6月 27th, 2006 by taso
このツアーで喉を痛め、彼は歌う喜びを実感したようだ。今夜のライブはそう感じさせる何かが確実にあった。
ライブは最新アルバム1曲目の『暗号のワルツ』で幕を開けた。vo.後藤氏の声は明らかに本調子ではない。彼は最近喉頭炎を煩い、バンドは先週の岐阜のライブをキャンセルしている。
オーディエンスから心配の声が上がると『喉は大丈夫だよ。』と優しく返す。
『声が出ても・・・出なくてもどっちでもいいんだよね。』
『もし、何も伝わらないとしても、僕はめいっぱい歌うだけです。』
今夜の彼の発言は、新たに生まれた決意に満ちていた。
『インタビューなんかで偉そうに喋ってさ。後で燃やしたくなるんだよね。』
『”繋がりたい”とか言ってるけどさ、別にそうじゃなくても構わないんだよ。』
『サイレン』では場内の照明が一段暗くなる。ステージにはメンバーの逆光のシルエットが浮かび上がる。目を閉じて音楽に身を委ね、彼の言葉を反復する。
誤解を恐れずに言うと、彼は決して特別な存在ではない。言ってしまった言葉を取り消したい時もあるし、希望を打ち砕かれることもある。皆と同じに悩み、自分のあり方を常に模索している人間の存在を感じる。彼の言葉は常に親密にこちらに語りかける。今夜は特にそう感じた。
奔放に音楽をやっていた頃とは違う。発言はメディアを通じて不特定多数に発信される。己の感情の不確かさと戸惑いを常に感じているはずだ。理想の姿を求める限り、人は苦しまなくてはならないのだろう。
彼はいつになく客席を煽り、一体感を欲しているように見えた。声が出るならば、歌うことで思いを伝えたいと、全身がそう言っている。
ツアーは過酷なスケジュールである。体調不良で延期になった、たった一度の公演があったからこそ、彼は歌う喜びを再認識できたのではないか。
そして初めてライブで聴くことができた『N.G.S』にテンションが上がる。N.G.Sは「ナンバー・ガール・シンドローム」の略で、それは言わずもがな、後藤氏の敬愛するバンド、ナンバーガールへのオマージュ的楽曲である。是非聴きたかった曲だ。なぜなら自分もナンバーガールシンドロームにかかった一人であるからだ。
曲間のアレンジにもバリエーションが増えた。優等生的に楽曲を演奏する印象が強かった彼等の新たな試みを心から歓迎する。
演奏曲数もバンドのテンションもオーディエンスの熱狂も、あらゆる面でフルボリュームだった。そして何より、バンドの静かなる変化を感じる印象深いライブであった。
本日の1曲
サイレン / ASIAN KUNG-FU GENERATION
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04/28 『ASIAN KUNG-FU GENERATION Tour2006 -count 4 my 8 beat- @千葉LOOK』
02/02 『夏の日、残像』
6月 15th, 2006 by taso
洋楽のCDを購入する時は、価格の安い輸入盤を差し置いて専ら国内盤を購入している。レーベルの努力と策略が交錯する国内盤限定のボーナストラックの存在も大きいが、封入されたライナーノーツには差額を支払う価値がある、と勝手に思っている。
そこにはアルバム製作の背景や、バンド結成秘話の他にインタビュー記事が収録されている時もあるから見逃せない。海外の素性の知れない新人バンドについては取り上げるメディアも限られていて、あまり知る機会もない。
残念なことに英語を理解できるわけではないから、歌詞カードも必要だ。輸入盤は歌詞カード自体ついていないものもある。思い入れのあるアーティストの場合、歌詞カードだけを外出先に持ち出し、読書代わりに読んだりする。文学好きの友人氏は歌詞カードを”詩集”と表現していた。成る程、そういう言い方もできる。
対訳された歌詞は本来の意味をぼんやりと伝えてくれる。スラングや海外のTV Showのスターの名前に戸惑うこともあるけれど、曲のイメージと相まって楽曲の世界観が見えてくる。
しかし、いくら英語を完全に理解していないとはいえ、明らかに不自然な対訳を目の当たりにすることもある。
アメリカのバンド、Incubusは”Make yourself”という名曲を生み出した。しかしながら「Make yourself=自分で自分をこさえてみろよ」という対訳にはやや違和感を感じる。前後の文脈を考慮すると「自分を確立する」という意味で「筋を通してみろよ」というニュアンスが感じられるのだ。
そもそも「こさえる」という言葉を、おじいちゃんからしか聞いたことが無い。一般的に用いられる言葉なのだろうか?古語ではないのか。F×CKを連呼する騒々しい曲のイメージからはかけ離れてはいないか。
このフレーズを聴く度に、生前のおじいちゃんの歯の抜けた顔を思い出して、なんだかロックな気分になれないでいる。
本日の1曲
Make Yourself / Incubus
5月 19th, 2006 by taso
国内のロックフェスティバルは年々増加し、規模も拡大しつつある。にも関わらず、人気フェスになると開催日までにチケットはソールドアウトし、主催者側も全ての希望者にチケットを販売出来ずにヤキモキしている。かつてロックに親しんだ若者が親になり、子連れでフェスに参加している光景は珍しくない。フェスバブルの時代到来である。
しかし果たして全員が望まれた客と言えるのだろうか?
