Archive for the '読書' Category

ブラック・ジャック

真夏でも黒いコートを着込んだその風貌で世間からは白い目で見られている。無免許医師でありながら治療に多額の金を請求するために金の亡者と揶揄される。

彼の天才的オペの技術なくしては救えない重症患者もいるのは紛れもない事実だ。誰も彼の替わりにはなれない。その事実に権力は屈し、警察は保釈を繰り返す。

彼は幼い頃、ある爆発事故の犠牲となり、身体がバラバラになる重傷を負った。彼は本間丈太郎医師によって命を取り留めたが、最愛の母は死んだ。ツギのある顔は、その時の手術の名残で、頭髪の半分は恐怖で真っ白になった。

何にも媚びることもなく、身分や人種で患者を差別することもない。それ故に人々が向ける絶対的信頼をみることもできる。
彼は権力に抗っているかのようだ。組織に属し権力を振りかざす人間達を嫌悪する。
命の危険に瀕した人間に金や権力など意味があるだろうか?彼の振る舞いは時に冷酷に見えるかもしれないが、揺るぎない哲学を感じることができる。

しかし彼はいつも高額な請求をしているわけではない。時にはタダ同然で手術を行い、手術代金をそっくり返してしまうこともある。ブラック・ジャックは冷静な眼差しで人間を見極めているのである。
作品には安楽死のプロ、ドクター・キリコも登場する。ブラック・ジャックが命を救うために奔走している間、キリコは死を望む人々をあの世へ送り続ける。

キリコは昔、戦場で働く医者だった。戦いで負傷した兵士達は激痛から解放されたい一身で安楽死を望み、処置が施されると感謝しながら死んでいく。法にも触れず、依頼人を苦しませることもなく、安楽死は静かに実行される。

本間丈太郎医師が病に侵されその人生を終える時、ブラック・ジャックにこう言う。
『人間が生き物の生き死にを左右しようなんぞ、おこがましいと思わんかね・・・』

医療で命を救うのは尊い。しかしその延命処置が必ずしも人間を幸せにするとは限らない。新たな人生が新たな困難に押しつぶされるかもしれない。
人間は何を望むのか。そしてそれはどうすれば手に入れることが出来るのだろうか。ブラック・ジャックは問い続ける。


本日の1曲
Idioteque / Radiohead


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初めて本作品を読んだのは、大学生の時だった。それまでマンガを読む習慣がなかった自分もたちまち手塚作品の虜になった。
全巻まとめて購入したお陰で、その後何度も読み返している。ここ数日で全17巻(秋田書店版)を読破した。1巻につき14編前後の短編が収録されているので、全200編以上になる。

独断と偏見で選ぶベスト3は
傷を負ったシャチとの物語「シャチの詩」、
ゲラというあだ名の少年が登場する「笑い上戸」、
義手の少年棋士「海賊の腕」。
命というシリアスなテーマを描きながら、キャラクターも個性豊かで笑いのエッセンスを忘れない。
冷血漢のイメージが強いブラック・ジャックも酒の付き合いが増える年末は律儀に電車で移動し、ピノコの不味い料理に舌を出す。シリアスなシーンで登場するヒョウタンツギや時折見せるおどけた表情は、手塚作品独特のスパイスだろう。
絶妙なストーリー展開もさることながら、背景まで行き届いた画力にも脱帽する。


ボンクラ青年の恋

リンダ・リンダ・ラバーソウル』のコマコも、『グミ・チョコレート・パイン』の美甘子も、大槻ケンヂの描く女の子はどうしてこんなに魅力的なのだろう。ボンクラな主人公の前に現れるのは、キラキラと淡い光を放つ少女達だ。

そうだ。大槻氏の著作のキーワードは『ボンクラ』だ。彼は彼の著作の中で、いかに自分が「スケベー」で「ネクラ」で「オタク」だったかを書きまくる。傾倒するのはマニアックな音楽とB級映画。であるから、売れ線を狙った作品と、それに群がる人々を軽蔑している。
友人も少なく、女の子とはロクに会話もできない。とどまることを知らない性欲に悩まされながら、無常に過ぎる青春の日々。何かをやりたいのだけど、何をしたらよいのかわからない感覚。モンモン。

