来た。彼はそれを誇らしく思っているだろうか。なんとなく後ろめたい思いもあるのではないだろうか。そんな表情をしていた。

昼にインターネットをしていると、ニュース速報に試合経過が表示された。(あ、昨日見た高校だ)とすぐにテレビの前に行き画面を睨む。見始めた7回の時点で横浜高校に7-1のリードを許していた。点数を見る限り逆転は簡単ではなさそうだ。横浜高校は野球の名門らしく、素人目にはその試合はもう終わったかのように見えた。

しかし8回の攻撃で八重山商工は一気に5得点をあげた。1点差に詰め寄った。テレビの画面に向かって無意識に声を上げてしまう。スポーツに疎い自分がいつもそうして声を上げてしまうのは決まってスポーツを観戦している時だ。

一丁前に手に汗を握り9回裏の攻撃を見守る。『2アウト、2塁3塁。2塁の走者が帰ればサヨナラです!』重大な局面である事に間違いなさそうだ。
打った!走者が走り出す。そして打ち上げたボールを相手校の選手がキャッチすると横浜高校の部員達が一斉にグランドに飛び出してきた。ポカンとその様子を眺めるが、どうやら試合は終わったようであった。終わる瞬間もわからないとは情けない限りである。

彼らを見る度、いろんなことを犠牲にしているんだろうなぁと思ってしまう。自分が経験した世代の彼らだけに、感情移入してしまうのだと思う。自分の高校時代のどうしようもなさを思い出したりする。そしてグランドを走り回る選手達に釘付けになってしまう。


本日の1曲
エントランス / ASIAN KUNG-FU GENERATION


リリー・フランキー 『東京タワー』

リリー・フランキーの『東京タワー』を読んだ。日本でこれほどのベストセラーは久しぶりなのではないかと思う。普段ベストセラー的作品には興味が向かないが、今でも書店のランキングで上位に掲げられているのを眺めてちょっと読みたい気分になっていた。
そんな折、お姉さんN氏が「外出できないほど号泣」したというのを聞き、ただならぬ雰囲気を感じて読み始めた。(この先本の内容に触れています)

大好きな「オカン」とどこで何をしているのかもわからない「オトン」。リリー少年はあちこちと居を変えながら少年期を過ごした。
そして自分も決して普通の家庭環境に育ったわけではない。幼い頃に両親は離婚し、お互いの家を期限付きで行き来していた。広大な病院の駐車場で父と母によって数か月置きに子供の「受け渡し」がされた。両親の問答を聞こえないフリをしてやり過ごした。どちらが自分の家なのかわからない状態だった。しかし大人に聞いてはいけないことのような気がして、無邪気を装った。自分もまた、抱えきれない悩みで悶々とした子供だった。

リリー氏は大学の先輩である。自分もまた立川や国分寺で学生時代を過ごした。合格発表で掲示板が設置された駐輪場も、玉川上水の桜の美しさも知っている。
2001年3月末に東京に降った雪のこともよく覚えている。引越当日に降った春の雪を彼は「オカン」のいる病室から眺めていた。自分にとっては単なるエピソードとして記憶に残っているその景色も、ある人にとっては一生忘れられない春の雪であった。

「オカン」が癌に侵されてからの文章は、高校1年生の時に他界した祖父のことを思い出させた。それは今までに自分が経験した一番身近な人物の死である。

祖父はスポーツ観戦が好きな人で、部屋からはいつもひいきのチームを応援する威勢のいい声が聞こえた。それはワールドカップ予選のドーハの悲劇のテレビ中継を身終えた深夜。自宅の廊下で会った祖父は興奮した面持ちで「惜しいっけなぁ」と顔を歪めて悔しがった。それが祖父と交わした最後の「普段通り」の会話だった。祖父は翌日に倒れ、病院に搬送された。

薬の副作用で一気に痴呆が進み、理解できない言葉を口走るようになった。看病していた祖母は相づちを打っていたが、突然別人になってしまったようでどうしてよいのかわからなかった。

