Archive for the '黄昏コラム' Category

覇気のないコーヒーショップ

お気に入りのコーヒーショップを見つけることは、新しい土地で働き出してからの最初のミッションと言えなくもない。ランチを食べる店は”日替わり”であるけれど、食後に駆け込むコーヒーショップは大体決まってくる。
なぜ毎日カフェに行くか?全てはiPodで音楽を聴き、ブログの原稿を思案し、おいしく煙草を吸うためである。そしてそのポイントをクリアできる店は意外に少ない。

喫煙席が用意されていて、テイクアウトできるカップで提供してくれる店、といえばいくつかのコーヒーチェーンが浮かぶかもしれない。
文字をを書くことを考慮するとテーブルががたついていてはよろしくない。リラックスするためには他人と視線がぶつからないことが望ましい。それに会社から近いことも。

以前の職場に勤務していた5年の間、ほぼ毎日通い続けていたコーヒーチェーンが会社近くにある。喫煙席も用意されていて、店員はよく教育されている。働き初めて最初の一週間はその店に駆け込んでいだ。
味もサービスも問題ない。しかしこの店の難点は「とても混雑していること」だった。

昼時ともなれば、付近で働く人々でごった返す。運が悪いと飲み物を持ったまま席が空くのを待たなくてはならない。誘導係の店員氏がスタンバイするのは駅に近い店舗限定のサービスかもしれない。
この付近にはもう一件の某有名コーヒーチェーンがある。そこに自分好みのドリンクが用意されているのはわかっていても、スモーカーはその店を選ばない。全席禁煙なのだ。

その混雑に辟易して、ある日駅とは別方向に歩いていると別のコーヒーチェーンを見つけた。駅から少し離れた場所にあるために、店内は幾分空いている。ここならば満員で座れないこともなさそうに思えた。
それにあろうことか1階は全席喫煙席である。喫煙席がじわじわと縮小されている都市部ではなかなかお目にかかれない光景である。客層はサラリーマンが多く、店内の喧噪も緩やかだ。

レジにて注文をすると、覇気のない店員がレジを叩く。店構えの割には値段も高い。彼女達はしかめ面でレジを打ち、にこりともせずにドリンクを渡し、淡々と食洗機を操っている。その行動全てはカウンターの中で完結していて、フロアに店員が出てくることはほとんどない。
テーブルやイスは曲がったままで誰も直さないし、客が去った後のテーブルを拭く者もいない。この店には総じて覇気がない。

しかし少なくとも、この店に圧迫感はない。トレイを高く掲げて通路を移動しなくて済むし、窓から外の景色を見ることもできる。
ドリンクの下に敷かれた無用なチラシは少し気を滅入らせるけれど、ノートを忘れた日はこうして原稿も書ける。
当分の間は、この店に通い続けることになりそうである。


本日の1曲
Pop Is Dead / Radiohead


彷徨える左手

困ったこれもだめか。
そうかDockは無いんだった。
ところで日本語入力はどこで切り替える!?

さっそく立ちはだかったのはMacとWindowsの壁、である!
その壁がここまで切実に迫ったことはない。

入社当日、自分のデスクに案内されるとそこにあるのは真新しいコンピュータマシン。その存在にテンションがあがる。これからはこのマシンが頼もしいパートナーとなってくれるだろう。
しかしその喜びも束の間。最新のオペレーションシステム、Vista搭載のそのマシンは言うまでもなく”Windows”なのである。

IT企業に転職して一週間。異業種への転職は、何もかも勝手が違う。なにより驚いたのは、受信メールの多さだ。社内外問わずメールは1日に軽く100通を超える。重要かつ緊急の報告も含まれているため、仕事を進行させながらもそれらのメールに逐一目を通さなくてはならない。
プロジェクト毎にメーリングリストは用意され、それぞれの仕事の進行状況が報告される。ミーティングや面談の予定も全てメールのやりとりで決定される。隣に座っていても、目の前に座っていても、コミュニケーションは基本的にメールクライアントを介す。