以前、NHKの番組「真剣10代しゃべり場」に大槻氏が登場したことがあった。今では終わってしまったこの番組を毎週見ていた時期があった。若者達が輪になって座り、言いたい放題のアジテーションを繰り広げる。周りの友人達の評判は今ひとつだったけれど、自分は十分にハマって毎週見ていた。そして毎回、十数人の若者に混じって、毎週一人の大人(作家や芸能人など)がまとめ役として輪に加わる。

大槻氏の出演の回、確かお題は『いじめ』だった。事の大小の差はあれど、多くの人々がいじめに関わったことがあるのではないだろうか。たとえ小さな口喧嘩が発端であっても、事態は驚くべき早さで陰湿に発展してしまう。狭い世界で生きる少年少女を悩ませるのには十分な事件だろう。

若者達は快活にいじめ問題を議論していた。
『いじめられる方に問題があるに決まっている。』
『家に篭っていないでもっと外に飛び出せばいい。』
健康的で真っ当な発言だった。若者達は、何でも知っているような感覚に酔い余計に冗舌になっている。

その時「大人」としてその輪に加わってしまった大槻氏は、戸惑いの表情でそこに座っていた。彼こそ、根暗なオタク青年として青春時代を過ごした、不健康的若者だったのである。背中を丸めて発言に聞き入り、言葉を探しながらボソボソと語るその姿は、世の中の有様に萎縮する若者そのものだった。
そうだ、大槻氏は勿体ぶった言葉でいじめ問題を総括できる大人ではなかった。ボンクラ青年はその番組で、ボンクラ大人だった。そしてその姿に好感を持った。

その後、大槻氏の著作を何冊か読み、ボンクラな主人公が若き日の彼自身であることを理解した。思春期の無力感と、形成されつつある凝り固まった自我。
しかしそんな彼を爽やかな風が包むことがある。
それは恋だ。

彼の作品に登場する少女達は少女特有の無邪気な憂いを湛えている。
眩しい少女の存在はボンクラ青年の心を揺さぶり、ひとしきり戸惑わせた後、彼をほんの少し先に導く。本を読んでいるとかつて自分も体験した淡い感情がフッと自分を襲って、幾度となく目を閉じた。


本日の1曲
Wave Of Mutilation / Pixies


J.D.サリンジャー 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

ホールデン・コールフィールドは矢継ぎ早に喋りまくる。言い回しは大袈裟で、事実は誇張されている。言いたいことが沢山あるような、結局は何もないような気がしている。
ホールデンは皮肉に満ちた言葉で、次々に身の回りの出来事をこき下ろす。彼の中には”愛すべきもの”と”憎むべきもの”が交錯しているようだ。

彼のエゴは揺らぎやすく、次のセンテンスでまったく逆のことを言い出しかねない危うさがある。相手をけむに巻くように捲し立てるが、あたかもその行為自体に嫌気がさしているようにも見える。ホールデンは階級社会や、格好ばかり一丁前なブレッピー達を批判するが、彼もまた裕福な家庭のお坊っちゃんに過ぎない。

しかしその不確かさこそが魅力である。少年期に感じる疎外感や不安。下らない人間をけなすことで得る優越感。彼は16歳で、成熟には程遠い。

ある友人氏は『ライ麦畑でつかまえて』のファンであるようだった。彼に影響されて本書を初めて読んだのは高校生の時で、今考えてみればホールデンと同じ歳だった。野崎孝訳は刊行されてから30年が経っていて、独特の語り口調は良くも悪くも時代を感じさせた。
数年前には村上春樹氏が新たに翻訳を担当し、現代版『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が誕生した。野崎訳に比べホールデンの人柄も幾分マイルドに落ち着いている。

物語の性質ゆえ、評価が激しく別れる作品だ。話は支離滅裂で、結論づけされるわけでもない。つまらない人にはとことんつまらないのかもしれないが、熱狂的なファンが多いのも事実である。
ジョン・レノンを暗殺したマーク・チャップマンが犯行に及んだ直後に現場で読み、レーガン元大統領を襲撃したジョン・ヒンクリーの愛読書だった。本作品がしばしば有害図書のように語られるのは、そういった変質的犯罪を助長したとみなされているからだろう。

