高円寺の冬のアルバム
たとえば缶ジュースが飲みたくなってマンションの階段を降りて自動販売機に行くと、そのまま近所を散歩したくなることがある。それにしても部屋着のままだし、と部屋に戻れば、もう外に出るのが面倒になってしまう。いつもそんな調子なので、近所の景色はなんとなく見ることがない。
東京では形の整った街路樹を見るばかりで、ぼうぼうと茂り放題の樹木を目にする機会はほとんど無い。ここでは地滑りの心配も無いし、水はけが悪くて何日も乾かない泥のたまりに顔をしかめることも無い。行儀良く植わった植物を見ると、シュミレーションゲームでマス目に植えられた木を見ているような気持ちになる。植え込みのツツジは1マスから。4マスあったらケヤキの木。
その日、スーパーでの買い物のあとふらっと神社の境内に入ってみた。朝晩通りかかる神社なのに、境内に入ったことは数回しかない。我が家に遊びに来る友人達と、『こんなところに神社があるんだ。』『そうなんだよ。』というやりとりの元、何度か見学した気がする。
神社のすぐ前は車道になっていて、雨が降れば無数の銀杏の葉がコンクリの地面にぺったりと張り付き、翌日になれば乾燥した落ち葉が押し花のように路面に定着している。そう。毎日見るのは足元の落ち葉だった。だから休日の午後に鳥居の近くの大きな木をしげしげと見上げてみた。シリアルやらキャベツやらの入ったレジ袋を下げて。
12月の銀杏の木は大方の葉を落とし終えたみたいだった。遠目にもわかる先端の乾燥した枝の有様と、薄水色の空は紛れもない冬の景色で、こんなに近くにそんな景色があることに今更驚いた。そしてその時、どうしようもなく自分が時代遅れな人に思えてきた。
こんなところに佇んでいるのは自分だけではないのか。皆はもう違う場所に行ってしまったのではないか。自分が都会の景色の郷愁に浸っている間に暖かな安らぎを手に入れたのではないか。そんな風に思えて少し寂しくなった。
銀杏の木を見上げたまま体を反らせると冬の薄い水色の空が見える。ついでに更に更にふんぞりかえると、枝や白いマンションの外壁がカメラの四角い液晶画面に覆いかぶさってきた。
冬らしい空を目の当たりにし、東京には空が無いという有名なフレーズを闇雲に信じすぎていたのかもしれないと思った。この神社は狭いけれど、その印象の良し悪しに関わらずここにはここの空があって、冬の景色があって、自分はあの詩作の主人公ではないのだ。もっと色んな東京を見たいと思った休日だった。
本日の1曲
BYRD / EGO-WRAPPIN’
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