4月 1st, 2007 by taso
昼過ぎに高円寺の自宅を出発。環状七号線を南下して、青梅街道を横断、暫くすると京王線の高架が見えてきた。この辺りは笹塚駅周辺である。
ガードをくぐってさらに直進、渋谷駅方面へ続く井の頭通りを左折する。この先はアップダウンが続き、坂をいくつか超える。
今週末が桜の見頃であるということに気がつき、今日の行き先を代々木公園に決めた。
大勢の人々がお弁当のバスケットやレジャーシートなどを持ち、園内へ続く坂道を上っている。道路に押し寄せるの大量の車両をかき分けながら、自転車で坂を駆け上がると段々と騒々しさが増してくる。
公園をぐるりと囲む遊歩道では多くのバンドが演奏中であった。遊歩道には等間隔にバンドが位置していて、あらゆる方角から多様な音楽が混ざり合って聞こえてくる。
激しく頭を振る少年少女、演奏をビデオカメラで撮影するギャラリー。外国人は彼等のCDを買い求め、おじさんは爆音をもろともせずに読書を続けている。
若い大道芸人を囲む人の輪に加わる。マイクを装着した若者は、器用に後方のオーディオ装置を操作しながら、間髪入れずに次から次へと大道芸を披露する。芸をしながら彼は喋り続け、失笑と歓声を交互に巻き起こしていた。
門をくぐって園内へ入ると、さっそくトイレに100人位の人が並んでいた。今週末、東京ミッドタウンに行くよりも、代々木公園の花見を選んだ人達だ。
ガヤガヤと騒々しい中央広場の脇を自転車をひきながら歩く。隙間無くシートが敷き詰められたシートには、顔を赤くした人々が宴会の真っ最中であった。時折大量の桜吹雪が舞い、皆が宙を見上げて歓声をあげる。
とにかく人が多いために、園内の移動にも時間がかかる。そのうち北側のサイクリングコースに合流。心おぎなく自転車を走らせ、サイクリングセンター付近まで一気に移動。雑踏から少し離れたこの付近にもぽつぽつと人が寝転がっている。
売店近くの雑木林でようやく休憩。遠くからは花見客の賑やかな声と、アンプから放出されるロックミュージックと、屋外レイヴとおぼしき電子音が聞こえる。フリスビーやバドミントンを楽しむ若者も多い。喧騒を遠くに聴きながら、木の幹にもたれ掛かかっていると、去年行ったFUJI ROCK FESTIVALを思い出した。
毎朝の通勤時、山手線が原宿駅を通過し、渋谷駅に近づくと宮下公園の満開の桜が見える。普段はブルーシートだけが目につく味気ない公園も、いつの間にか桜の季節を迎えていた。
毎日夜まで続く仕事に疲れ果てて、街の景色に触れることも忘れていた。そういえばもう4月になった。
本日の1曲
DOWN TOWN / SUGAR BABE
3月 24th, 2007 by taso
考えてみると、自分で自分に「名付ける」行為とは奇妙なものである。
インターネットの世界では、ハンドルネームが実名と同等のアイデンティティを持つ。ハンドルネームはその人の印象を左右し、発言と合わせて個人を想定するヒントになったりする。
”インターネットの世界では皆ハンドルネームを使う”、という常識を知ることになったのは、今から8年ほど前、ひとり暮しの我が家にインターネットが開通した時だった。「ピー・・・ヒョロロロー」という接続音が懐かしいアナログ回線の時代である。
その物珍しさから、毎晩インターネットに釘づけになった。そのうちネット仲間ができ、掲示板へ書き込んだり、チャットルームへ入室する機会が訪れた。インターネット参加の到来である。ともなればなんらかの名前が必要になる。
当初はその場しのぎの名前を適当に名乗っていた。岩井俊二監督の『Love Letter』という映画には、不意に名前を聞かれた主人公が、目の前の本棚にあった”林真理子”と”吉本ばなな”を組み合わせて咄嗟に「林なな」と名乗るシーンがある。例えるならば、その感じによく似ている。
当時大ファンだったナンバーガールというバンドの新譜お知らせチラシがきっかけで”黄昏”と名乗るようになった。それは油性マジックでぶっきらぼうに書かれた飾り気の無さ過ぎるチラシだったけれど、文末にあった「それでは黄昏」という言葉に心打たれてしまったのである。
