Archive for the 'ライブ&音楽' Category

ストレイテナー @恵比寿みるく

狭い!地下の空間は四方を壁と階段に囲まれ、ドラムセットを置くとスペースが埋まってしまうような小さなステージだった。400人程が詰め込まれたその空間の一番後ろを陣取りバンドの登場を待つ。

そして思いがけずマネージャー氏の前説が始まる。普段のライブではまずマネージャーは顔を見せないが、今日はアルバム購入者の中から抽選で選ばれた人のみが参加できるフリーライブだ。そのせいか会場内にはどことなくフレンドリーな雰囲気が漂っている。

メンバーが登場すると、観客がどっと前方に押し寄せる。ライブは「White Room Black Star」で幕を開けた。皆が拳を突き上げ、ジャンプする!開場してから開演までの時間を共にぼけっと過ごしていた周りの人々が一斉に跳ね回る様には毎回驚く。それは(同じ音楽で集まった人達なんだなぁ)と感じる幸福な瞬間でもある。

ステージ位置が低くメンバーの顔はよく見えなかったが、bassの日向氏は時々PAモニタの上に立ち、オーディエンスを煽る。時間が経つごとに飛び散る汗が増量する。曲間にdrumsナカヤマ氏の雄叫びが聞こえる。彼の突き上げるドラムスティックが照明に光る。

発売直後のアルバムからのナンバーは熱狂をもって迎えられた。『Blue Sinks In Green』は既に定番曲のような盛り上がりだ。そして『Discography』『Killer Tune』はテナーファンにはもはや説明の余地がない。これぞディスコチューン、チュチュンチューンである。
そして明らかに周りの温度が上昇し、一気に空気が薄くなるのを感じる。曲が終わるとメンバー同様、オーディエンスの息もあがっている。

ストレイテナーは曲間のMCを最小限に止める。水分補給をし汗を拭いたらストイックに演奏し続ける。後方で腕を組みながらの観戦だったが、前方からは何人もギブアップした人々が流れてきた。オーディエンスの波が前方、後方と流れを変えながらうねり続けていた。voのホリエ氏も最後にモニタ上に上がりギターを掻き鳴らす。その姿は非常に色めき立っていた。

このライブはいわゆる「レコ発ライブ」だ。アルバム購入者にシリアルナンバーの記載された用紙が配布されインターネットで申し込む。当選すれば予約番号がメールで通知され、ローソンの店頭でチケットと引き換える(この時点で初めてライブが入場無料ということに気がついた)。応募期間が短く、開催直前の告知であった為か運良くチケットを手にすることが出来た。


本日の1曲
Blue Sinks In Green / ストレイテナー



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08/01 『ストレイテナー @FUJI ROCK FESTIVAL2006
01/18 『ストレイテナー @渋谷QUATTRO


戦争を歌うということ

ある音楽雑誌編集者が「この時代にロックをやるのは難しい」と言っていた。「全面戦争の時代なら戦争反対を叫べはいいし、平和な時代なら退屈だ!と歌える」と。
全世界的に平和主義者(支持者)が増え、アンチ戦争の気運は高まっているのにも関わらず一向に戦争は無くならない。善悪がほぼ等しい比率で混じり合うカオスの時代。

この所、何組かの身近なバンドが戦争をテーマにした楽曲を発表した。それは判りやすい反戦歌ではないが、彼等は無意味な戦いの虚しさを歌う。いちリスナーとして、今までにないテーマの楽曲に驚いた。初期衝動は去った。今こそ伝えたいことがある。そう言っているようにも思えた。

けれども音楽や芸術で反戦を叫んだところで、簡単に世界は変わってくれない。戦争が繰り返されるたびに表現者達は平和を呼びかける作品を送り出してきたではないか。芸術の無力さについて考えざるを得ない。

戦火が絶えないどこかの国でインスタレーション(芸術的空間演出)を企てたアーティストが、その国の現状を知る人に作品の展示を止められたというエピソードがある。彼が用意したのは光を発する装置を使った幻想的な作品であったが、その国ではその装置すら盗難の対象になる。
貧困に喘ぐ人々の前に、現代美術は無力だった。彼のコンセプチュアルな作品よりも、その国の人々に求められているのは金であり、今日の食料であった。

そんなことを考えていたら恐ろしい夢を見た。ある外国兵が戦車でお寺の敷地に乗り入れ、自分は敵ではないことを必死に訴え、戦車の中で夜を明かすことを承諾してもらう。そしてお寺の関係者は彼を友好的に迎えた。