祖父は自慢のおじいちゃんだった。年季の入ったギャグを言っては自分で楽しそうに笑い、ハイライトの両切りの煙草をおいしそうに吸った。刺身が大好物で祖母が食べたいものを聞くと決まって「さかな」と答えた。家族喧嘩が始まるとそっと自分を誘い、公園に連れていってくれた。
ひとりっこだった自分を可愛がり、小さい頃からの写真はコメントと共に全てアルバムにきれいに貼付けてくれた。祖父の書く字はニョロニョロしていて子供には何が書いてあるのかよくわからなかった。藤子不二雄のキャラクターが沢山描かれた凧を作ってくれた。それは6畳にも及ぶ超大作で長年に渡って実家の玄関に飾られていたが、よく見ると中には誰なのかよくわからないキャラクターも混じっていた。

祖父が亡くなった直後の病室にいても涙が出なかった。その時父親の涙は床にぽとっと音を立て、昼夜つきっきりで看病していた祖母はテキパキと立ち回っていた。
人間が死ぬということが理解できなかった。ほんの少し前までサッカーの話をしていた祖父はもう生きていない。
自宅に戻ったその日の夜、部屋のソファーに寝転がった。
ほんの少し前までサッカーの話をしていたのに、祖父はなぜもう話さないのだろう。白い壁を見つめていたらどっと涙が溢れた。

今でも祖父の死をなんとなく認識しているに過ぎない。非日常的な衝撃と対峙した時「嘘みたい」という感覚が襲うのはなぜだろうか。事態をまったく飲み込めないまま、ただその現実だけが浮遊しているようにそこにある。

大事な人を亡くすという経験は必ずやってくる。
「オカン」が死んだ後、リリー氏は渋谷の歩道橋の上から群衆を見下ろし、(この人たちはみんなそういう経験をして、それでも生活しているんだな)と驚愕する。
人々は常に悲しみに暮れているわけではない。しかしながら世の中はこんなにも悲しい別れに溢れている。それに気付いた時、それまで無表情に見えていた街の景色は、どす黒いマーブルにうねりはじめる。

誰でも家族に後ろめたい思いはある。だからこの本を読む人全てにそれぞれの心当たりがある。彼が望んで経験したわけではないその物語は、おそらく彼が思っていた以上に深い共感を呼んだ。ある個人が自分を語ることは決して無意味ではない。


本日の1曲
Ob-La-Di Ob-La-Da / The Beatles


雑木林で花見

昨年は井の頭公園で花見を企て、自分と友人S氏が場所取り役をかって出た。
昼過ぎに高円寺駅で待ち合わせ、ホームセンターのオリンピックで花見マットを購入。銀色の大きなマットを抱えて総武線に乗り込む。なんだか電車が混んでいる。吉祥寺駅で下車すると皆がざわざわと公園口に向かって歩いていく気がする。

公園に続く狭い道は大混雑だった。クーラーボックスを抱えたお父さんや子供達。昼間のため家族連れが多いようだ。焼き鳥屋のいせやはもくもくと白煙を上げてトリを焼きまくっている。
やっと公園に足を踏み入れたが、早くも尋常でないガヤガヤ感であった。荷物を抱えながら公園内を歩くが平らな地面は隙間なくシートに覆われている。盛り上がった木の根にも、土の斜面にも。すごく斜めになって花見をしているカップルがいた。そのヤケクソ的なシチュエーションに驚愕する。

そして敷かれているシートのうちの半分以上はまだ人が「乗っかって」いない。ブルーシートの数々は落ち葉やらゴミやら土やらでずっと前からそこにあるような形相を呈していた。昨夜の残骸なのか、それとも今夜の場所取りなのか・・・しかし勝手にマットを退かすわけにもいかない。やるせない気分で公園を歩き、我々は途方に暮れた。

池を3/4周したあたりでそこだけ人がいない空間を見つけた。桜並木のメインストリートからは10メートルほど距離があり、しかも頭上にある木は桜ではなかった。しかし今となってはこれ以上の場所は望めそうにない。
「桜は歩いて見に行ってください」という花見にあるまじき提言を迫られる場所だったが、こうして我々の場所取りは終焉を迎えた。

友人S氏は機敏に立ち回り、銀色のマットとブルーシートを敷いた。中央に彼女が家から持ってきたオリエンタルな敷物を敷くと、なんだかサマになってきた。当初の(仕方ないか)という諦めが愛着に変わってきた。

