J.D.サリンジャー 『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

ホールデン・コールフィールドは矢継ぎ早に喋りまくる。言い回しは大袈裟で、事実は誇張されている。言いたいことが沢山あるような、結局は何もないような気がしている。
ホールデンは皮肉に満ちた言葉で、次々に身の回りの出来事をこき下ろす。彼の中には”愛すべきもの”と”憎むべきもの”が交錯しているようだ。

彼のエゴは揺らぎやすく、次のセンテンスでまったく逆のことを言い出しかねない危うさがある。相手をけむに巻くように捲し立てるが、あたかもその行為自体に嫌気がさしているようにも見える。ホールデンは階級社会や、格好ばかり一丁前なブレッピー達を批判するが、彼もまた裕福な家庭のお坊っちゃんに過ぎない。

しかしその不確かさこそが魅力である。少年期に感じる疎外感や不安。下らない人間をけなすことで得る優越感。彼は16歳で、成熟には程遠い。

ある友人氏は『ライ麦畑でつかまえて』のファンであるようだった。彼に影響されて本書を初めて読んだのは高校生の時で、今考えてみればホールデンと同じ歳だった。野崎孝訳は刊行されてから30年が経っていて、独特の語り口調は良くも悪くも時代を感じさせた。
数年前には村上春樹氏が新たに翻訳を担当し、現代版『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が誕生した。野崎訳に比べホールデンの人柄も幾分マイルドに落ち着いている。

物語の性質ゆえ、評価が激しく別れる作品だ。話は支離滅裂で、結論づけされるわけでもない。つまらない人にはとことんつまらないのかもしれないが、熱狂的なファンが多いのも事実である。
ジョン・レノンを暗殺したマーク・チャップマンが犯行に及んだ直後に現場で読み、レーガン元大統領を襲撃したジョン・ヒンクリーの愛読書だった。本作品がしばしば有害図書のように語られるのは、そういった変質的犯罪を助長したとみなされているからだろう。

そして不思議なことに、高校生の時よりも現在の方がホールデンの話に共感した。16歳の少年のボヤキは狭い世界で単純にひねくれているだけだと思うかもしれない。
しかし歳をとればとる程、何が正しいのかがわからず困惑する時間が増えたような気がする。曖昧な境目を彷徨いながら、言い訳をし、ああでもないこうでもないと考えを巡らせているホールデンに深い親しみを感じる。

ホールデンは、終止不満を漏らしているが、現状打破するための答えにはいたらず、彼がこれから成長していく欠片は希薄だ。その答えが見つからない感覚こそ、曲者的な魅力なのだ。
16歳の少年のボヤキに耳を貸すか、貸さないか。本書の読書体験は喋れば喋る程、真実から遠ざかっていく実体験に似ている。


本日の1曲
A Rush Of Blood To The Head / Coldplay



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