しかし夜明けが訪れて、彼は戦車ごと自爆し辺りは火の海と化した。上空に高く舞い上がった彼の体を間近で見たところで目が覚めた。

悪夢だった。起きてから暫くは気分が滅入って何もできなかった。平和な朝にもたらされたリアル過ぎる夢。争いが続く限り、こういうことは世界のどこかで確実に起こっている。
夢の中のその兵士は、自爆する前、境内の大きな木の樹皮に額を押しつけ、両手で巨大な幹を抱きしめていた。それは繰り返される裏切りで疲弊した人々の悪夢のような現実だった。暖かなベッドで見た絶望的な夢は、ある人々にとっては夢ではない。

反戦を歌うことに意味はあるか?
ひとりの人間が個人的意見を世にアピールすることは本当に意味があるのか?
手榴弾を投げる手を止め、命令のスイッチを押す手を止めることが出来るか?

明確な答えが出せない自分の鈍感さが本当に嫌になる。しかしながら、その意思表示に意味があると思わなければ、一切の芸術活動は無意味になってしまう気がしている。


本日の1曲
American Idiot / Green Day


拝啓、親愛なるアーティスト様

敬愛するアーティストの新作を手にしたときの高揚感は何にも代え難い。そこには彼等の現在が詰まっている。伝えたいことは全てその楽曲に込められているはずだ。だからこそ作品を手にとって実際に聴くまでの間こんなにも胸騒ぎがする。目をつぶって彼等が見せてくれる世界を想像する。君の世界はどう変わったか?その世界にはまだ共感の余地はあるか?と。

CDのビニールを開封する行為は日々世界的に行われている最も身近なイベントのひとつだ。君が作品に込めた想いは皆に伝わるだろうか?響くだろうか?
そして手元に届いたばかりのCDを見つめ、ゆっくりと再生ボタンを押す。

音楽が生活の隙間を満たす。その日常の風景はリスナーの数だけある。我々が楽曲からイメージする風景のほとんどはアーティストすら知ることが出来ない。自分の鳴らした音楽が誰かの日常に溶け込んでゆく。孤独な夜の喧噪や、幸せの日だまりをなぞってゆく。聴いてくれる何人かの大切な1曲になることができたらと願う。彼等の作品からはそんな切ない希望を感じることができる。

彼等は自分自身を発信することに恐れを感じるだろうか?作品は意のままに伝わらないかもしれないし、その表現が誤解を招くかもしれない。認めない人は去っていくだろう。

しかしその作品を作り終えた時、彼等にはきっともう次の世界が見えている。発信し続けることは希望である。求める理想に程遠くても、それでも必死に手を伸ばす。無力感と僅かな希望を彼等は歌う。新たな世界の輪郭は無限の要求を迫るだろうが、走り続けている限り求め続けることができる。そうして導いてくれた新しい世界はきっと新たな出会いを生む。

生まれてから死ぬまでに自分の存在すら知らない人の数は圧倒的だ。だからこそ彼等は音楽を鳴らす。ちっぽけな自分がここにいることをわかってもらえるように。


本日の1曲
Farewell Dear Deadman / ストレイテナー


The Pillows

毎回のコラムに合わせて音楽をセレクトするのは、いろんなアーティストの音楽を改めて聴くいい機会になる。素直にその日に一番多く聴いた楽曲を選ぶ日もある。大体においては書き始める時には曲が決まっていない。

iTunesのパーティーシャッフルでThe Pillowsの「Funny Bunny」が流れて、それまで快調に記事をタイプしていた手が止まった。そして暫く手を休めてそれに聴き入った。
瞬間的にある種の誠実さが胸を打つことがある。

最初に断っておくと、The Pillowsに関して今現在アルバムを1枚持っているだけでライブも観たことがない。だからもしThe Pillowsファンの方がこれを読んだらその拙さに苦笑いするかもしれない。
ただ、その音楽の誠実さは確実に届いている。TVで、街中で、彼等の曲を耳にする度に。

結成は1989年。「彼等」なんて呼ぶのもはばかられる程である。まだ自分は小学生だった。もしその当時から同じことをずっと歌い続けているとしたら、それほど尊いものは他になかなか見つからない。
そして一度でもその楽曲に触れたことのある人なら、自分が言わんとしていることはわかってもらえると思う。

真剣に音楽で勝負しているのが聴いた瞬間にわかる。そのポップなメロディーと相反するかのような意志の強い歌詞。だから気分が滅入った時ほど聴きたくなる。

君の夢が叶うのは 誰かのおかげじゃないぜ 
風の強い日を選んで 走ってきた            
———Funny Bunny

楽曲の印象通り、vo.山中さわお氏がこんなに真っ直ぐに生きているのだとしたら、その生き方は辛くないだろうか。彼は永遠に器用な大人になれないのか。間違ったことにも頷く妥協は本当に必要ないのか。

