Archive for the '黄昏コラム' Category

半額で買える便利

これを読んでくださっている全国の皆様にはほとんど関係ない話だけれど、このたび高円寺駅北口の、とあるコンビニエンスストアが閉店する。

高円寺阿波踊りで街中が盛り上がっていたある日の夜、書店を目指して自宅を出たものの、祭りの列が通りを封鎖し車道の向こうに渡ることができなかった。仕方なく目の前にあるコンビニに入店する。
その店はなんだか様子がおかしかった。

祭の見物客が店内に押し入り、トイレのドアの前には不自然なほど長い列ができていた。しかし様子がおかしいのは、店内が混雑しているからではなかった。この店には明らかに商品が少ない。ついでに言うと店員もなんだか元気がない。

普段ならところ狭しと雑誌が重なり合っているラックは「から」で、祭の見物客達が無遠慮にもたれかかって通りをのぞき込んでいる。普段ならそれを注意すべきである店員達がそれを黙認しているのも不思議だった。コンビニの店主は店の前でたむろする若者や、無断で家庭ゴミを捨てていく通行人を口やかましく注意するものなのに。

陳列棚には「店内全品半額」という貼り紙がされていた。
日用品が並ぶ陳列棚はスカスカで、黄色いパッケージの日焼け止めがひとつ転がっているだけだった。菓子のコーナーにはかろうじて商品が残っていたけれど(在庫が残っているのだろう)、こんな時はポテトチップスの袋すら味気なく見える。

レジには少女と、その父親くらいの歳の男性が並んで立っていた。二人の視線は目の前の空間に向けられていて、背後には一年に一度の祭りの日に商品を用意できない後ろめたさが漂っている気がした。
皆さん、トイレだけでも使ってやってください、
クーラーも、効いているんですよ、と。

一人暮しをしているとどうしてもコンビニの世話になることが多くなる。 電球は21時過ぎに切れ、キャットフードは時間のない朝に無くなる。
コンビニは便利だ。でもちょっと高い。半額のコンビニに入店したのは初めての経験だった。コンビニは便利なだけの店で、今まで半額のコンビニがあったらいいなんて思ったこともなかった。

差し出したいくつかの電球に少女がバーコードを通すと、普段通りの金額が弾き出された。やはり何かの勘違いだったと一息つくと、少女は目の前の大きな電卓をつまらなそうに叩き、数字はあっさりと半分になった。

その昔、父親は『便利は金で買うものだ』と格言めいたことを言った。それが正しい理解なのかは別として、コンビニエンスストアで買い物をする時にその言葉をよく思い出す。それは便利が半額で買えたちょっと奇妙な夜だった。


本日の1曲
パレード (’82 remix) / 山下達郎


フツーを目指す男

フツー・に【 フツーに 】
1. 《「フツー」は「普通」の意。多くあとに肯定的な形容詞をともない、肯定を強めている状態。若者言葉の一種。》
言うまでもなく。常識的に。「あの人はーにかっこいい」

ちょっと軟派な会話と、はにかんだ笑顔。細い身体を包むシンプルなストリートファッション。
そんな彼の ”なり” を回りは結構注目している。ちょうど音のするほうに猫が耳をそばだてるみたいに、その存在を認識している。

昼下がりの定食屋にて、我々は同僚の青年氏を『社内で抱かれてもいい男は?』とくだらぬ質問で問い詰めていた。
『〜さんは?』『じゃ、〜君は?』というこちらの提案にも首を降り続け、ひとしきり『違うナァ・・・アレはだめだ。』などと失礼なことを言っている。青年氏、本気で選びにかかっているようだ。山かけトロロ丼をこねくり回している。

そのうち各自が黙々と食事を再開した。箸と器のカチャカチャとした音だけが響く。

『・・・やっぱ・・・あの人なんじゃないの?』
しばらくすると青年氏はこちらの顔色を窺うように言った。
我々はこう吐き捨て、青年氏の解答に失望した。
『あの人はフツーにかっこいいジャン・・・!』

その相手とはいわずもがな、冒頭に登場した彼である。青年氏は忠実な犬みたいな上目遣いでこちらを見ている。お決まりの回答を提出してしまった後ろめたさすら感じさせながら。