それからは、個人的にその言葉を使いまくっていた。何とも奇妙な語幹に惹かれてしまった。それに黄昏時に黄昏れるというのは、自分の性にもあっている気がした。
しかし”黄昏”や”tasogare”は、ID申請などの際に重複してしまうこともあった。そこで生まれたのが”taso”である。しかるに、”taso”は黄昏の”taso”である。
やはり妙な語幹を持った”taso”というハンドルネームは定着して、今では自分の一部になりつつある。まさに「実名と同じアイデンティティ」そのものになった。
本名に起因したあだ名はもちろん、一見なんの脈略も感じられないような奇妙で唐突なHNを持っている人も多い。ハンドルネームが実名と大きく異なるのは、言語圏すら超えて無数にある単語を選び、少々突飛な名前を名乗ろうと、その理由を問いただされるケースが少ないことだ。
皆は自分にどうやって名付けているのだろう?
本日の1曲
URBAN GUITAR SAYONARA / Number Girl
3月 15th, 2007 by taso
お気に入りのコーヒーショップを見つけることは、新しい土地で働き出してからの最初のミッションと言えなくもない。ランチを食べる店は”日替わり”であるけれど、食後に駆け込むコーヒーショップは大体決まってくる。
なぜ毎日カフェに行くか?全てはiPodで音楽を聴き、ブログの原稿を思案し、おいしく煙草を吸うためである。そしてそのポイントをクリアできる店は意外に少ない。
喫煙席が用意されていて、テイクアウトできるカップで提供してくれる店、といえばいくつかのコーヒーチェーンが浮かぶかもしれない。
文字をを書くことを考慮するとテーブルががたついていてはよろしくない。リラックスするためには他人と視線がぶつからないことが望ましい。それに会社から近いことも。
以前の職場に勤務していた5年の間、ほぼ毎日通い続けていたコーヒーチェーンが会社近くにある。喫煙席も用意されていて、店員はよく教育されている。働き初めて最初の一週間はその店に駆け込んでいだ。
味もサービスも問題ない。しかしこの店の難点は「とても混雑していること」だった。
昼時ともなれば、付近で働く人々でごった返す。運が悪いと飲み物を持ったまま席が空くのを待たなくてはならない。誘導係の店員氏がスタンバイするのは駅に近い店舗限定のサービスかもしれない。
この付近にはもう一件の某有名コーヒーチェーンがある。そこに自分好みのドリンクが用意されているのはわかっていても、スモーカーはその店を選ばない。全席禁煙なのだ。
その混雑に辟易して、ある日駅とは別方向に歩いていると別のコーヒーチェーンを見つけた。駅から少し離れた場所にあるために、店内は幾分空いている。ここならば満員で座れないこともなさそうに思えた。
それにあろうことか1階は全席喫煙席である。喫煙席がじわじわと縮小されている都市部ではなかなかお目にかかれない光景である。客層はサラリーマンが多く、店内の喧噪も緩やかだ。
レジにて注文をすると、覇気のない店員がレジを叩く。店構えの割には値段も高い。彼女達はしかめ面でレジを打ち、にこりともせずにドリンクを渡し、淡々と食洗機を操っている。その行動全てはカウンターの中で完結していて、フロアに店員が出てくることはほとんどない。
テーブルやイスは曲がったままで誰も直さないし、客が去った後のテーブルを拭く者もいない。この店には総じて覇気がない。
しかし少なくとも、この店に圧迫感はない。トレイを高く掲げて通路を移動しなくて済むし、窓から外の景色を見ることもできる。
ドリンクの下に敷かれた無用なチラシは少し気を滅入らせるけれど、ノートを忘れた日はこうして原稿も書ける。
当分の間は、この店に通い続けることになりそうである。
本日の1曲
Pop Is Dead / Radiohead
3月 9th, 2007 by taso
困ったこれもだめか。
そうかDockは無いんだった。
ところで日本語入力はどこで切り替える!?