しかしながら彼は16年もの間The Pillowsというバンドで自らの音楽を鳴らし続けている。その間ずっと音楽と自分自身と向き合ってきたのだ。自分のような若造が簡単に想像できるものではない。その説得力はこちらを黙らせるけれど、おそらく彼は誰かを黙らせるために歌っているのではない。

彼にはロックしかなかったんじゃないか。信じられるものも逃げ込める場所もロックしかなかった。優れたアーティスト達がそうであるように、そうやって彼は孤独を受け入れざるを得なかったのではないか。
だからその音楽は切実で、こんなにも胸を打つ。

時代が望んでも 流されて歌ったりしないぜ 
全てが変わっても 僕は変わらない
———Fools on the planet        

あるバンドはその解散ライブで「たくさんの希望と絶望をありがとう」とオーディエンスに告げてステージを去ったそうだ。
そうして信じた道を必死に生きていこうとする人達が好きだ。

音楽に関しては自分は所詮いちリスナーであるが、誠実な作品には誠実に耳を傾けたいと思う。所詮なりの、敬意を込めて。


本日の1曲
Funny Bunny / The Pillows


ROCKの聖地

ロックの聖地と呼ばれる場所は世界中にあるが、weezerファンの自分にとってやはりすぐ思い浮かぶのは「GARAGE」と呼ばれた彼等のプライベートスタジオである。

weezerの1stアルバムには「in the garage」という曲が収録されている。ロックキッズの片鱗をうかがわせる大好きな曲だ。

vo.リバースにとってガレージはまさに城。
壁には大好きなバンドKISSのポスターが貼ってある。’’ガレージにKISSのメンバーを待たせてるんだ’’と彼は歌う。
自分のお気に入りのものに囲まれて、変な歌 ’’stupid song’’ を歌っても誰にも聴かれることはない。
’’No one hears me sing this song’’

weezerファンにとって聖地だったこの場所もその後売却され、新しい老夫婦オーナーの意志によってあっさりと取り壊されてしまった。老夫婦にとっては単なる汚い倉庫に過ぎなかったのだろう。
しかし、そのエピソードがやけに自分の心を打った。

自分にとって大事な事柄も他人にとってはまったく価値がないこともある。言い換えれば、特定の人にしか分からない価値がある。

先日、NY伝説のライブハウス、CBGBが移転することが決定したらしい。経営の存続もあやぶまれていたが、世界中の支持者達が署名活動などを行って、閉店は逃れた。
かつてはパティ・スミスやラモーンズもその舞台に立ち、それまでアンダーグラウンドだったNYパンクを世に知らしめた。考えようによっては世界で一番有名なライブハウスと言っても過言ではない。3年前にNYに行った時、通りの突き当たりに突然CBGBの看板を見つけ興奮したものだ。

ところで、国分寺市から国立へ抜ける坂道「たまらん坂」はRCサクセションのファンにとっての聖地であるようだった。コンクリの壁には無数の落書きがあり、その音楽にはほとんど触れたことが無い自分でも胸が熱くなる風景だった。

高円寺駅前に深夜まで営業している「Yonchome Cafe」というお店がある。この自宅からも歩いて何分とかからない。
大槻ケンヂの『リンダリンダラバーソール』という本を読み、かつての筋肉少女帯のメンバーがYonchome Cafeに集合し、解散の決定を下したというエピソードを知った。
連日若者で賑わう街角のカフェも、彼等にとっては忘れられない場所なのかもしれない。


本日の1曲
In The Garage / Weezer


チケット争奪戦

また先行抽選にハズレた。
今年に入ってから2連勝だった。ストレイテナーは公演日直前の電話発売で運良く手に入れることができたし、数日前にはZAZEN BOYSのチケット当選の知らせが来た。
今年はチケット運がいいのかもしれない、というのは楽観だったようだ。

5、6年前に比べると明らかにチケットの争奪戦は激しくなっているんじゃないかと思う。実際にそう感じる。
(チケットってこんなに取れなかったっけ!?)と。

大学時代にNUMBERGIRLのライブによく行ったが、わりにすんなりとチケットが取れた記憶がある。SHELTERやLOFTのようなライブハウスでは店頭発売に並んだりしたがZEPP TOKYO、SHIBUYA-AX、赤坂BLITZくらいのハコであればチケットを手にすることができた。