この場において彼の名前が出ることは何の驚きも与えない。『えー!』とか『なんで!?』というワクワクした会話すら続かない。彼は「わざわざ言うまでもなくかっこいい」からだ。我々はサッサと別の解答を促し、青年氏の模範解答はすぐに追いやられてしまった。

そんな「フツー」についてちょっと考える。はからずもフツーの解答をしてしまった青年氏だって『あの青年氏、フツーにかっこいいよネ。』と言われている可能性だって、無くはない。それを言うと『聞いたことない?ないの?』とせっつかれたが、青年氏に対するそのような賛辞はまだ耳にしたことがなかった。フツーというのは結構難しいのである。

確かに、複数人が瞬時に同意するかっこいい男はなかなかいない。
かっこいいと言われるのはやっぱり嬉しい。あらかじめ選択肢から除外されようが、その場の会話が発展しなかろうが構わない。フツーにかっこいいというのは、結構貴重なものなのだ。


本日の1曲
A Certain Romance / Arctic Monkeys


騒やかな日曜

そろそろ趣味・特技の欄に 「家具の組み立て」と書いても許されるのではないか、と思うくらいだ。ひとり暮らしを始めてから、あらゆる家具を自分ひとりで組み立てまくってきた。
段ボールに隙間なく収められた家具のパーツは、ビスやクギで連結され、みるみる組み立てられてゆく。

インターネットで注文した本棚が我が家に到着したのは5月、ゴールデンウィークのことだった。連休に合わせて注文し、休みを費やす覚悟でいたのだけれど、その重量と巨大さを ”実感” して面倒になり、長らく玄関に放置されていた。

末広がりになった本棚には、文庫から大型本までが収納できるだろう。完成すれば、天井につくほどの大きさになる。もっとも、文庫本と雑誌に関しては既に専用の棚があるので、主に単行本や写真集などを収納するための棚ということになる。本棚に並んだ書籍を眺めることは、背表紙フェチにとって快感ですらある。

意を決して組み立てを始めた先週末。平和な日曜の午後に突如作業は開始された。こういうものは、やろうと思った時にやらなくてはいけない。軍手をはめ、ドライバーセットを用意し、ロックミュージックをかける。

作業を設置場所から少し離れた奥の部屋ですることにした。玄関から部屋の中へとパーツを ”搬入”し、ペランとした簡易的な説明書を睨む。試行錯誤を繰り返しながら、高さ2メートルをゆうに超える本棚の組み立ては順調に進んでいた。やっばりこれは「趣味・特技」に書かなくてはいけない。

しかしあろうことか、順調に完成した本棚は天井の梁に引っかかり部屋から出せなくなってしまっていた。強引に棚を傾け搬出を試みると、バキッとビスが折れた音が響く。本棚が、真っ二つになった。

こんな時『あーあ!』と一緒に言う人もいない。八つ当たりする相手も居なければ、帰宅した同居人に甘くからかわれて頭を掻いておどけることもない。崩れたら、静かに組み直す。これがひとり暮らしである。

それに誰かを呼んだところで足の踏み場がない。
頑丈なスチールラックに積み上げられていた書籍や、パソコンの周辺機器は全て棚から下ろしてしまった。ザザーッ・・・ッと積み上げた本が時折崩れ、床にはナイーブな電子機器が無造作に点在している。(今日終えなければ一週間この部屋に!)という危機感で黙々と作業を続ける。

棚を設置するために机をどかし、Macをどかし、冷蔵庫をどかす。なんとか設置を終え書籍を並べた終えた頃には、からだ中がホコリだらけになっていた。

これまでは棚が飽和状態で、せっかく購入した本もしまう場所がなかった。背の高い本棚にずっと憧れていた。隙間の残された本棚のなんと素晴らしいことだろう!