インターネットでの情報収集も仕事のひとつである。入社に際しての紙資料の配付は最小限に抑えられ、書類の申請や庶務関係に至るまで社内のルールは情報は全て社内Wiki(文書を投稿後、追加・書き換えが出来、社内で情報を共有できるシステム)に記載されている。何から何まで、ウェブブラウザを操れないことには業務が進まない。
慣れないウェブブラウザに戸惑い、Wikiを確認する精神的余裕無きまま、入社日から怒濤の業務に就いた。

ところで、会社のWindowsマシンで使用しているメールクライアントはThunderbird、WebブラウザはInternet Explorerである。自宅ではここ何年もインターネットブラウザはSafari、メールクライアントはMailを使用している。どちらもApple標準のソフトウェアである。

20歳の時にMacを購入して以来、Mac一辺倒で今に至っている。美術大学に通っていたせいか周りの友人知人も皆Macを使っていた。その後、カラフルなiMacが発売されて周りのMac所有率は更に高くなった。大学内でWindowsマシンを見かけることもほとんどなかった。まるでMac以外の選択肢は初めからないみたいに。

Windowsマシンを前にして初めて、自分が「普段からショートカット(コンピュータに少ないキー操作で指示を出す方法)を結構使っている」ことに気がついた。メニューバーのプルダウンを彷徨うより、ショートカットを覚えた方が操作が楽で、効率が良い。しかし困ったことにWindowsとMacintoshではショートカットキーが異なる。

Mac OSXではブラウザの上方バーをダブルクリックするとウィンドウは瞬時にドックに吸い込まれるし、command+Hでアプリケーションを一時的に不可視状態にすることも出来る。command+Hのショートカットは複数のウィンドウを展開するウェブブラウジングには欠かせない。個人的にはコピー(command+C)&ペースト(command+V)に次いで使う頻度が高いくらいである。

右手はマウスに、左手はcommandキー周辺に。ショートカットを使いこなし、インターネット閲覧には慣れているつもりだった。閲覧時間が長ければ長い程、無数に開いてしまうウィンドウも用が済んだらcommand+Wで素早く閉じる。ひとつのページ毎にひとつのウィンドウが開いている状態が「好み」で、最近の主流であるタブブラウズ形式には慣れていない。

まだ慣れない職場環境に加えて、マシンの操作がままならないことでじわじわと焦りが襲う。そしてその間にも続々と仕事の依頼メールが到着する。ショートカットは弾かれ、思いも寄らない別の指令が下される。その度に展開される心当たりのないウィンドウを何度も閉じながら、いたたまれない気分になる。
今、この瞬間に完全にインターネット初心者に成り下がっている!

帰宅してから調べてみると、Windows OSにおいて、ショートカットの要となるのは「command」キーではなく、「control」キーであるようだった。
その翌日、機転を利かせてcontrol+Hを押すが、履歴が表示されるだけで画面は隠れない。「H」はHideの頭文字、Historyが見たいわけではない。

この一週間Windowsと格闘し続けたおかげで、自宅のMacでショートカットを試みる際、無意識に左端のcaps lockキーに手がいってしまうようになった。それはWindows必死に覚えたcontrolキーの指ポジションである。もちろん、それを押してもMacでは何も起こらない。ただ虚しいエラー音が今宵も鳴り続けている。

自己紹介と歓迎会ラッシュは過ぎ去った。しかしWindowsには今だ困惑しっぱなしである。


本日の1曲
Over And Over Again (Lost And Found) / Clap Your Hands Say Yeah


渋谷の人

”働いているうちに、その街の人になっていく”
少し前に駅で見かけた求人雑誌の広告のコピーはやけに印象的だった。
新宿御苑でアルバイトをしていた時も、新宿副都心で働き出した時も、勝手を知らないエリアに飛び込み、やがてそのエリアが日常の一部になる感覚を味わってきた。その広告のコピーは自分が何度か味わってきた実感が含まれていて、静かなインパクトがあった。