まだ友人達が集まるには時間があるが、早々と買い出しに出掛けることにした。花見客でごった返す通りをのろのろと歩き、駅を抜ける。サンロード商店街の西友には花見客用の総菜の数々がどっさりと積み重なっていた。アルコール類や寿司、おつまみをどっさり購入し公園へ戻る。
スターバックスのカフェインを摂取しながらシートに座っていると、もはや我が家のような感覚に陥る。場所、あるもんネーという自慢げな心持ちになってくる。人通りも少なく、喧騒もどこか他人事のようだ。頭上の名も知らぬ木が適度な日陰をつくり、積み重なった落ち葉のせいでシートの上は心地よかった。持ってきた文庫本を寝転がって読み、おつまみをつまむ。

そのうち続々と友人達から連絡が入り出す。目印的なものがないため、ティッシュの箱にボールペンで地図の絵を書いて写メールをする。

夕暮れが近付くにつれその一帯は暗くなり始めた。ちょうちんや外灯のあるメインストリートと違ってこちらは雑木林である。昼間は好意的に日光を遮ってくれていた樹木であったが、今となっては暗闇に加担してしまっている。日が暮れてからのことをちっとも考えていなかった。

その時、おもむろに友人H氏が現れた。彼は「要るかなー、とオモッテ」と控えめに登山用リュックからポータブル・ガス灯を取り出した。歓声を上げざるを得なかった。シート中央にランプを設置すると、辺りが明るくなった。
その日は最終的に十数人が集まった。お互いが働くようになってからこうして一同に会するのも難しくなっていた。初めて会う人、久々に会う人、いつも会っている面々。暗闇の中にぼんやりと個々の顔が浮かぶ。まるでどこかの山荘にいるようであった。

一通り宴を楽しんだ後、警備員達が巡回し追い出しを始めた。付近住民も多い井の頭公園は撤収の時刻も早い。片付けをした後、駅近くの居酒屋に入店。朝まで残ったのは5人だった。

そして今になっても、我が家の玄関にはその時購入した銀色のマットが立てかけてある。普段インドアの自分にはそれ以来使い道もなく、巨大なマットは他に置き場所がない。
どうやら今年は桜の開花が早いらしい。ニュースキャスター達は口々に「今年は早咲きです」と情報を提供するし、他人の世間話を聞いていてもやはりその話題が語られる。この時期の日本人共通の話題はやはり桜なのだ。


本日の1曲
桜のダンス / NUMBERGIRL


苦渋の決断

左耳に家の電話の子機をあて、右耳と肩の間に携帯電話を挟み、右手でプレイガイドのホームページをリロードしまくる。チケット販売当日の誰にも見られたくない必死な姿である。それでも電話も、サーバーも繋がらない。繋がった頃には当然チケットは売り切れている。今までも何度もこの方法で挑んで来たが人気公演は取れた試しがない。
こうして「行きたくても行けない状況」は人気のあるミュージシャンを好きになってしまった人々の悩みのタネである。

今日はあるバンドのツアーチケット一般発売日だった。昨夜友人と電話でお互いの闘志を確認し、チケット争奪戦に挑む誓いを立てた。
にも関わらず、あろうことか寝坊してしまった。10時開始の争奪戦に今更参加できるわけもなく素直に友人氏に謝罪のメールを打つ。返事がないので電話をしてみると友人氏は10時直前から電話を掛けまくったが繋がらず、ホームページもアクセス集中で立ち往生し、争奪戦に敗れふて寝していたのだった。「ぜんっぜん繋がらないんだヨォ!」とご立腹の様子。

人気アーティストのライブに行くのは一苦労なのである。最早、一般発売ではチケットが取れる気がしない。だからありとあらゆる先行発売に群がってみる。どうしてもライブに行きたい。だから関東で行われる公演全てに申し込む。そして全てに落選。
ここまで取れない状況に陥ると頭をかすめるのはダフ屋の存在である。

ライブ会場には決まってダフ屋がいる。大きな会場にはもちろん、ある程度のキャパシティのライブハウスには必ずいる。この人達、このバンドが日本人か外人かもわからないんだろうな、というような風体のおじさん達がだみ声で話しかけてくる。

正規外価格での販売は気持ちのいいものではない。チケットを持って会場に向かっている時は無視できても今現在手元にはチケットが無い。
どうしてもライブに行きたいファンの皆さんが完売の虚しいアナウンスを聞いて肩を落としている。時を同じくして、インターネット上には当のチケットがどっと出品される。当然ながら高値がつく。首都圏の会場ほど高額が提示される。
売り手は音楽好きの価値観にも精通しているようで小さなキャパシティのライブハウスになると更に高くなる。インターネットオークションを眺めていると残り数分のところから驚くべき争奪戦が繰り広げられ、穏やかではない金額でチケットが落札されていく。