さっそく立ちはだかったのはMacとWindowsの壁、である!
その壁がここまで切実に迫ったことはない。
入社当日、自分のデスクに案内されるとそこにあるのは真新しいコンピュータマシン。その存在にテンションがあがる。これからはこのマシンが頼もしいパートナーとなってくれるだろう。
しかしその喜びも束の間。最新のオペレーションシステム、Vista搭載のそのマシンは言うまでもなく”Windows”なのである。
IT企業に転職して一週間。異業種への転職は、何もかも勝手が違う。なにより驚いたのは、受信メールの多さだ。社内外問わずメールは1日に軽く100通を超える。重要かつ緊急の報告も含まれているため、仕事を進行させながらもそれらのメールに逐一目を通さなくてはならない。
プロジェクト毎にメーリングリストは用意され、それぞれの仕事の進行状況が報告される。ミーティングや面談の予定も全てメールのやりとりで決定される。隣に座っていても、目の前に座っていても、コミュニケーションは基本的にメールクライアントを介す。
インターネットでの情報収集も仕事のひとつである。入社に際しての紙資料の配付は最小限に抑えられ、書類の申請や庶務関係に至るまで社内のルールは情報は全て社内Wiki(文書を投稿後、追加・書き換えが出来、社内で情報を共有できるシステム)に記載されている。何から何まで、ウェブブラウザを操れないことには業務が進まない。
慣れないウェブブラウザに戸惑い、Wikiを確認する精神的余裕無きまま、入社日から怒濤の業務に就いた。
ところで、会社のWindowsマシンで使用しているメールクライアントはThunderbird、WebブラウザはInternet Explorerである。自宅ではここ何年もインターネットブラウザはSafari、メールクライアントはMailを使用している。どちらもApple標準のソフトウェアである。
20歳の時にMacを購入して以来、Mac一辺倒で今に至っている。美術大学に通っていたせいか周りの友人知人も皆Macを使っていた。その後、カラフルなiMacが発売されて周りのMac所有率は更に高くなった。大学内でWindowsマシンを見かけることもほとんどなかった。まるでMac以外の選択肢は初めからないみたいに。
Windowsマシンを前にして初めて、自分が「普段からショートカット(コンピュータに少ないキー操作で指示を出す方法)を結構使っている」ことに気がついた。メニューバーのプルダウンを彷徨うより、ショートカットを覚えた方が操作が楽で、効率が良い。しかし困ったことにWindowsとMacintoshではショートカットキーが異なる。
Mac OSXではブラウザの上方バーをダブルクリックするとウィンドウは瞬時にドックに吸い込まれるし、command+Hでアプリケーションを一時的に不可視状態にすることも出来る。command+Hのショートカットは複数のウィンドウを展開するウェブブラウジングには欠かせない。個人的にはコピー(command+C)&ペースト(command+V)に次いで使う頻度が高いくらいである。
右手はマウスに、左手はcommandキー周辺に。ショートカットを使いこなし、インターネット閲覧には慣れているつもりだった。閲覧時間が長ければ長い程、無数に開いてしまうウィンドウも用が済んだらcommand+Wで素早く閉じる。ひとつのページ毎にひとつのウィンドウが開いている状態が「好み」で、最近の主流であるタブブラウズ形式には慣れていない。
まだ慣れない職場環境に加えて、マシンの操作がままならないことでじわじわと焦りが襲う。そしてその間にも続々と仕事の依頼メールが到着する。ショートカットは弾かれ、思いも寄らない別の指令が下される。その度に展開される心当たりのないウィンドウを何度も閉じながら、いたたまれない気分になる。
今、この瞬間に完全にインターネット初心者に成り下がっている!