今日から渋谷の人になった。通勤定期だって買い直した。これまで縁があまりなく、華やかさを倦厭していた渋谷で働くことになったのである。
高円寺に越してきてから渋谷がぐんと近くなった。映画館や、ショッピングに行く機会が増えてはいた。友人宅との中間地点で会う時は渋谷が選ばれることもあった。

しかし渋谷に向かうのは、ライブがある時や単館上映の映画を観に行く時くらいだった。デパートやショッピングビルは手前の新宿にいくらでもある。
それに同じ距離であれば吉祥寺へ行く。渋谷の雑踏と若者たちの熱気はこちらを疲れさせるのに充分で、自分の街でない感覚が根強かった。終電近くにどっと人が乗り込む山手線も好きではなかった。

初出勤の朝、ハチ公に挨拶をすることにする。異業種への転職で不安がいっぱいだった。誰かに頼りたくなっていた時に現れた有名な忠犬が頼もしく見えた。
人でごった返していた帰り道、初日の勤務が無事終わったことをハチ公に報告する。

東京に住み続けていてもまだ知らない街ばかりだ。東京にはエリア毎に個性があり、その個性のお陰でどんな人でも居場所を見つけることができる。しかし街のカラーに気付いてしまうといつしか行き場所は決まってしまう。
とにかく今日から「渋谷の人」になった。


本日の1曲
MY FOOT / The Pillows


ありがとうさようなら

今日職場を退職した。学生時代から働き始め、実に5年4ヶ月。社会経験の無いこんな自分に働く機会を与えてくれ、20代の後半を共に過ごした職場だった。花束や頂いた沢山のプレゼントを抱えた帰り道、振り返ってビルを見上げると、色んな思いがこみ上げてきた。

このビルで働き始めて数ヶ月が経った頃。美術大学を卒業してクラスメイト達はそれぞれにやりたい仕事に就いていった。卒業から5年が経ち、独立する友人も多くなってきた。
フリーランスのイラストレーターとして活躍する友人には、何度も作品のチェックを依頼された。その度に何故自分なんかに相談してくれるのだろう?という思いが頭をかすめた。全てが何もしていない自分への後ろめたさだった。
そのコンプレックスのせいで同窓会にも顔を出せないでいた。華々しいクリエイター業界で活躍する旧友に合わせる顔がなかったのだ。

昨年末、『転職しようかと思ってさ。』と話すと友人は真面目な顔をして『その言葉を待ってたんだよ。』と言った。彼はこれまで何も言わなかったけれど、その表情が全てを語っている気がした。
当初指導した新人達も一人前になり、おじさん達の髪はさらに薄くなった。そろそろ時が去る時が来たのだ。

退職の当日、数百人が在籍する職場に声を掛けて回った。終日ほとんど席に着いていなかった自分の姿をわざわざ探して来てくれる人もいた。立ち上がっていつまでも手を振ってくれた人もいた。

勤務も残り少なくなった夕方、ある先輩に挨拶をしに行った。新人の時代には仕事を教えて貰い、愚痴を言い合った。毎日顔を合わせる度に彼女はいつも微笑んでくれた。
彼女は仕事の手を休め、目の前のパソコンの画面を見つめたまま『長かったねぇ・・・。』と呟いた。その瞬間、意図せず涙が出た。言葉に詰まって『ありがとうございました。』と言えなかった。

帰り道は同僚のお姉さんと食事をした。彼女は会話の合間に『泣こうと思えば、いくらでも泣けるのよ。』と言ったけれど、恥ずかしかったので聞こえないふりをした。そのまま話を続けていたら二人共ぐちゃぐちゃに泣いてしまいそうだった。
目の前には新宿パークタワーが見え、まだいくつものフロアに明かりがついていた。情けなさも少しついた自信も、5年間の自分の全てを内包した輝かしいビルの姿だった。