そして不思議なことに、高校生の時よりも現在の方がホールデンの話に共感した。16歳の少年のボヤキは狭い世界で単純にひねくれているだけだと思うかもしれない。
しかし歳をとればとる程、何が正しいのかがわからず困惑する時間が増えたような気がする。曖昧な境目を彷徨いながら、言い訳をし、ああでもないこうでもないと考えを巡らせているホールデンに深い親しみを感じる。

ホールデンは、終止不満を漏らしているが、現状打破するための答えにはいたらず、彼がこれから成長していく欠片は希薄だ。その答えが見つからない感覚こそ、曲者的な魅力なのだ。
16歳の少年のボヤキに耳を貸すか、貸さないか。本書の読書体験は喋れば喋る程、真実から遠ざかっていく実体験に似ている。


本日の1曲
A Rush Of Blood To The Head / Coldplay



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6/21 『退屈なだけの僕の話。


退屈なだけの僕の話。

もし君が少しでも僕のことを知りたいと思ってくれてるなら、まずはスナックなんかを用意してそこに座ってくれよ。この僕の話ときたら、いつだって退屈で皆をいらいらさせちゃうんだ。

僕の話は堂々回りでうんざりする程長い。初めは皆が茶々をいれるんだけど、それにも飽きちゃって、しまいにはぼんやり僕を見つめるだけなんだ。そうやって誰かに見つめられる経験ってなかなかないよね。
誰にでも少しは聞いてほしい話ってのがあるはずだ。でも、多分僕の話は君の興味を惹かないだろうな。人の話ってのはその程度のもんだ。大抵の場合はね。

なんで僕がこうしてチマチマとキーボードなんかを叩いてるかって?しかも毎晩ときてる。ひょっとしたら誰の目にも触れないかもしれないよね。世の中で僕の存在を知ってる人なんて、ほんの何人かしかいないんだよ。ほんとの話。


街を歩いてるとさ、例えば、交差点なんかで大勢とすれ違うわけだ。僕はここで生まれたわけじゃないし、そもそも知り合いなんてほんの何人かしかいないんだ。これはさっきも言ったよね。
だからいくら大勢の人とすれ違ったって、誰も僕に気付かないし、声も掛けてこない。皆が目的地へすたすた歩いていくんだ。

だから僕が一日そこに居たって、誰の気にもとまらないんだよ。おそらくこの先かかわり合いになる人もいないんじゃないかな。そんなのって、なんかまいっちゃうよね。

仕方なく僕は部屋に戻ってくるわけだけど、またこの部屋ってのが一層僕を滅入らせちゃうわけだよ。机に散らかったスナックや固いパイナップルの芯なんかを眺めてるとね。片付けるってことが苦手なんだよ。ごみを捨てる時ってすごく神経質になっちゃうんだ。

でもさ、考えてもみてよ。“ほんの何人かの知り合い” 以外の人がもしこれを読むんだとしたら、それってちょっとしたサプライズなんじゃないかな。そういうのって悪くないよね。

(注:筆者は『The Catcher in the Rye』読書中につき、ホールデン口調になっています)


本日の1曲
Teen Age Riot / Sonic Youth


松尾スズキ、お前もか!『ニャ夢ウェイ』

『ウチの猫がイッチバン可愛い』と言われ、その後アッサリと『tasoんちの子は2番ね』と言われた時、一生懸命平静を装ったが、内心殴ってやろうかと思った。ペットを飼っている皆様、どうか『ウチの子が一番』発言は慎んでいただきたい。皆が皆、ひっそりとそう思っているのは暗黙の了解ってことでいいじゃないか。

芥川賞の候補になろうが、今をときめく大人計画の主宰であろうが関係ない。最早松尾スズキ氏は猛烈な猫馬鹿にしか見えない。
ロッキング・オン・ジャパンで連載されていた猫コラム『ニャ夢ウェイ』が単行本化され、友人氏はそっと自分に『ニャ夢ウェイ』を差し出した。

ある日、捨て猫オロチが松尾家にやって来た。オロチの可愛さに平常心を失い、惑わされ続ける松尾夫妻の痴態がさらされている。
・・・松尾スズキってこんな人だったのか。そして急激に親近感が沸く。

本書は愛猫オロチの面白エピソード満載なのだけど、個人的にはタイ旅行の明らかにオロチがデカ過ぎる合成写真が一番のケッサクだと思う。ガムテープのにおいを臭いで変な顔になるオロチ。自分の尻尾を追いかけ回すオロチ。重力を発見するオロチ。
そんなオロチの一挙一動に翻弄され、”キャワイー!”と悶絶する馬鹿な飼い主。