帰宅してから調べてみると、Windows OSにおいて、ショートカットの要となるのは「command」キーではなく、「control」キーであるようだった。
その翌日、機転を利かせてcontrol+Hを押すが、履歴が表示されるだけで画面は隠れない。「H」はHideの頭文字、Historyが見たいわけではない。
この一週間Windowsと格闘し続けたおかげで、自宅のMacでショートカットを試みる際、無意識に左端のcaps lockキーに手がいってしまうようになった。それはWindows必死に覚えたcontrolキーの指ポジションである。もちろん、それを押してもMacでは何も起こらない。ただ虚しいエラー音が今宵も鳴り続けている。
自己紹介と歓迎会ラッシュは過ぎ去った。しかしWindowsには今だ困惑しっぱなしである。
本日の1曲
Over And Over Again (Lost And Found) / Clap Your Hands Say Yeah
3月 2nd, 2007 by taso
”働いているうちに、その街の人になっていく”
少し前に駅で見かけた求人雑誌の広告のコピーはやけに印象的だった。
新宿御苑でアルバイトをしていた時も、新宿副都心で働き出した時も、勝手を知らないエリアに飛び込み、やがてそのエリアが日常の一部になる感覚を味わってきた。その広告のコピーは自分が何度か味わってきた実感が含まれていて、静かなインパクトがあった。
今日から渋谷の人になった。通勤定期だって買い直した。これまで縁があまりなく、華やかさを倦厭していた渋谷で働くことになったのである。
高円寺に越してきてから渋谷がぐんと近くなった。映画館や、ショッピングに行く機会が増えてはいた。友人宅との中間地点で会う時は渋谷が選ばれることもあった。
しかし渋谷に向かうのは、ライブがある時や単館上映の映画を観に行く時くらいだった。デパートやショッピングビルは手前の新宿にいくらでもある。
それに同じ距離であれば吉祥寺へ行く。渋谷の雑踏と若者たちの熱気はこちらを疲れさせるのに充分で、自分の街でない感覚が根強かった。終電近くにどっと人が乗り込む山手線も好きではなかった。
初出勤の朝、ハチ公に挨拶をすることにする。異業種への転職で不安がいっぱいだった。誰かに頼りたくなっていた時に現れた有名な忠犬が頼もしく見えた。
人でごった返していた帰り道、初日の勤務が無事終わったことをハチ公に報告する。
東京に住み続けていてもまだ知らない街ばかりだ。東京にはエリア毎に個性があり、その個性のお陰でどんな人でも居場所を見つけることができる。しかし街のカラーに気付いてしまうといつしか行き場所は決まってしまう。
とにかく今日から「渋谷の人」になった。
本日の1曲
MY FOOT / The Pillows
3月 1st, 2007 by taso
今日職場を退職した。学生時代から働き始め、実に5年4ヶ月。社会経験の無いこんな自分に働く機会を与えてくれ、20代の後半を共に過ごした職場だった。花束や頂いた沢山のプレゼントを抱えた帰り道、振り返ってビルを見上げると、色んな思いがこみ上げてきた。
このビルで働き始めて数ヶ月が経った頃。美術大学を卒業してクラスメイト達はそれぞれにやりたい仕事に就いていった。卒業から5年が経ち、独立する友人も多くなってきた。
フリーランスのイラストレーターとして活躍する友人には、何度も作品のチェックを依頼された。その度に何故自分なんかに相談してくれるのだろう?という思いが頭をかすめた。全てが何もしていない自分への後ろめたさだった。
そのコンプレックスのせいで同窓会にも顔を出せないでいた。華々しいクリエイター業界で活躍する旧友に合わせる顔がなかったのだ。
昨年末、『転職しようかと思ってさ。』と話すと友人は真面目な顔をして『その言葉を待ってたんだよ。』と言った。彼はこれまで何も言わなかったけれど、その表情が全てを語っている気がした。