ライブが見たいという純粋な気持ちはなかなか叶わない。対バンでもフェスでもなくワンマンライブを見たいという気持ちはファンなら誰しも持つ感情だと思う。
インターネット上でチケットを仲介する会社がある。本日取り逃した1枚3800円のチケットが2枚17000円で出品されていた。契約が成立すれば倍以上の価格を支払うことになる。画面の前で頭を抱える。しかしながら昨年から待ち望んでいたツアーの東京公演である。落胆する我々にはお買い得にすら思えてきた。友人氏と話し合い、そのサイトから申し込みを済ませた。

ダフ屋行為はアーティスト側からすれば言語道断。もちろんこちらも手を出したくはないが「チケット譲渡掲示板」を覗いたところで同じようにチケットを求める人々の悲痛な書き込みが並んでいる。大きすぎる会場でのライブを好まないバンドなら事態は深刻だ。

以前、手元にチケットが余った際にファンサイトの掲示板を利用して定価で譲りますと書き込んだことがあるが、すごい早さで続々と返信が来た。だから一番早くメールが届いた主に譲ることにした。できればダフ屋を介さず、善良なファン同士で助け合いたいものである。

人の人気や才能に便乗して金儲けをしようとは随分したたかな人々だと思う。今まで何十回もライブに足を運んだが定価以上の値段を出すのは初めてだ。遂に自分の中のモラルを破ってしまった気がしてなんだかそわそわしてしまう。


本日の1曲
Juicebox / The Strokes



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2/3 『チケット争奪戦


トーカイ的食文化

友人と話していた折、東京には「金ちゃんヌードル」が無いことを確信した。同じく静岡出身の友人は無類の金ちゃん好きでコンビニに行くたびに探していたという。我々が東京に上京してから数年が経過していた。「やっぱりないよネ!?」とその場はわけのわからぬテンションに包まれた。お互いが(無いナー、やっぱり無いナー)と東京の片隅で疑問に思っていたことだ。

金ちゃんヌードルは静岡県では有名なカップラーメンだ。あっさりした醤油味のスープに真っ白い麺、小さなエビとふわふわの卵が浮かぶ。高級系カップラーメンと一線を画すその「まず旨い」感覚は食べたことのある人ならわかっていただけると思う。

ある友人氏が金ちゃんヌードルを食べながらおもむろにプラカップを分離し、透明になったカップを「ほれ、スケルトン!」と自慢気に披露された時、自分がまだ知らない金ちゃんの秘密があることに嫉妬した。言うまでもないが、彼も静岡出身である。

静岡では日常的に食べていた金ちゃんヌードルも、東京ではお目にかかれない。少なくとも今までには見たことがない。だから自分の中のナンバーツーである赤いきつねで我慢している。
帰省した際にそのことを祖母にこぼすと、後日箱詰めされた金ちゃんヌードルがどっさり送られてきた。うちの家族はいつもこうだ。一度好きと言ってしまったら求める量の数倍を提供してくれる。

実家から歩いて10分足らずのところにジャスコがあった。今では廃墟と化したジャスコだが、幼い頃は毎日のようにその「デパート」で遊んだものだった。商店街の中央に君臨するジャスコは自分の記憶から切っても切り離せないかつてのプレイグラウンドであった。
文具店でおもちゃのついた鉛筆を買い、地下の自動販売機で300円の風船を買った。硬貨を入れると空っぽの風船にプゥーッとガスが注入された。小学生に300円は高価だったがその過程がおもしろくてついつい買ってしまうのであった。

そしてジャスコの4階には「すがきや」があった。食券を購入しだだっぴろい食堂でラーメンをすすった。ちょっと高いところから景色を見ながらラーメンを食べるのはわくわくした。
観葉植物がポツポツと配置された閑散とした空間に、色気の無い大きなテーブルが並んでいる。厨房でラーメンを茹でるおばさんを眺めながら半券を片手にラーメンを待った。