猫は表情を変えない。テーブルの角に頭をぶつけゴツン!と鈍い音がしても、バスタブから湯船に落っこちても常にポーカーフェイス。
意味不明な行動も多い。食べ終わった冷やし中華の皿に一生懸命砂をかける仕草をしていたり、クチャクチャという地味〜な音に目を覚ますと暗がりでティッシュを食らっていたりする。
家猫のはずなのに耳に泥がついていたり、臭いナ臭いナと思っていると隣にいる猫氏の肉球の間にびっしりうんこがはさまっていたりする。猫との暮らしは、想定外のサプライズに溢れているのだ。

猫は人間とは違う次元で暮らしているようにも見える。こちらがいくら深刻な悩みに頭を抱えていても、湿布の臭いを嗅いだり、空き缶のプルタブを追いかけるのに忙しい。
トイレの淵に片足を乗っける無駄にかっこいい仕草や、屋外で繰り広げられる野良猫の紛争にビビリつつも部屋の中から彼なりの野次を飛ばしている様は、やっぱり”キャワイー!”のである。


本日の1曲
My Best Friend / Weezer


猫らしさ炸裂『きょうの猫村さん』

昨年の夏にケーブルテレビを契約した。そして宅内工事の時に自宅に居た友人氏は『猫村さん見れる!猫村さんが!』と意味不明にはしゃいでいた。聞くと”猫村さん”とは、マンガのキャラクターで、JーCOMの会員専用インターネットコンテンツで1日1コマづつマンガが公開されているらしい。
1コマづつってナニ?動かないの?家政婦って、猫が家政婦なの?聞けば聞く程よくわからないまま、時は過ぎた。
そして後日、当の友人氏が『きょうの猫村さん1』という本を貸してくれた。
成る程、主人公は猫の家政婦だった。そして”猫村さん”は猫であるにもかかわらず、おせっかいなおばちゃんだった。お屋敷に奉公に出掛けては、家族のいざこざに頭を突っ込み、一丁前に世話を焼き、お屋敷中を奔走している。

猫村さんについて説明するのは骨が折れる。ただ「カワイイ」だけでは言葉が足りない気がするし、その一言で片付けたくない程好きになってしまった。猫村さんの魅力はいじらしさにある。時には厳しい表情で説教をたれ、真っ直ぐな愛情を注ぐ。こぶしをギュッと握りしめて逆境に立ち向かう。そのひとつひとつがいじらしい。

普段はテキパキと家事をこなす猫村さんだが、フト猫の本性を見せる時がある。ペロペロと涙をぬぐう姿や疲れてゴロンと横になる姿は猫を飼っている人にはお馴染みの仕草である。そこはかとない猫のエッセンスに身悶えながら読書は進む。
特製ネコムライスをワゴンで運び、鼻歌を歌いながら皿洗いをし、家政婦仲間と刑事ドラマの成り行きをかたずをのんで見守っている。

これ、下書き?というようなラフな画風に、見開き4コマという大胆すぎるページ構成。セリフも活字ではなく手書き文字で、マンガというよりは絵本の趣すらある。

そして昨日(5/31)待望の第2巻が発売された。今夜立ち寄った新宿ブックファーストでは在庫も残り少なく、新刊コーナーには2冊しか残っていなかった。また友人氏に借りようか、と一度は購入を見送るが、レジで会計をしている際に目の前のカウンターに数冊置かれた『きょうの猫村さん2』が目に入ってしまった。・・・買わずにはいられなかった。

Amazonのトップセラーランキングでは、通常版が4位、”湯けむりバージョン”は2位にランクインしている。
”湯けむりバージョン”は猫村柄の手ぬぐいと石鹸付きの特別仕様で表紙も通常版とは異なっている。どうやら”湯けむりバージョン”は大人気であるらしく書店ではお目にかかれなかった。「品切れです」のチラシが棚に貼ってあった。

現在マガジンハウスのサイトの特設ページ”猫村.jp”にて1コマづつ猫村ワールドを堪能できる。本をまだお持ちでない方にもオススメです。(無料の会員登録が必要)
それにしてもランキング上位や、猫村.jp。猫村さんは皆の心を虜にしてしまったようだ。