本日の1曲
The (After) Life Of The Party / Fall Out Boy


平常心で言い放つ。

渋谷のとあるビルディングには妙なビジネス用語(らしきもの)が潜んでいる。ここは『マター』や『なるはや』が飛び交うオフィス。若者たちはその言葉を発するとき、はにかんだりもしいないし、してやったり、とも思わない。あくまで平常心で言い放つ。

その平常心は相手に通じないはずがないという前提の元に宿る。
他の皆はさして気にならないのかもしれないが、もはやその可笑しさは誤魔化しの利かないところまできてしまった。

この会社にも、春に大学を卒業したばかりの新入社員達がいる。スーツのポケットが飛び出ていたり、一番目立つところになんだかよくわからないシミをつけたりしているけれど、彼らは毎日意気揚々と出勤してくる。

新入社員達は業務に意欲的で、初めて聞くことへの興味が尽きないみたいだ。そして皆が「誰よりも早く一人前になりたい」と思っている。IT用語も、ビジネスマナーも、時には説教じみた ”人生を成功に導く方法” でさえも、与えられた知識はなんでもかんでも吸収していく。彼らは真っすぐな眼差しで相手を見据え、身をかがめては細かい字でメモをとる。

そうやって増えたとっておきの知識は新入社員同士でシェアしているみたいだ。彼らが集うSNSのコミュニティを覗くと、覚えたばかりの言葉が堂々と放出されていた。
中に『レバレッジの効いてる営業』というトピックがあった。トリッキーな見出しにそこはかとなく漂う前のめり感。覚えたばかりのビジネス用語で得られる優越感の類。

そうこうしているうちに新入社員達の日常会話はいつの間にかビジネス用語に侵食され、よくわからない会話が誕生する。
『ヒアリング口頭ベースでいいかな?』
『それさぁ・・・かーなりニッチだよ。』

ここで頻繁に使われている言葉のひとつに『そもそも論』がある。正しくない日本語の正しい使い方を探りたい。しかし、実際に使ってみたくてもどういうシーンが適しているのかすら判らない。『そもそも論ですがこちらの案件は、』とか『いわゆるそもそも論ですけどねぇ・・・』と聞こえた瞬間気もそぞろになり、そのあとに続く言葉が頭に入っていかないのだ。

その夜、強引に仕事を切り上げ同僚氏と一杯やっていると、話は彼の過去の恋愛話に及んだ。同僚氏は『マー、オレもいろんな経験を ”経て” るわけだよ。』と訳知り顔であった。

『へてへて論だね、ソレ。』と言うと、彼は『そーそ、へてへて論。』とニヤリと笑った。持つべきものはちょっとした可笑しさを共有できる同僚だ。へてへて論ではありますが、彼はちょっと面白い青年である。


本日の1曲
Barely Legal / The Strokes


Mugs!



ある分野において、”モノは揃っていない方がいい” という勝手なマイ美意識がある。日常生活においては、食器やファブリック類がこれにあたり、スプーンや皿やピロケースやタオルなど、気に入ったものはひとつずつ揃えてきた。将来、自分でダイニングをセッティングすることがあれば、大きなテーブルに種類の異なるイスを配置したいという野望を抱えて生きている。
ひとつずつ揃えたばらばらのマグカップは、そういうささやかな美意識を手軽に叶えてくれている。

FireKingはアメリカ生まれの耐熱食器ブランド。30年前に生産が終了しているのにも関わらず、今も世界中にファンが多い。市場ではヴィンテージの商品が結構なプレミアつきで取引されている。
個性的な形とグラデーションが特徴の ”キンバリー” は南アフリカにあるダイヤモンド鉱山のひとつ、キンバリー鉱山の ”火成岩” をモチーフに作られている。
これは吉祥寺の雑貨店で3000円程で購入。(一応それなりのプレミアがついているということだ)キンバリーのグラデーションの濃淡には個体差がある。店頭で見比べながら2つを選び、ひとつは友人にプレゼントした。

ニューヨーク生まれのデリカテッセン、DEAN&DELUCAはキッチンウェアも充実している。ロゴが秀逸なマグカップは「是非家に持ち帰りたい」と思わせる雰囲気を持っていた。DEAN&DELUCAのオリジナル商品は人気で、中でもロゴ入りのトートバッグは渋谷駅構内で見ない日はない。使い込んでくたっとした姿もサマになるバッグである。

店から出た10メートル先にはボートが停泊しているBLUE BLUE YOKOHAMA。まさにMINATOを地で行くロケーションに深く頷きこのカップを購入した。「MINATO」の名が入ったこのマグは横浜店と神戸店でしか扱われていないそうだ。
つるりとした陶器にデニムブルーの手書き風ロゴがほっとさせてくれる。