NUMBERGIRLの場合はライブ会場で配られる「全国共通模試(懐かしい)」と呼ばれるアンケートに回答すると事前にDMが送られてきた。一度そのDMが届かず、慌てふためいて事務所にメールしたことがある。今思うと相当慌てていたはずでちょっと恥ずかしい。

当時もNUMBERGIRLは十分「人気」があったと思うのだ。でも行きたくても行けない状況はなかった。
だが今やチケットを手にするのにこんなに苦労する時代になったとは。

昨年の11月から年末にかけて、おそらく15連敗くらいした。
インターネットで先行抽選受付を申し込むたびに落選のメールが来た。もはや、人気のあるバンドはFESでしか観ることができない状態なのか。
「FESが定着し、ライブに行くことが特別なことではなくなってきた」とはよく言われるが、CDを聴く→ライブに行きたい→チケット購入、という思考の流れがよりスムーズになってきたのかもしれない。それこそアーティストには嬉しいことだろう。

大きな会場でのライブはオーディエンスの顔が見えないし、ライブの意味が希薄になると考えるバンドもいる。その意味は理解できるし、実際ライブ中にステージ脇のモニターを眺めるのはあまり好きではない。

しかしながら、約束された素晴らしい時間を、抽選で逃し続けるのは結構さみしい。


本日の1曲
Just Go On / Asparagus


夏の日、残像

昨年の7月半ばのこと。友人がASIAN KUNG-FU GENERATIONのCDを貸してくれた。一ヶ月後のサマーソニックで彼等がメインステージに登場するからだ。折角だから聴いてみなよ、と。

もちろんバンド名も知っていたし、何曲かは耳にしたことがあった。以前住んでいたアパートの取り壊しが決まり、急遽引越を余儀なくされていた折に「嗚呼 晴天の霹靂〜」というフレーズの「君という花」がケーブルTVでパワープレイされていたのでよく覚えていた。アパートの取り壊しは自分にとってまさに晴天の霹靂だったのだ。

印象的なメロディーと楽曲の疾走感、まっすぐな詩の世界に好感を持った。気付けば一日中CDを繰り返し聴いていた。
驚いたことにボーカルの後藤さんは同じ高校の先輩だった。
高校時代にも彼の存在は際立っていたが、まさか。パソコンのディスプレイの前で、無言。

上京して10年目。一方的にではあるが、アーティストとリスナーという立場で再会した。しかもちゃんとした流通ルートにのって。
ほどなくリリースされている作品を全て購入した。
2005年の夏、スピーカーからはASIAN KUNG-FU GENERATIONの音楽が流れ、それを呆然と聴き入る自分がいた。

今や彼の音楽に多くの人が耳を傾けている。自分自身を音楽で表現している。
表現者を志し、美術大学を卒業したが自分は何も成せていない。
口ばかり達者な自分は東京で何をしたというんだ?何をしたいのだ?
人に何かを伝達したいという思いが欠落しかかってはいないか?
人前に出る覚悟すらできずに言い訳ばかりがうまくなる。
そして段々、いろんなことに鈍感になってゆく。

彼の音楽に、続けることや諦めないことの尊さを見せつけられた気がした。あまりの衝撃に数週間はロクに食事もできなかった。
自分がとうに忘れてしまった、感傷の渦に思いを馳せた。

何千、何万の前で己をさらけ出している。勝負している。
サマーソニックのステージで、それは鮮烈すぎる夏の光景だった。


本日の1曲
夕暮れの紅 / ASIAN KUNG-FU GENERATION


THIS IS MUKAI SHUTOKU

先日amazonから『現代の無戒』のDVDが届いた。
スペースシャワーTVの番組「唯我独音」内の向井コーナーをまとめたものに、ZAZEN BOYSの野音のライブ映像がおまけ収録されている。そのライブ映像を目当てに購入。

ZAZEN BOYSのフロントマン、向井秀徳のホームページには『ナンバーガール解散後、向井秀徳が立ち上げたロックバンド。”法被を着たレッド・ツェッペリン”を標榜し、唯一無二のロックサウンドを目指す。』とある。

何を隠そうナンバーガールファンだった。
郷愁を掻きむしるような世界観もさることながら、映像、CDジャケットのアートワークに至るまで、その登場は鮮烈だった。
当時は浪人生風と称されていた向井氏の風貌。チェックのシャツにジーンズ、ジャックパーセル、メガネ。そしてものすごい剣幕。
酒を飲みながら汗だくでライブをやり、最後は決まって「カンパ〜〜イ」といいながらステージを去る。曲間に繰出される独特な口調のMCは絶妙。
何度もライブに足を運び、その度に格好よさに足がすくんだ。