本日の1曲
いろんなことに夢中になったり飽きたり / サニーデイ・サービス


ハリー・ポッターデビュー

現在ハリー・ポッターの物語は6巻まで発売され、来夏には7巻が発売されるそうだ。
国内の総発行部数は、単行本と携帯版を合わせて2205万部。最早恒例と言うべき発売日当日の数々のイベントをテレビのニュースで何度か見たことがある。当然書店では予約合戦も激しい。いつの間にかAmazonにはハリー・ポッターストアができ、発売の随分前から予約が開始されている。勿論、特製ブックカバーの特典つきで。

その日書店をふらついていると、ハリー・ポッター作品が山積みにされていた。地味な書店にあってそこだけ活気に溢れている妙な光景だった。それは今月17日、ちょうど最新作の発売日で、狭い書店に大判の本がうず高く積み上げられていた。一人の御婦人が本を手に取り、パラパラと頁をめくっていた。

これまではそんな騒動を横目に確認するだけだった。ハリー・ポッターシリーズ第一作『ハリーポッターと賢者の石』が刊行されたのは1999年。流行りに流行った本作を7年経過し初めて手に取った。強烈な”今更感”は否めないが、本日読了。

随分前にDVDで映画を観た。映画を観てあまりピンとは来なかったが、元来ファンタジーは嫌いではない。機会があれば原作を読みたいと思っていたところだった。
最新作の発売日にも関わらず、『一番最初の本ありますか?』と店員氏に尋ね、遂に一作目を購入した。

ごく普通(或いはそれ以下)のさえない少年が、親戚一家にいびられながら肩身の狭い生活を送っている。そこに突然魔法学校・ホグワーツの入学許可証が届けられ、ハリーの生活は一変してしまう。さえない少年は魔法界ではスターだったということだ。

読んでいくうちになんとなく映画のシーンを思い出すものの、やはり小説の方が面白い。想像は膨らみ、魔法と言うモチーフがそれを一層無限に近付ける。
物語中には様々な不思議なものが登場する。家族や仲間との手紙はバサバサとふくろう便が届けてくれるし、百味ビーンズには”はなくそ味”だってある。

一冊を読み終えて、子供達が夢中になるのが判る気がした。いつの時代も子供達は「魔法」に憧れる。日常のちょっとした嫌なことが簡単に解決できたらどんなにいいだろうと妄想する。嫌いなやつが廊下ですべって転んだり、食べたいものが目の前のテーブルに一瞬で並んだり。魔法を使える主人公の活躍は何より頼もしい。

子供の頃、出会っていたらきっと大ファンになっていただろう。分厚い長編を繰り返し読み、発売日が待ちきれないはずだ。
そして明日にでも第2巻を購入する気でいる。


本日の1曲
魔法 / サニーデイ・サービス


話題の書『ダ・ヴィンチ・コード』

2003年に発行された『ダ・ヴィンチ・コード』は瞬く間に話題をさらい、日本でも400万部を突破、今も尚売れまくっている「超」ベストセラーだ。(何と発行部数は世界中で4900万部を超えている)原作を元に製作された映画は今週末「全世界同時公開」、関連番組も数々放送されている。

レオナルド=ダ・ヴィンチの残した名画の中に世界を揺るがす「真実」を解く鍵が隠されているという。何世紀にも渡って研究者達を虜にし続けているその謎を解き明かすべく物語は進行する。研修者達は最早、ダ・ヴィンチの絵を単なる絵画として見ているのではない。そこには歴史を覆す、真実が描かれているからだ。

文中には聖書からの引用に溢れ、聖書が改ざんされた事実や、異教徒の思惑についても言及している。研究書のような記述に知的探究心をくすぐられ、息をつかせぬストーリー展開でページをめくる手が止まらない。
<〜以下、本書の内容に触れています〜>

ルーブル美術館長の衝撃的な死で幕を開ける。あろうことか彼は「ウィトルウィウス的人体図」を模した姿でルーブルの床に横たわっていた。死の間際に彼が伝えたメッセージを解読すべく、象徴学者ラングドン氏が登場する。