本日の1曲
Farewell Dear Deadman / ストレイテナー


1985年からの年賀状

2001年元旦。まだ大学生だった頃の話だ。奔放な大学生活を送る一方、年末年始だけはきちんと静岡の実家に帰省していた。歓喜に沸き返る記念すべき21世紀を迎えたその日も、自室で起きているとも寝ているとも言えないような状態でぼんやりとしていた。
すると祖母が廊下をパタパタと早足で歩く足音が聞こえ、ふいに自室の扉が開いた。いつもは必ずノックをするか、声を掛けてから入室する祖母がなんだか慌てている。

『アンタ!アンタから年賀状ン来てるよ!』
それは一瞬違和感を感じさせる言葉だったが、すぐに心当たりを思い出した。
あるイベントで、自分宛てに書いたその年賀状がついに届いたのだった。

1985年、両親とつくば万博に行った。もっとも、父親とこれから自分の母親になる女性とだった。父親が再婚する数年前から、遊園地や水族館などの「家族連れ」で賑わう場所に出掛けていき、我々は家族になる準備をしていた。しかし何度外出を重ねても、子供と大人の間にはどうにも誤魔化しの利かない空気がつきまとった。そんな時『ポストカプセル』を見つけたのである。

つくば万博で郵政省は未来へハガキが送れる『ポストカプセル』を設置した。投函されたハガキは、筑波学園郵便局に保管され、2001年元旦には326万636通が全国の家庭に配達されたという。そのうちの1通が我が家に舞い込んできた。(郵政事業庁はポストカプセル郵便コンクールを実施した)

21世紀!
その言葉を目にしただけで胸が高鳴った。21世紀には何歳になっているかと、指を折って数えてから、台の上に置いた1枚のハガキに文字を書き付けた。
その後の15年間。何度もそのハガキの存在を思い出した。「21世紀」という魔法の言葉は長い間子供心を魅了し続けた。その度に21世紀には自分は何歳になっているのだろうかと考えた。言い換えれば、何歳の時に自分からの年賀状が来るかを確かめていた。(本当に届くんだろうか?)

自分の送る15年先の未来は上手く想像できなかったけれど、年齢だけは確かな数字だった。しかしその頃の想像は全て現実のものとなっていた。祖母は『アンタの夢ん叶っただね。』と笑っていた。

23才になっているはずです。
たぶん結婚はしていないとおもいまーす。
東京にすんでいるといいな。


本日の1曲
Honestly / Zwan


ほんの少し先の変化

高校生の時、アルバイトをしたいと家族に相談すると、当時駅前にあったラーメン屋のマスターに話をつけてくれた。父親の長年の友人であるマスターが一人で切り盛りする小さな店だった。
アルバイト初日、昼の時間になると次々と客がやってきた。接客をし、お金を扱い、食べ物を運ぶ。店の運営を自分のような高校生に任せてよいのかと不安になった。

そんな「重大な」ことをしているにも関わらず、仕事の説明らしきものはほとんどなかった。不安な気持ちのまま最初のお客さんがやってきて、マスターは淡々と料理を作り始めてしまった。ラーメンの汁をこぼさないように運び、省略して呼ばれるメニューの名前も覚えた。

そのほかにいくつかアルバイトを経験したけれど、その度にろくに説明も受けないまま勤務が開始された。
社会に出るということは突然放り出されることだった。充分な説明を得られないまま、最善の方法を自らが考えなくてはならない。その時、今まで自分がどれだけ加護されて生きてきたかということを思い知った気がした。
上京する時も、大学に入学した時も、初めて勤務先に出社した日も。いつもその感覚が蘇ってきた。