2002年に惜しくもバンドは解散してしまったが、昨年はomoide in my head projectと題して続々と音源や映像集がリリースされた。ベストアルバムにはB面集も収録、未発表のNGテイク集まで発売されたのには驚いた。
今や、ナンバーガールのフォロワーバンドも続々と現れているから、そういう流れで聴く人もいるかもしれない。

初めて聴いたのは1999年の秋『Destruction Baby』のマキシシングル。
瞬時にして引き込まれてしまった。他の楽曲に比べても都会の若者のレイジーな感じがこの4曲に特に顕著に現れていると思う。
生活が味気なくてもなんとなくそれを受け入れている東京の若者のカンジ。地方出身者であるがゆえのトーキョーの風景。
楽しくも寂しくもないような、そんな空気が漂っている。

その出会いの後、程なくして下北沢シェルターでbloodthirsty butchersとのイベント、HARAKIRI KOCORONOを見る。今思えばいきなりすごいもんを見てしまった。

POP、ROCK、DUB、HIPHOP、民謡に至るまでナンバーガールの変遷は興味深いけれど、どんな音にのっけても、歌っていることは変わらないのがすごいところ。
特にたたみかけるようなリリックで向井氏の言語感覚が冴え渡っている。
「TOKYO FREEZE」には度肝を抜かれた。
彼はいつだってこの世の諸行無常を憂う。

昨年末に幕張で行われたカウントダウンジャパンでZAZEN BOYSを初見。
向井氏のライブを見るのはナンバーガールラストツアー『NUM-無常の旅』のZEPP以来なので3年ぶりか。

「マクハリ!時には女とマグワリ!(ニヤリ)」といきなり韻を踏みつつ登場。
すごい。オーディエンスの熱狂。まだライブは始まっていないのにこのテンション。そして変拍子の嵐。
当初ギターのカシオマンを見て不思議な動きをするギタリストだな(頭を振り子のようにカクカクする)と思っていたけれど、ZAZENのリズムが必然的にそうさせているのだと納得。
bass日向氏のアクションが音楽を体現している。この人のプレイスタイルは本当に格好いい。ドラムの松下氏の眼力も他を寄せつけない。

このバンドの「バンド感」がすごい。初ライブにしてあまりの格好よさに呆気にとられてしまった。
向井秀徳は今日もどこかの街角で酩酊しているのだろうか。


本日の1曲
Destruction Baby / NUMBERGIRL


ストレイテナー @渋谷QUATTRO

今日は2006年のライブ初め。
ストレイテナー at 渋谷QUATTRO。
昨年8月のSUMMER SONIC、年末のCOUNT DOWN JAPANにも出演していたんですが自分はどちらも1日のみの参戦、しかもストレイテナーの出演日ではなかったのでライブ初体験だったわけです。

彼等を知ったのは遅ればせながら昨夏。
『TITLE』というフルアルバム。
正直に言うと買った当初はそこまでピンとこなかったのです。
後日なんとなくCDをかけたら「!」。みるみるのめり込んでしまったという。

ボーカルギターのホリエ氏のファンタジーの世界に目を見張ったのです。
彼独特の言葉とメランコリックなメロディーでそのファンタジーが語られているというか。
優れたストーリーテラー、だと思う。
「ユニコーン」「戦士」「銃」「古い機械」などのモチーフも想像力を掻き立てる。
例えて言うならば村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の「世界の終わり」編のような世界。もの悲しくて色彩の乏しい世界。前提としてある孤独。想像の産物。
ちなみに当初『DJ ROLL』と『TRAVELING GARGOYLE』に感嘆しました。(アルバム『LOST WORLD’S ANTHOLOGY』に収録)
つまり、今一番ライブが見たいバンドでした。

QUATTROも初めていくハコでした。
数々の伝説のライブが行われたライブハウス・・ですね。
思ったよりもこじんまりしていて、カウンターの上に灰皿まで置いてあったのが意外でした。キャパは800ちょっとでしょうか?

そのカウンター背後、会場後方からでしたが充分楽しめました。
BassとDrumの両氏もかなりのパフォーマーだと思いますが、ホリエ氏のキレっぷりも衝撃でした。
・・・魅せるね。
床揺れてました。
ナカヤマ氏は期待通り客席にダイブ!
「コイヨー!コイヨー!!」と言っているようなハンドアクション!
格好よかったなぁ。

ミュージシャンなるもの、そのステージで彼等は100パーセントを尽くしている。
人の本気が見れるならチケットなんて安いもんだと思ってしまう。


本日の1曲
Melodic Storm/ストレイテナー
ちなみに本日発売