すがきや」は東海地方にしかないと思われる食堂型飲食店だ。銀色のスタンドに入ったソフトクリームや白いスープのラーメン、看板にはお馴染みのキャラクター、すがきやスーちゃん。すがきやのラーメンにはラーメンフォークがついている。そのレンゲは半分フォーク、半分スプーンという変わった形をしていた。子連れが多い客層を反映してのものだろうが、すがきやの象徴的アイテムだった。

東海地方で生まれ育った自分には東京の澄んだ色のおでんが驚きだった。コンビニでバイトをしていた高校時代、そのスープの色を見ては不思議に思った。静岡ではおでんのスープは茶色い。
駄菓子屋では当然のようにおでんがあり、人々はおやつ代わりにおでんを食べる。プラスティックの白いトレイに乗せたおでんに「ダシコ」(鰹節の粉末)をかけて食べる。自分は底に沈んでもはや黒色に変色した「もつ」を好んだ渋い子供だった。

東京で生活しているとそのおでんが恋しくなる。おでんの茶色は何の色だったのだろうか?ある日、祖母におでんの作り方を教えてもらおうと実家に電話を掛けた。すると祖母は「スーパーでおでんのもとン売ってるでそれで作りゃーいいら」とあっさりとした返事だった。素直にスーパーで粉末の「おでんの素」を買い具材を煮てみたものの当然ながら静岡のおでんとは全く違うものが出来上がった。釈然としない気持ちのまま鍋をかき混ぜた。

そして昨夜は名古屋出身のお姉さん氏のナビゲートで新大久保の手羽先屋に赴き、思い切りトリを食らった。これまでは居酒屋のサイドメニューの「焼き鳥盛り合わせ」に付いてくる手羽先くらいしか食べたことがない。
手羽先の話題になると彼女は決まって食べ方を説明してくれる。「こうやって縦に持つのヨ」というジェスチャー付きだ。なるほど、手羽先を口に入れ、歯ですくようにすると手元には骨だけが残る。手羽先はアグレッシブな食べ物のようだ。新大久保で体験した手羽先はスパイシーで非常においしかった。

同じ東海地方出身というだけあって、彼女は「金ちゃんヌードル」も「すがきや」も知っている。そして名古屋に帰省した際にはお歳暮のような立派な「味噌煮込みうどんセット」をプレゼントしてくれる。その容赦ない濃い味にはやはり安心してしまう。それは東海人同士のちょっとした連帯感である。


本日の1曲
Everything Flows / Teenage Fanclub


不確かな自分の、確かな上京物語。

見慣れたモスバーガーの看板がある。知らない街で知っているものを見つけては安心した。雑多な風景に人々が溢れている。それは今までの自分とは接点を持つことの無かった日常の風景だった。
その日、田舎の高校生は東京にやってきた。来春の合格を目指して早くも春期講習を受講することになっていたのだ。ちょうど10年前の3月、自分は浪人生として東京にやってきた。

現役受験では希望していた二つの美術大学に不合格だった。高校2年の時、親に相談もせずに静岡市内の美術研究所に通い出した。受験が近づくにつれ通う回数も増え、直前にはほぼ毎日その研究所で絵を描いた。
それまで家族は事あるごとに県内の大学に行き、卒業後は家業を継いで欲しいと匂わせていた。ところがいきなり美術大学を受験したいと言い出した。その時点で家族の計画は何度目かの狂いをみせた。しかしいざやり出してしまえば反対することはない。いつもそうして家族は自分の我が儘を許してくれた。

同時期に入塾した友人は明らかに上達していき、ほとんどのクラスメイトは自分よりもうまいデッサンを描いた。講評の時に並べられた自分の絵には迫力がなかった。それは頭ではわかっていても思い切りが付かなかったせいだ。普段の自分の度胸の無さがデッサンにも現れている気がして、ずっと自分の絵を好きになれなかった。

だから大学に落ちても大して驚かなかった。自分に届いた不合格の知らせはさておき、その研究所で浪人していた先輩達が合格したことが嬉しかった。彼等はいつも朗らかなムードメーカーで面白くて優しかった。そして誰よりも真剣に絵を描き、下手くそな後輩の講評にも真剣に耳を傾けた。
浪人するということは日々プレッシャーと戦うことなのだと彼等を見て思った。だから合格の知らせを受けて一気に弛緩したその表情を忘れることが出来ない。