今夜友人から携帯にメールがあった。そこには”今度家族が増えるから・・・”と事も無げに書かれていたが、それは初めて知る彼女の近況だった。そういえば元同僚の彼女とは昨年の夏から暫く会っていない。

職場でメールを見たあと、帰り道に彼女のことを考えていた。こちらがまだ呑気な大学生活の最中に彼女と知り合った。彼女はアルバイトをしながら学費を捻出し、1個100円のキャベツでおかずを作っては、職場に弁当を持参していた。こつこつと勉強をし、国家試験を突破してハードな仕事に就き、長く付き合っていた彼氏と昨年結婚した。
どれもが人生の転機というべき出来事だった。彼女に起こった出来事の全てを知っているわけではないけれど、知り合ってからの5年半で、彼女の生活は刻々と変化しているようだった。

彼女はその間何度も「放り出されて」きたのだろう。現実感が湧いてこないまま予測できないほんの少し先の未来を選び取ってきたはずだった。それがよい変化であれ、意図しない変化であれ。
自分は、何をしていたのだろう。
環境が変わることを大袈裟に恐れ、生活を維持することを第一に考えてきた。たった5年半の彼女の生活を反芻していると、ほんの少し先の変化にすら怯えていた自分がひどく情けなくなった。

新たな一歩を踏み出す時はそれなりの覚悟が必要ではあるけれど、適度に肩の力を抜かなくては乗り切れない。踏み出した一歩はきっと面白い世界を見せてくれる。
帰宅してから自分に言い聞かせるようにそんなことを思っていると、ラーメン屋の狭くて細長い店内を往復していた頃の自分の姿を思い出した。


本日の1曲
Somewhere There’s A Feather / odani misako・ta-ta


『お疲れさまです。』の口

歩く度に『お疲れさまです!』と喋るスニーカーがあったらいい。
俯き加減で、伏せ目がちに歩くとそれっぽく見えるよ。
すれ違いざまに押せる『お疲れさまですボタン』を首に下げるのはどう?
あ、でも、あまり仕事していない上司には押してはいけないよ。
ははは。

毎日毎日、数百人の同僚と過ごしていると、挨拶がちょっと面倒になる。が、挨拶をやめるわけにはいかない。しかし一日で100回以上は繰り返される挨拶には少々マンネリを感じてしまう。

iPodの再生を停止し、片耳のイヤホンを外す。出勤してオフィスのエレベーターホールに到着した時から、挨拶をする心構えが必要になる。見知った顔の同僚達にはもちろん、時にはフロアボタンを確認し、同じ会社で働く人にも会釈をする。
中には全く挨拶をしないポリシーの人もいるが、会う人会う人全員に挨拶をするせいで、なかなか席に戻れないお人好しもいる。丁寧にお辞儀をしまくる人は、10秒前に顔を合わせたのも忘れているようだ。

『お疲れさまです。』というのにも飽きて『こんにちは。』や『おはようございます。』に変更したりするが、油断していると無意識に『お疲れさまです。』の口になってしまう。何年も続けてきた習慣はあなどれない。
挨拶をしないと決めてしまえば良いのかもしれないが、長い廊下をすれ違うまでの間、なんとなくソワソワしている相手の動向を見ると、お互い様なのだと納得したりする。

人に出くわすと条件反射で『お疲れさまです。』と言ってしまう。相手の顔を確認もせずにその言葉を発すると、実は相手がよく知った同僚だったりする。関係にそぐわない少々かしこまった挨拶口調に、気のゆるみを見透かされたような気分になる。

仕事が終わって帰宅する時、一日中惰性で発してきた『お疲れさまです。』という言葉はやっと自分に向けられる。
(お疲れ!自分!)と意気揚々と入店した居酒屋の廊下で店員氏に出くわす。そしてまたしても条件反射で『お疲れさまです。』と言ってしまう。