悲しいかな、様々なライブ会場でその疑問を感じることがある。
それはあるフェスティバルでの出来事だ。広大な会場には複数のステージが設けられ、いくつかのライブが同時に行われる。各日のトリを務めるのはやはり人気バンドということになる。その日のステージには何万人もの観客が詰めかけた。
ライブ中のMCでフロントマンは複雑な思いを打ち明けた。同時間帯の違うステージで、あるバンドの解散ライブが行われていた。当然ながら彼はそのラストステージを見届けることはできない。彼はそのバンドの大ファンで、かつてオーディエンスとしてその音楽に熱狂した。
時を経て、今や彼自身がフェスティバルのヘッドライナーを務めるアーティストとなった。ロックスターを夢見た青年は、その後何万の観衆に歓迎される存在になったのだ。
彼の淡々とした口調を皆が聞き入る。
大勢のオーディエンスがその思いに胸を熱くしている間、周りの女子はひっきりなしに喋り続けていた。至近距離であるから嫌でも会話の内容が聞こえてくる。彼女達グループはどうやって最前列を確保するかを相談していた。彼女達に彼の思いは伝わっていただろうか?
ライブ中に起きる無意味な野次が場を白けさせることもある。演奏中にも関わらず大声で喋り続け、曲の合間にメンバーの名前を呼ぶのに必死な女の子。開演前は場所取りに必死になるあまり、周りの迷惑を顧みない。バンドが登場すると彼女達は一斉に歓声を上げた。
あるバンドのメンバーは自身のBlogで不満を漏らしていた。加熱する状況で場違いな野次が増える。しかし本来の「音楽」に注目してくれるファンだけを選んで会場に入れるわけにもいかない。黄色い歓声を浴びるのは必ずしも彼等の歓迎するところではない。
フェスが根付き、その「マナー」が取り沙汰されるようになった。音楽を愛する人々が集まる場であるなら、そんな堅苦しい言葉を使わなくともいいはずなのに。
本日の1曲
Dakota / Stereophonics
4月 28th, 2006 by taso
人気のあるバンドを狭いライブハウスで観る機会はあまり訪れない。今夜は初めて千葉のライブハウスに行った。高円寺からは総武線で行けば乗り換えはないが、1時間以上はかかる。しかし、だ。ASIAN KUNG-FU GENERATIONをキャパシティー200のライブハウスで観る機会はこれから先あるだろうか?