たとえ、キリスト教に関して知識が薄い人でも、我々の生活にはその教えや習わしが溶け込んでいるものだ。「13日の金曜日」が不吉だとされる理由や、ディズニーのアニメーションに隠された暗号のくだりは好奇心をくすぐり、ストーリー展開で読者を引き込む。

本書でダ・ヴィンチは、秘密結社(シオン修道会)に属していたとされている。キリスト教の歴史を揺るがすその真実を知るのは幹部の数人のみ。ダ・ヴィンチは密かに秘密組織を率いていたとされ、歴代総長の中にはニュートン、ドビュッシー、ユゴー、コクトーの名も連ねられている。世界的に著名な彼等が本当に秘密結社を率いていたのだろうか?

著者のダン・ブラウン氏は1年間の下調べを経て本書を書き上げた。キリスト教の影響は文学や音楽の芸術作品に見ることが出来、明確な信仰を持たない自分に事の重大さはわかる。
しかしイエス・キリストは我々と同じただの人間であり、信者のでっちあげの「神」でしかないとしたら?キリストの血が受け継がれ、子孫がまだ生きていたら?キリスト教の真実を知る為に手段を選ばない人々の思惑と難解な暗号にまみれた緊張感の連続だ。

明かりの落とされた深夜のルーブル美術館をラングドンが進むくだりを、深夜に読んだ。ベッドサイドテーブルの明かりだけをつけた状態である。まるで自分が薄気味悪い美術館を歩いているように一行毎に物語が脳内で映像化されてゆく。
自室はルーブル美術館さながらに静まり返っている。うっすらと闇に浮かぶ名だたる絵画に見下ろされ、ゆっくりとその怪奇的な殺人現場に歩を進める。照明が落とされた美術館の気味悪さに身の毛がよだつ。

そして次の瞬間・・・目の前でモナ・リザが不吉に微笑みかけてきた!
うわっ!
それはこの本に挟まれた紙製の「しおり」だった。モナ・リザの顔半分が本からはみ出していただけだったが、はっきり言って漏らすかと思った。映画化が決定しているからかイメージし過ぎてしまった。

冒頭で『この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて真実に基づいている』と述べられているが、自分のようにいきなりその事実を突き付けられた者はフィクションとノンフィクションの境目の認識に戸惑い、呆然としてしまった。
友人氏に「シオン修道会のホームページあるかなあ!?」と捲し立てたところ「秘密結社だからあるわけないよ!」と爆笑されたのがそれを物語っている。
そして勿論、映画館に行く気満々でいる。


本日の1曲
Jesus, I Mary Star Of The Sea / Zwan


『まんが道』 藤子不二雄A

まんが道』の主人公、満賀道雄と才野茂は富山県高岡市の小学校で出会い、漫画を通じて意気投合する。それは藤子不二雄Aと藤子・F・不二雄の運命的な出会いである。『まんが道』は二人の出会いに始まり上京して漫画家になった数年後までが描かれる、半自伝的作品だ。

二人は常に新しい漫画の構想を練り、ノートにアイデアを書き付ける。上京し漫画一本で生活すを決めた彼らだが当初は貧乏だった。しかしそこに悲壮感は漂っていない。お互いに支え合い、目標を同じくして集まった仲間がいたからだ。
トキワ荘は手塚治虫のかつての仕事場であり、石ノ森章太郎や赤塚不二夫らも住んでいた。今や国民的漫画家の新人時代を垣間みることが出来る重要な記録とも言えるだろう。

二人には毎日が怒濤の日々だ。連載の決定に歓喜し、作品の不評に落ち込むこともある。満賀と才野は二人であるからこそ困難を乗り切ることが出来る。励まし合い、創造する喜びや達成感を分かち合いながら、彼らは漫画の新しい道を切り開くために精進する。

原稿が完成すると大好きな映画に出掛け、祝い事があるとチューダー(焼酎のサイダー割り)で乾杯する。それは些細な祝杯に過ぎないが、一つ一つの出来事が若い力に溢れていて、その情熱はこちらにも飛び火する。

作品中の台詞も大いに魅力的だ。驚くのは感嘆符の多さである。満賀と才野のやりとりは臨場感に溢れている!アドレナリン大放出の若い2人のコーフンぶりにこちらもクスッと微笑んでしまうのだ!