最後は国分寺に住んでいた学生時代に、近所の古着屋で買ったもの。まじまじと見るとひび割れていたり、フチが欠けたりしていたけれど、オールドスクールなたたずまいを一目で気に入り購入した。飲み物を注ぐとじんわり中身が染み出してくるのもご愛嬌なのだ。

もちろんマグカップはまだある。我が家にはマグカップがやけに多い。来客を見越した用意でもなければ、単に洗うのが面倒なわけでもない。おそらくマグカップ好きというやつだ。
次から次へと違うマグカップを使うものだから、気がつくと部屋の至る所にマグカップが点在している。まるでホームパーティーの後みたいに。


本日の1曲
I Don’t Want Control Of You / Teenage Fanclub


正直であれ

できることなら、いつも正直でいたい。納得しないことには首を縦にふりたくはない。しかし環境がそれを許さないこともある。蓄積された不満は鈍痛を伴って気分を滅入らせ続ける。

人の間違いを執拗に叱責する、人の発言を無視する、気に入らないことがあれば人にあたり、ストレスを撒き散らして他人を困惑させる。全ては自分の機嫌次第で、否定されることは好まない。その場の空気を淀ませていることにも気付いていないある種の人々。

その中に押し込まれると、次第に正直でいることが面倒になってくる。
落胆と怒りを繰り返すうち、口を閉ざすことを覚えた。不愉快さを表明した時に自分に注がれる冷たい視線や、相手が一瞬狼狽する情けない表情は一層気分を滅入らせるからだ。

その違和感に悩むうち、自分が深刻な「ふり」をしているだけなのではないかと疑ってみたりする。けれども、常につきまとう鬱屈とした気持ちはぬぐい去ることが出来ず、楽しいはずの時間を楽しく感じられないほど無表情になり、浅い溜息が日常的に放出されるようになった。

まだ大学生だった頃、ある友人は書きためた散文を見せてくれた。そのうちの一枚には正直でいることの困難さが綴られていて、冒頭の一遍は特に印象的だった。

私はずっと 正直であれと言われてきました
親や先生には嘘をついてはならないと言われ 
学校の道徳の時間にもそう言われました

中学生時代からの付き合いになるけれど、彼女が体裁を取り繕っているところや、都合の悪い失敗をごまかしているところを見たことがない。場合に応じて愛想笑いはするものの、心から優しく微笑むことを知っている人だ。

彼女がどうしてその詩を書くに至ったのか。きっかけになるエピソードがあったのかもしれないけれど、直接聞いてみたわけでもない。
しかしその時、彼女は自分を偽らないが故に、正直でいることの困難や苦悩を「知っている」のだとはっとした。

思った疑問を口にして、納得できないことには首を傾げ続ける。そうやって正直な反応を示すことも、受け入れてもらえるとは限らない。単に面倒くさい人・わかりが悪い人として片付けられてしまうこともある。

__当たり障り無く人と接して、よく思われたい
周りをみると、皆が口ごもって本心を言っていないように見えた。それは堪らなく奇妙な光景ではある。
しかし鈍感を装って、その違和感をやり過ごしている自分もまた、正直な人間から遠ざかっているのだと、最近思う。


本日の1曲
Sweet Baggy Days / The Pillows


サブとメインと内線プラン

とある友人氏は、最近2台目の携帯電話を契約した。同一キャリアへの通話が無料になるプランが目当てだったようだ。格安のプランでキャリア替えを促せば、ユーザはおいしいところだけを頂戴する。そして普通の人々が複数台の携帯電話を使うようになる。

メインとサブを使い分ければ、高額な請求書にひっくり返ることも少なくなるだろう。それに何人かの友人とはより気楽に通話を楽しむことができる。(実際に友人氏が契約した2台目の携帯電話から頻繁に電話がくる)

通信関連のインフラ(基盤)はここ10年で大きく進化した。我々にとってのここ10年は、すっぽり20代という世代に当てはまる。新しいツールの利用に積極的なその期間に、携帯電話とインターネットはみるみる普及していった。だから尚更「ここ10年」というくくりが印象深い。
通信インフラの進化は、勉強のやり方や遊びの方法に変化をもたらした。恋愛の仕方だって変わったかもしれない。