当初指導した新人達も一人前になり、おじさん達の髪はさらに薄くなった。そろそろ時が去る時が来たのだ。
退職の当日、数百人が在籍する職場に声を掛けて回った。終日ほとんど席に着いていなかった自分の姿をわざわざ探して来てくれる人もいた。立ち上がっていつまでも手を振ってくれた人もいた。
勤務も残り少なくなった夕方、ある先輩に挨拶をしに行った。新人の時代には仕事を教えて貰い、愚痴を言い合った。毎日顔を合わせる度に彼女はいつも微笑んでくれた。
彼女は仕事の手を休め、目の前のパソコンの画面を見つめたまま『長かったねぇ・・・。』と呟いた。その瞬間、意図せず涙が出た。言葉に詰まって『ありがとうございました。』と言えなかった。
帰り道は同僚のお姉さんと食事をした。彼女は会話の合間に『泣こうと思えば、いくらでも泣けるのよ。』と言ったけれど、恥ずかしかったので聞こえないふりをした。そのまま話を続けていたら二人共ぐちゃぐちゃに泣いてしまいそうだった。
目の前には新宿パークタワーが見え、まだいくつものフロアに明かりがついていた。情けなさも少しついた自信も、5年間の自分の全てを内包した輝かしいビルの姿だった。
本日の1曲
Farewell Dear Deadman / ストレイテナー
1月 4th, 2007 by taso
2006年12月30日13:00。COUNTDOWN JAPAN幕張会場に到着。クロークに荷物を預けたらEARTH STAGEに突進する。そこでは本日のトップバッターであるZAZEN BOYSが既に演奏中であった。
ZAZEN BOYSがトップバッターである以上、それに合わせて会場に向かうのは必然的な選択であった。4月のツアー参戦以来、8ヶ月振りに祭サウンドに躍り上がる。
その後会場内を散策し、フードエリアで腹ごしらえ。さぁ、ここからが忙しい。
15:30。電気グルーヴを観に再びEARTH STAGEに戻る。フジロックフェスティバル同様に「歌もの」セットリストに会場は沸き返っていた。ピエール瀧氏の『皆さんご一緒に!瀧バウアー!』の掛け声と共に会場全体が一緒になって仰け反っていた。この人達は笑いを巻き起こす確信犯なのだ。
ダンサーを交えた瀧氏の機敏なダンスに驚愕した後、VOLA&THE ORIENTAL MACHINEの開演時間に合わせてCOSMO STAGEに飛び込む。16:15。元ナンバーガールのドラマー、アヒト・イナザワ氏が結成したニューウェイヴバンド。ナンバーガール解散後、向井氏と共にZAZEN BOYSを結成、脱退を経てVOLA&THE ORIENTAL MACHINEを結成した。
ナンバーガール時代には幾度もライブに足を運び、アヒト氏の圧倒的なドラムさばきに魅了された。しかしこのバンドで彼はギターボーカルを担当している。
アヒト氏のバンドのドラマーはやり辛くないのだろうか?などといらぬ心配をしてしまう。アヒト氏がステージ脇に置かれたドラムを叩きながらライブがスタートする。その姿はかつてのドラミングを思い出させ、音楽の世界観、演奏前のMCなどにそこはかとなく漂うナンバーガール臭を確認した。
解散後はそれぞれ異なるバンドで活動しているナンバーガールのメンバーだが、同日に向井氏とアヒト氏を確認できた貴重な体験だった。
KEN YOKOYAMAを後方で覗き見。優しい人柄が伝わるMCで広い会場は和やかなムードだった。17:10。会場端のGALAXY STAGEに足早に移動しMO’SOME TONEBENDERの登場を待つ。MO’SOME TONEBENDERは今年フェスティバルだけで3度観ていることになる。アリーナ前方に集結したコアなファンも、始めて音楽を聴く人も、その中間層の人も、気になるステージを気軽に覗けるのがフェスティバルの楽しいところだ。