実は受験した大学のうち1校に合格していた。一応デザインという言葉が付いた学科だったが、試験は筆記のみでそれは美大とは言えない。その頃はどうしても武蔵野美術大学か、多摩美術大学に入学したいという思いが強かった。
家族は滑り止めとしてその大学の受験を勧めた。最初から入学する気がないなら受験しなければよかったのに、と今では思う。しかしその不確かな受験というイベントは高校生を不安に陥れるのに充分だった。受験できるならば受けておいて損はないと思ったのだろう。

自分で生み出してしまったその状況だったが、進路の決定を喜ぶ家族に入学の意志がないことをなかなか伝えることが出来なかった。ある日、父親はおもむろに研究所に現れ、先生達に挨拶をしてまわった。それを見て一層気が重くなった。若い講師氏は自分の浮かない表情を気にしていた。

入学金の納付期限が明日に迫った日も、研究所でデッサンを描いていた。未だに親と話し合いがされていないことを知った若い講師氏に「なんで話さないんだよ!すぐ帰って親父さんと話してこい!」と研究所を追い出された。

暗澹たる気分で電車を乗り継ぎ、自宅に帰った。応接室で父親と向かい合って座り、合格していた大学に進学する気がないことを告げた。「親に恥をかかせるな!」と父親は泣いた。父親は自分の気持ちに気付いていたのだと思う。
父親の顔をまともに見ることが出来なかった。「ごめんなさい」と声にならない声で呟いて逃げるようにその場を後にし、部屋に籠もった。

それはとても短い時間だったが、こうして父親と話したのは初めてだった。甘やかされ、自分の決めたことに反論されることもなかった。
そして自分の考えを正直に親にぶつけることが無かった。子供に甘い、優しさを絵に描いたような父親だったが、お互いどこか遠慮していた。そうして正面から向き合うことをなんとなく避けてきたのだと思う。

そして子供の浪人に腹を括った家族が東京に上京することを勧めてきた。驚いた。
美大受験にはデッサンや色彩構成などが出題される。採点の不確かなその「問題」を紐解くためにはより多くのパターンを見て勉強する必要がある。人の数だけアイデアはある。「どうせやるなら東京に行きなさい」と父親は言った。

大学に合格する気がしていなかったのにも関わらず、不合格だったときのことは何も考えていなかった。憧れていた東京生活はやや強引に、絶好のタイミングで目の前に用意された。乗っかるしかないと思った。

翌日研究所を訪れ、講師氏に東京で浪人することを告げた。彼は残念そうに肩を落とした。彼は既に、自分の浪人生活を支える覚悟をしていてくれたのだということに気付いた。自分ですら昨日までは東京で浪人するとは思っていなかった。彼の表情を見て大事な人を裏切ってしまったような、申し訳ない気分でいっぱいになった。
研究所の講師陣は魅力な人達だった。面白おかしく初心者の自分に絵を描くことを教えてくれた。美大に入学する為に決まりきったデッサンを描く疑問をぶつけると一緒に悩んでしまうような人達だった。真面目と不真面目を行ったり来たりしながら色んな表情を見せる彼等のような大人が素敵に見えた。今でも本当に感謝している。

めまぐるしく上京が決まったせいで、ゆっくりと物件を決める時間はなかった。祖母は分厚い予備校のパンフレットに紹介されていた近隣のマンションの写真を指さし「ここでいいら?」と確認するとすぐ予備校に電話を掛けた。ダイニングテーブルでぼーっとしている間に驚くべき早さで新居が決まった。

引越当日は静岡から父親が運転する車で東京に向かった。父、母、祖母と助手席に座った自分。
荷物を運ぶ業者のトラックが新居に到着し、狭いワンルームに洗濯機、机、布団、コンポを運び込んだ。その後予備校に挨拶をしに行った。家族は丁寧に講師陣に頭を下げた。

その日祖母は近所のうらぶれた電器屋で14型のテレビを買ってくれた。窓際のコンポの上にテレビを乗せた。それは実家にあるどのテレビよりも小さく、新品なのに頼りなかった。そうして一通りの段取りが終わると家族はあっさりと静岡に帰っていった。

見送ったあとに部屋へ戻った。簡素な箱形の部屋に取り残された小さなテレビを上から見下ろす自分。これからの生活を案じる暇も無くどたばたと上京し、心の準備がないままにひとりになった。来年の合格が保証されていない浪人生という不確かな身分で遂に東京生活は始まった。


本日の1曲
東京 / くるり


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1/25 『5.5畳ワンルーム