本日の1曲
土星にやさしく / ザ・クロマニヨンズ


番外ブログ 〜お知らせとお願い〜

いつもブログをご覧頂きありがとうございます。

この度(と言ってももう1ヶ月以上前の話ですが)、ドメインを取得しブログのアドレスが変わりました。
以前のアドレス(http://livingtokyo.jugem.jp/)でブックマークしてくださっている方はお手数ですが新しいアドレスhttp://living-tokyo.com/に変更をお願いいたします。
(2006年12月以前にブックマーク登録していただいた方は旧アドレスの可能性がございます)

今後ともリヴィング・トーキョーをよろしくお願いいたします!

taso拝


良い大人

ついこの間『夢は何ですか?』と問われ、思わず言葉に詰まってしまった。それはこれまで幾度となく繰り返され、苦もなく答えていたはずのありふれた質問だった。

若者にとって「夢」という課題はしばし好まれる。まだ十代だった頃、友人達が集まるといつしかその話になった。そこで具体的に夢を述べることが出来ない人間は異質だった。
ある彼女はいつも『良い大人になりたい。』と言った。皆が具体的な職業を列挙する中で、彼女のその「夢」は異質だった。そこに居た皆は横槍を入れた。

何しろ皆の夢は具体的だった。画家になりたい。グラフィックデザイナーになりたい。代理店でCMを作りたい。彼女のそうした返答が望まれていないのは明らかだった。それでも彼女は少し考えてからいつも同じ台詞を言った。

発言の真意を見出そうとして、彼女の表情をいつも窺っていた。大勢に囲まれると仕方なく職業らしきものをあげたりしたが、時折首を傾げる仕草を見せてなんだか納得していないように見えた。
解りやすい夢を列挙する若者たちにとって、彼女の発言は掴みどころがなかった。「夢」という言葉を超越した彼女の強い意志を感じもしたが、友人の自分ですら「良い大人」を上手くイメージすることは出来なかった。それにその頃はまだ大人という存在は漠然としていて他人事のように思えた。
これから我々を出迎えるであろう心躍るイベントからいくらでも夢はすくい取れる気がしていた。(楽しい大学生活や、素敵な恋愛を信じて疑わなかった)

年々「夢」という言葉が自分の中で具体性を欠いている。夢があるのは良いこと、やりたいことがあるのは良いこと、いつもそう言われてきた。
自分が本当に望んでいるものや大切にしたいものの輪郭は日に日にはっきりしてくるのを感じる。なりたい自分を思い描くことも出来る。しかしうまく言葉に出来ない。

帰り道、夢を答えられなくなった自分が信じられないでいた。そしてかつての彼女の発言を思い出した。『良い大人になりたい。』もしかするとあの頃の彼女も同じような心境だったのかもしれない。
表現することで人間とコミュニケーションを取りたい。その手段は何であれ。


本日の1曲
タイトロープ / ASIAN KUNG-FU GENERATION


SLにのぼって

公園の入り口には真っ黒なSLがどっしりと構えている。遊具に改造されたそのSLの先頭には「D51」と書かれた重厚なプレートがついていて「D51(デゴイチ)は有名なSLだっけだよ」と父は教えてくれた。

実家の隣にある通称「SL公園」には遊具がたくさんあった。ブランコに滑り台、カラフルなアスレチックやコンクリの迷路など。夏休みのラジオ体操は決まってそこで行われたし、避難訓練や町内の運動会などで常に住民の中心にある公園だった。

幼い頃、ひとりで公園に出掛けてはSLのてっぺんに登って持ってきた駄菓子を食べた。上から見ると視界が違う。ソーダ味のアイスの棒に続けてアタリが出たことがあった。そしてその度に駄菓子屋に行きアイスを貰い、またSLの上に登って食べた。それを4回も繰り返したのであった。そうして子供達が駄菓子を持って集まるために、SL内のあちこちに駄菓子の袋が散乱していた。