友人氏は2台目の携帯電話で、実家の家族と頻繁に通話を楽しんでいるみたいだった。同じキャリアの姉に電話を掛けさえすれば、姉の携帯電話は2階の個室から1階のリビングへ移動し、結局家族全員と話すことができる。もはや家族割引すら不要な事態だ。

しかし問題はある。その会話がほとんど『コレ通話料かかってないんだよ!すごいよね!』という内容に終始していることだ。友人氏は「・・・人生を無駄に過ごしているような気がする。」と、笑いながら肩を落としている。

通話料の呪縛から開放され、携帯電話はますます内線電話の感覚に近くなった。通話料を気にせず話せるなんて、ちょっと前まで考えてもみなかった。

携帯やインターネットの不在に不便を嘆くことすらなかった時代。
携帯電話の通話料とインターネットの通信料に、月数万円を払っていた時代。
その時代を通過してきた我々は、携帯電話が内線化している今日の状況を熱っぽく語らずにはいられない。


本日の1曲
4 track professional / Number Girl


見つめるヨガ

我々は真夜中にベンチに腰掛け、視界の右から左に流れる大井川を見下ろしていた。目の前には長い木造の橋が延び、その下には人気のない河川敷が横たわっている。
明かりといえば、後方の自動販売機だけ。まるで高感度の暗視カメラを覗いているようなザラリとした景色だった。

ゴールデンウィークに帰省するのは何年ぶりだっただろう。
我々はベンチに腰掛け、静かで不気味な田舎の夜の景色を懐かしく眺めた。
向こう岸には真っ黒に連なる山々、川岸のひんやりした空気に思わず深呼吸する。なんとなくヨガのポーズを試みたくなる気分だ。

ヨガには以前から興味があった。それは 「ヨガのポージングで瞑想する時、自分は何かを考えるのだろうか」という興味でもある。
そんな疑問を口にすると、すかさず隣にいた友人氏がレッスンへの参加を提案した。彼女が週に一度通うヨガ教室は、ちょうど明朝に開催されるという。

翌朝、首からバスタオルを掛け、帽子をかぶり、自宅を出発した。意気揚々と道路を歩いているだけで、一歩ずつ健康に近づいている気さえした。

スタジオでは既に女性達が床にバスタオルを敷いて座っていた。
ほどなくして女性トレーナー氏がCDプレーヤーを再生した。するとなんとも「ヨガ的」な音楽が流れてきた。

まずは脚を投げ出して床に座り、爪先のストレッチから。徐々に動作は大きくなり、体中の筋をひとつひとつ伸ばしていく作業が始まる。
トレーナー氏は解説を加えながら体勢の指示をする。そして指示した動作が心身にどんな効果を与えるのかを説明する。柔らかな口調は心地よさを増長させた。

つま先を見つめると、足の爪を切らなきゃならないな、と思う。関節を曲げながら、内臓の存在を意識する。
毎朝慌ただしく出勤、夜までたっぷり働いて、自宅のベッドに横になれば知らない間に寝てしまう。ゆっくりと自分の身体を見つめることを暫くしていなかった。

自分の身体を見つめる体験は実に新鮮だった。ヨガの呼吸法は、思いの外コントロールが難しく、ひとり不自然な呼吸を続け、1時間のレッスンでじんわりと汗がにじんだ。
そしてヨガというエクササイズには、思った以上にその後の生活意識を変える力があることが判明した。

しかし実のところ、レッスンの間中タバコが吸いたくて仕方がなかった。
「ヨガのポージングで瞑想する時、自分は何かを考えるのだろうか」
小難しい顔で自分に問うたその答えは、ちょっと期待はずれな普通の欲望だった。


本日の1曲
Born & Raised / Joy Denalane


CONVERSE ALLSTAR

足首まで延びる紐、ボリュームを押さえたフラットなシルエット。掃きやすく、足に沿う薄目の生地。トゥとソールの白色のアクセント。ああ、なんて美しいスニーカーなのだろう。
コンバースオールスターは世界一有名なスニーカーと言っても過言ではない。