千葉LOOKは有名なライブハウスで、全国ツアーの日程でよく見かける。同じくらいの規模のライブハウスの下北沢シェルターと、民家が隣接する周辺の環境がどことなく似ている。
入場し、まずは後方に進む。当日券の入場だった為、開演時間に迫っている。程なくして『暗号のワルツ』から演奏がスタートした。しかし後方の我々にはステージが見えず、メンバーが登場したのにも気が付かない有り様で、サウンドチェックだと思ったら本編だった的なスタートだった。
ステージが低いせいでバンドのメンバーからもオーディエンスが見渡せていないようだった。vo,後藤氏は「近いな」を連発し、オーディエンスの人影でメンバーもほとんど見えない。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONのライブを体験するのは3度目だ。昨年のSUMMER SONICとCOUNT DOWN JAPAN。どちらも会場は1万人を超える。もちろん精力的にライブ活動をしているものの、行きたいと思ってチケットを確保できるバンドではない。
今や国内フェスのトリを勤めるようになったバンドでもルーツを辿ればライブハウスに行き着く。彼らがメジャーデビューしたのは3年前、バンドを結成してから今年で10年になるが、その大半はライブハウスでライブを重ねてきたはずだ。
ライブハウスには熱気とエアコンの冷風、そしてその空間を共有している親密な空気が漂う。低い天井を見上げ、揺れる埃を見るとライブハウスを実感できる。
オーディエンスの揺れる肩や腕の合間から時々メンバーの表情が見える。そしてその瞬間にステージが近いことを実感する。フェスならステージと客席のフェンスとの間に収まってしまうだろう狭い空間だ。
昨年の全国ツアーでバンドは驚く程進化した。美しいメロディーと印象的な歌詞を既にものにしている彼らだが、敢えてそこからフレームアウトしようとしている気がする。即興的、感覚的に音を取り入れ、これまで以上に深みに足を踏み入れている。現在の彼らからは美しいメロディーだけを創造するバンドでは終わらない、挑戦の姿勢を感じることができる。難しい楽曲に挑み過ぎて間口を狭めるバンドもいる。しかしASIAN KUNG-FU GENERATIONは決して「聴く人を選ぶ音楽」を目指しているのではない。むしろその逆で、楽曲を敢えて判りやすい方向に落とし込み、独自の世界を展開するのが本当に上手い。
しかしながら個人的感情を抜きにしてASIAN KUNG-FU GENERATIONは語れない。後藤さんとは故郷が同じで、以前から存在を知っていた人である。
作品に込められた感情はとても正直で偽りがない。そして偽りがないだけに、間接的であっても深く相手を理解することができる。存在は知っていても内面は知らなかった。だから知っているのにまったく知らないような、知らないのにすごく知っているような不思議な感覚に捕われてしまう。
人々が拳を上げ、汗をかき、頬を紅潮させている。自分の知らないうちに彼はそんなふうに人々を熱狂させるアーティストになった。その存在感に圧倒されて、ただ呆然としてしまう。
出来るなら自分もそうなりたい。人の生活の何かに影響を与えるような作品を作りたい。目の前の後藤さんは今、まさにそれをやっている。自分が言い訳をしている間にも彼は日々、不特定多数の人々に向けて作品を投げかけ続ける。
音楽に限らず、表現者であるならば作品を共有し、知らない人間の生活の「何か」になることが出来たらと願うはずだ。そして彼の姿を見る度にその可能性を差し出されたような気分になって決まって胸が熱くなる。
今週から始まった「count 4 my 8 beat」ツアーは3か月以上に及ぶ全国ツアーだ。そしてこのツアーが終わる時、またしてもこのバンドは大きな何かを得るのだろうな、とライブ中にそんなことを考えた。日々自分を表現し続け、その何かを人々と共有しながら。それはとんでもなく眩しい光景だった。
ASIAN KUNG-FU GENERATIONは転がり続ける。ロックの道を、後戻りすることなく。
本日の1曲
Re:Re: / ASIAN KUNG-FU GENERATION
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02/02 『夏の日、残像』
4月 21st, 2006 by taso
チケットを入手してからほぼ3か月。待ち望んだZAZEN BOYSのライブに参戦した。今日は久々に友人氏と一緒のライブだ。原宿駅を下車し代々木公園を横目に、SHIBUYA-AXを目指す。
到着したのは19時過ぎで、整理番号順の入場は既に終了していた。外のロッカーに荷物を突っ込み、ささっと会場に入る。これから始まるライブの高揚感に、早くも饒舌な我々であった。
ライブの開始とともにワッと人々が前方に詰まるのをよいことに結構よいポジションについた。ナンバーガール時代からいつもベース側だ。今夜は騒ぐぞ、と心に決めた計画があった。昨年末のCOUNT DOWN JAPANでZAZEN BOYSのライブを初体験した。あのライブ空間を経験してしまうと次が観たくて仕方ない。今夜は冷静さは無用である。