物語の序盤で「肉筆回覧誌」というものが登場する。これはまんが道を語る上でかかせないアイテムだ。二人がまだ学生の頃、当時流行し始めた児童誌を真似て雑誌を手作りする。描きためた漫画や絵物語を収録し、勝手に広告まで製作する。針金で製本された肉筆回覧誌は近所の少年達の手に渡り、読み込まれた形跡を残して二人の元に帰ってくる。なんだかこちらまでわくわくしてしまう。初めて読者を獲得した興奮と快感が伝わってくるエピソードだ。

作品中には実際の漫画家が多く登場するが、彼らにとっても手塚治虫氏の存在は特別だった。二人が学生時代に大阪の手塚邸を訪ねた時、氏は400ページの作品のために1000ページを描いていたことを知る。彼らは天才の努力を目の当たりにし、恥ずかしさで持参した原稿を見せることができなくなってしまう。そして帰りの列車の窓から持参した原稿を投げ捨てる。そして彼らは新たな闘志に燃えるのであった。

大学時代に友人氏から「絶対好きだと思うヨ」と大推薦を受け、迷わず全巻注文した。そのページをめくる度に少年のまっすぐな情熱がビシビシと伝わってくる。
何かを目指す人にとって『まんが道』は一生のバイブルになるであろう傑作だ。


本日の1曲
A Praise Chorus / Jimmy Eat World


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>>作品メモ >>

1970年(昭和45年)から72年まで、秋田書店『週刊少年チャンピオン』に連載された「まんが教室」4ページのうち2ページ分に描かれる。77年(昭和52)から82年まで少年画報社『週刊少年キング』に連載、『藤子不二雄ランド』に引き継がれる。89年から、続編の『愛…しりそめし頃に…』が小学館『ビッグコミックオリジナル増刊』で連載中。現在、中央公論新社の文庫版とブッキングの藤子不二雄Aランドで入手可能。

1986年と87年にNHK銀河テレビ小説でドラマ化された。
Wikipediaより抜粋)


巡り巡る書籍

先日部屋の模様替えをした。一人暮らしをしていても滅多に部屋の模様替えをしない。この部屋に越してきた時も、間取り図に詳細なレイアウトを決め、引越の荷物を運び込んだ。本棚はここ、机はここ、テレビはここときっちり収まりが良い。

しかし本来ある部屋と部屋をのしきりを取っ払っているためにこのMacintoshスペースからはオーディオが背を向けていた。スピーカーも部屋の向こうを向いている。今の曲もう一回!と思ってもリモコンの電波も壁に阻まれている。したがってチョロチョロと移動を余儀なくされていた。
そして今回ふたつの本棚の場所を移動、オーディオもテレビの上から本棚の上に移動し、互いの部屋の中間に設置した。どちらの部屋に居ても音が届く、すこぶる快適な環境である。

本棚を移動する時、当然ながら中身を一度床にぶちまけることになる。(懐かしいわネー)と手に取る中にももう読まないであろう本がいくつかある。本来、モノを捨てることも売ることも苦手である。できる限り手元に置いておきたい。しかし、人の趣味は変わるし、期待外れだった本もある。

それらをまとめて古本屋に売りにいくことにした。青梅街道沿いの古書店に持ち込み、文庫本29冊は600円に還元された。帰り道の商店街で買ったスリッパの足しにはなった。捨てるはずのものが現金になったのだからヨシとする。休日の古書店は賑わっていた。

実は古本を購入したことはほとんどない。思い出すことができるのは谷崎潤一郎の『細雪』全3巻とマンガの『タッチ』全巻くらいである。以前古本屋でバイトをしていたくせに、本やCDを中古で購入することは滅多にない。

今回移動したのは文庫本専用の棚であるからハードカバーの「もう読まないであろう本」も沢山ある。安く売るのもいいけれど、周りの友人氏達に贈答した方がよい気もする。問題は所有する本に興味を示す友人がいるかどうか。果たして「宇宙開発」に興味がある人が周りにいるだろうか?

古本屋をよく利用する友人氏は「かつて人の手にあったものが自分に渡ってくるっていうその循環が好き。」と言っていた。成る程、知識のリサイクルとはよく言ったもので、今日はその循環の端っこに加わることができた。友人氏のその言葉を思い出してなんだか満足な気分になっている。


本日の1曲
Wander Around / Asparagus