19:15。リクライニングエリアで英気を養った後、階上のホールで喫煙していると、聞き覚えのあるヴォーカルが響き渡る。東京事変のステージが始まり、階下を見るとつい先程まで人でごった返していた休憩エリアには人がまばらになっていた。
ステージ上には黄色い衣装の椎名林檎嬢。個性的なヘアスタイルにハイヒール。仁王立ちでピアニカを吹き、皆の視線を集めるようにゆっくりとステージを歩く。独特の歌声は学生時代に何度も聴いた椎名林檎そのものだった。その存在感は圧倒的。
『領収書、書いて頂戴』のフレーズが懐かしい『丸の内サディスティック』。椎名林檎登場の衝撃はその後の邦楽のベクトルを変えたと言ってもいいだろう。初めて観るステージで、これまで何度も聴いてきた曲を聴いた。
林檎嬢を目撃した後、ASPARAGUSのステージに走る。19:50。本人達による和やかなサウンドチェックの後、20時過ぎに本編開始。今日のステージを最後にbass.山下氏はバンドを脱退する。数曲が終わりMCに入ったところでEARTH STAGEに戻る。ELLEGARDENとスケジュールが重なっていたのが本当に悔やまれる。
フェスティバルは今や立派なライブ参加の新しい方法で、1時間前後と短めのステージでありながら気軽にライブを楽しむことが出来る。
ライブステージは場内に4つ。どのアーティストを観るか?時間配分は?観るつもりのなかったアクトが予想外によかったりするから当日まで予定は決まらない。
本日の1曲
丸の内サディスティック / 椎名林檎
1月 1st, 2007 by taso
2001年元旦。まだ大学生だった頃の話だ。奔放な大学生活を送る一方、年末年始だけはきちんと静岡の実家に帰省していた。歓喜に沸き返る記念すべき21世紀を迎えたその日も、自室で起きているとも寝ているとも言えないような状態でぼんやりとしていた。
すると祖母が廊下をパタパタと早足で歩く足音が聞こえ、ふいに自室の扉が開いた。いつもは必ずノックをするか、声を掛けてから入室する祖母がなんだか慌てている。
『アンタ!アンタから年賀状ン来てるよ!』
それは一瞬違和感を感じさせる言葉だったが、すぐに心当たりを思い出した。
あるイベントで、自分宛てに書いたその年賀状がついに届いたのだった。
1985年、両親とつくば万博に行った。もっとも、父親とこれから自分の母親になる女性とだった。父親が再婚する数年前から、遊園地や水族館などの「家族連れ」で賑わう場所に出掛けていき、我々は家族になる準備をしていた。しかし何度外出を重ねても、子供と大人の間にはどうにも誤魔化しの利かない空気がつきまとった。そんな時『ポストカプセル』を見つけたのである。
つくば万博で郵政省は未来へハガキが送れる『ポストカプセル』を設置した。投函されたハガキは、筑波学園郵便局に保管され、2001年元旦には326万636通が全国の家庭に配達されたという。そのうちの1通が我が家に舞い込んできた。(郵政事業庁はポストカプセル郵便コンクールを実施した)
21世紀!
その言葉を目にしただけで胸が高鳴った。21世紀には何歳になっているかと、指を折って数えてから、台の上に置いた1枚のハガキに文字を書き付けた。
その後の15年間。何度もそのハガキの存在を思い出した。「21世紀」という魔法の言葉は長い間子供心を魅了し続けた。その度に21世紀には自分は何歳になっているのだろうかと考えた。言い換えれば、何歳の時に自分からの年賀状が来るかを確かめていた。(本当に届くんだろうか?)
自分の送る15年先の未来は上手く想像できなかったけれど、年齢だけは確かな数字だった。しかしその頃の想像は全て現実のものとなっていた。祖母は『アンタの夢ん叶っただね。』と笑っていた。
23才になっているはずです。
たぶん結婚はしていないとおもいまーす。
東京にすんでいるといいな。
本日の1曲
Honestly / Zwan