これまで何足もオールスターを履き潰してきた。制服にオールスター、バイト先の妙なかっぽう着にもオールスター。大学のキャンパスでも、社会人になったオフィスでもオールスターを履き続けている。

ところで、オールスターはデッサンのモチーフとしても優れている。
美術系予備校に通っていた人なら、一度は靴のデッサンをした経験があるのではないかと思う。生徒たちはその日に履いている靴をテーブルにごとんと乗せてデッサンする。あらかじめそれが知らされていれば、皆はそれぞれに描きたい靴を履いてくる。

ここでもオールスターは人気がある。ハイカットのくたっとした風合いは描きごたえがあるし、シューレースをほどいた姿もまたコンバースらしく、文字通り絵になる存在感がある。そういうわけで、自分にとってオールスターは予備校時代を思い出させるスニーカーでもあるのだ。

アメリカのバンド、IncubusのBrandon Boydは自分にとって最もファッショナブルなアーティストのひとりである。品のある容姿にストリートファッションがよく似合い、朱色のタトゥーが施された右腕でマイクを握るさまはなんともセクシーである。

そして彼はいつもオールスターを履いている。もっとも、オールスター以外のスニーカーを履いているところをあまり見たことがない。ライブでもミュージックビデオでもプライベートでも、ドレスアップしたパーティーでさえもいつもオールスターを履いているから、彼のファッションを凝視するたび、黒か白のオールスターを目にすることになる。

昨日下北沢で黒いレザーのオールスターを買った。昨年購入したオールスターもそろそろソールが剥がれそうになってきた。
考えてみれば、同じメーカーの同じモデルを履き続けるということはオールスター以外にない。昨日は発見から会計まで、わずか数分。これからも時々思い出したようにオールスターを買い続ける気がする。


本日の1曲
A Crow Left Of The Murder / Incubus


tasoは黄昏



考えてみると、自分で自分に「名付ける」行為とは奇妙なものである。
インターネットの世界では、ハンドルネームが実名と同等のアイデンティティを持つ。ハンドルネームはその人の印象を左右し、発言と合わせて個人を想定するヒントになったりする。

”インターネットの世界では皆ハンドルネームを使う”、という常識を知ることになったのは、今から8年ほど前、ひとり暮しの我が家にインターネットが開通した時だった。「ピー・・・ヒョロロロー」という接続音が懐かしいアナログ回線の時代である。
その物珍しさから、毎晩インターネットに釘づけになった。そのうちネット仲間ができ、掲示板へ書き込んだり、チャットルームへ入室する機会が訪れた。インターネット参加の到来である。ともなればなんらかの名前が必要になる。

当初はその場しのぎの名前を適当に名乗っていた。岩井俊二監督の『Love Letter』という映画には、不意に名前を聞かれた主人公が、目の前の本棚にあった”林真理子”と”吉本ばなな”を組み合わせて咄嗟に「林なな」と名乗るシーンがある。例えるならば、その感じによく似ている。

当時大ファンだったナンバーガールというバンドの新譜お知らせチラシがきっかけで”黄昏”と名乗るようになった。それは油性マジックでぶっきらぼうに書かれた飾り気の無さ過ぎるチラシだったけれど、文末にあった「それでは黄昏」という言葉に心打たれてしまったのである。
それからは、個人的にその言葉を使いまくっていた。何とも奇妙な語幹に惹かれてしまった。それに黄昏時に黄昏れるというのは、自分の性にもあっている気がした。

しかし”黄昏”や”tasogare”は、ID申請などの際に重複してしまうこともあった。そこで生まれたのが”taso”である。しかるに、”taso”は黄昏の”taso”である。
やはり妙な語幹を持った”taso”というハンドルネームは定着して、今では自分の一部になりつつある。まさに「実名と同じアイデンティティ」そのものになった。

本名に起因したあだ名はもちろん、一見なんの脈略も感じられないような奇妙で唐突なHNを持っている人も多い。ハンドルネームが実名と大きく異なるのは、言語圏すら超えて無数にある単語を選び、少々突飛な名前を名乗ろうと、その理由を問いただされるケースが少ないことだ。
皆は自分にどうやって名付けているのだろう?


本日の1曲
URBAN GUITAR SAYONARA / Number Girl