公園の後方、国道一号線のすぐ手前には児童センターが併設されている。それはコの字をした煉瓦色の建物で、1階の両側は職員が待機する事務所とトランポリンや鉄棒などが置かれた遊具スペース、2階は小さな図書館と会議室になっていた。そこで沢山の絵本を読んだし、竹馬やフラフープで遊んだ。

建物の上部には半円形の銀色のドームが乗っかっている。普段はロープが張られているそこへ上る階段も、天体観測会の時だけ開放された。黒いフェルトが敷き詰められた狭い階段を上がると屋根裏部屋のような真っ暗な空間に出た。半円形ドームの内側だ。真ん中に天体望遠鏡が空に向かって突き出している。
何といってもこの日ばかりは堂々と夜に外出できた。夕飯を食べた後に近所の友達に会えるのも嬉しかった。普段は夕方に閉館する児童センターに夜入れるのはこの日だけで、「しゅうごうじかんは8じです」と掲示板に開催の「おしらせ」が貼り出されるとわくわくしてその日を待った。子供達とその親は代わる代わる望遠鏡を覗いては歓喜した。

1階の事務所には常に2人の職員が居た。たまに人が入れ替わって新しい世話役がやってきた。毎日のように通う自分はその事務所の「常連」だった。灰色のスチールの机の下には無数の紙芝居が積まれていて、床にぺたんと座ってはそれを眺めた。
それまでいた職員は中年のおじさんやおばさんばかりだったが、ある日めがねをかけたお兄さんが配属されてきた。いつも白いポロシャツを着ていたお兄さんは片方の足がなかった。事務仕事中には時々義足を外して見せてくれた。
ある日周りに誰も居ないのを見計らって彼の飲みかけのお茶に修正液をたらして混ぜた。その後あっさりと悪事はばれ、怒られた。(勘が鋭いな)と子供ながらに感心したのだが、どうしてばれてしまったのかは今でもよくわからない。

今年の正月に帰省した際にその公園を訪ねると、プールが無くなっていた。家族に聞くともう何年も前に撤去されたそうだ。毎年実家に帰省していながら、自分が思っていたよりも長い期間この公園に足を踏み入れていなかったことに気がついた。
平坦なコンクリの地面を靴底で撫でるように歩いた。プールの中でこっそり用を足した自分の尿も分子レベルで残っているかもしれないな、とどうしようもないことを考えた。
公園のシンボル的存在だったSLの周りにはロープが張られていて立ち入り禁止になっていた。話題の有害物質がその車体に使われていたらしい。
階段を上って荷台部分を覗くとあの頃と変わらないどぎつい赤のペンキが剥げかかった床が見えた。そしてあの頃と同じように駄菓子の包み紙がたくさん落ちていた。

現在はゲートボールをしたり、夏には盆踊り大会が催されたりしてそれなりに活気があるようだ。祖母はゲートボールを始めたようだった。そしてこちらが「ゲートボール」という度に「グランドゴルフ」と訂正してくる。祖母はきっと老人の象徴のようなその呼び名に抵抗を感じているのだ。一度その「グランドゴルフ」を見に行ったことがあった。
一眼レフをぶら下げて現れた孫の姿を見つけ、そこにいた30名程に声を掛け記念撮影をしてくれと言う。「はーい、取りますヨー」と片手を上げてからシャッターを切った。おばあちゃんもその仲間達もすごくニコニコしていた。

久々に歩いた冬の日の公園は、あの頃の輝きは無かった。20年前と変わらない遊具の数々はどれも覇気が無かった。あんなに大きかった滑り台も高いコンクリの丘も、驚くほど小さく、素っ気ないほど色彩は単調に褪せていた。

今でも地域の人々にはたったひとつの公園であり、賑やかな小中学生の通学路であることには変わりはないのだろう。けれども現在の自分がその公園の存在から遠く離れてしまったのを感じて少し寂しくなった。


本日の1曲
ミラーボール / クラムボン