ここまで声を上げるのも、手を振りかざすのも久々だ。そして向井氏独特のコールアンドレスポンスにオーディエンスも張り切って応えている。途中でオーディエンスの男女をステージに上げ、会場が和む。向井氏はこういう演出をさらっと、しかし確信的にやってのける。
「元気がありませんネ。そう、ワタクシが歳をとるに連れて周りの方々も歳をとっていらっしゃるのは、肌感でわかります。」初ライブから6年経ったのネー、とセンチメンタル過剰。
そして相も変わらず向井氏のライブは・・・格好良し、そして楽し。
織り交ぜられる民謡サウンドや「ええじゃないか」コールは健在で、個人的にかなり盛り上がってしまった。
本日は久々にライブTシャツを購入。汗だくになってしまった着替えが必要になってしまったのだ。ライブにおいてそのような事態に陥るのは久々だ。そして購入を決めていたライブ会場限定のライブアルバムを購入する。
ZAZEN BOYSの即興力を堪能できるライブ盤は一聴の価値がある。それはスタジオでレコーディングされたアルバムよりも、魅力的だからだ。音楽好きの間ではライブ盤はとかく重要視されるが、ZAZEN BOYSはライブ盤こそ必聴である。周りの空気もろとも取り込み、鳴り続ける騒やかな音楽体験がパッケージされている。
SHIBUYA AXは確か5年程前にeastern youthのライブに行って以来だ。
今回は久々にライブを共にする友人氏と会場で待ち合わせをした。彼女とはNUMBERGIRLのラストライブも一緒に参戦している。そう言えば初めてNUMBERGIRLを下北沢SHELTERで見た時も彼女と一緒だった。自分にライブハウスの面白さを教えてくれた友人氏である。
ライブで向井氏は終止「シブーヤ!」を連発していた。野音では「ヒビーヤ!」だし、心斎橋では「オーサカ!」を連呼する。ZAZEN BOYSは各地を練り歩き、夜な夜なMatsuri Sessionをひねりあげる。
本日の1曲
Crazy Days Crazy Feeling (Matsuri Session Live At Yaon) / ZAZEN BOYS
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01/26 『THIS IS MUKAI SHUTOKU』
4月 19th, 2006 by taso
自分の好きな多くのアーティストの好きな音源1枚を選べといわれると、それは初期音源のことが多い。まだ有名性を獲得する前の音源だ。そのうち彼らを取り巻く環境がかわり、我が家にもその音源がやってくるのだけど、遡って聴くインディー盤やデビューシングルにはなんともいえぬ魅力がある。
independentとは「独立・無所属の〜」という意味で、映画や音楽においてよく用いられる。そして好奇心旺盛な人はその言葉に興味を示す。次の時代を担う表現者の宝庫であるからだ。
簡単にいうとインディーは制約が少ない。金は無いが制約も無い。くだらない作品にも巨額の制作費を投じるメジャーシーンとは違って地味に面白いものが生産されている市場である。
音楽にもメジャーとインディーがあるが、なにもメジャーデビュー「できない」バンドだけがインディーに「残っている」わけではない。今や誰もがメジャーデビューしたいと思う時代ではない。彼らは彼らのビジョンに合わせた選択をする。メジャーにはメジャーのインディーにはインディーのやれることがある。
インターネットやデジタル音楽配信の普及によってその音源は以前に比べて手に取りやすいものになったし、数年前から大手レコード店はインディーズコーナーを廃止し同列に商品を陳列するようになった。お目当ての音源を買いに行って初めてそれがインディーであることを知ることも多い。
インディーは「知る人ぞ知る」局地的ムーブメントが起きやすいが、あるミュージシャンは「自分のために働いてくれるスタッフの顔を全員把握していたいからインディーでやり続けている」と言っていた。規模が大きくなればなるほど、周りの環境全てに手をかけることは難しくなる。
そして初期の作品に秀作が多い。まだ声も若くて言いたい放題の主張だ。しかしかつて自分が槍玉に挙げていた人々にもその音楽は届き途端に勢いを失ってしまうバンドもいる。彼らのインディペンデントスピリッツは失われ、その楽曲からは魅力が半減してしまう。以前からのファンは離れるが、新たなメジャー仕様のファンを獲得し音楽は続いていくのだけど。
彼が漏らした日常的ため息は、やがて大勢のリスナーに熱狂をもって迎えられるようになる。大勢に向かって放たれた楽曲は最早、彼一人のため息ではない。
自分を知っている人が短期間で飛躍的に増える。否定、肯定のリアクションが届き、見当違いなライターや観客が増える。
よくも悪くもバンドの音楽は変わる。幸運な人であればより恵まれた環境に変化し、音は実験的に進化し、楽器の重なりが増えていく。そして残念なことにその進化のせいで聴かなくなる音楽もある。自分が彼らに求めていたものは影を潜め、オリジナリティーを失ってしまうバンドもいる。一時期気に入っていたバンドの新譜を調べようとインターネットで調べてみると既に解散していることも多い。
インディー・マインドをキープし続けるということは難しい。環境もオーディエンスも、自分も変わってゆくからだ。
本日の1曲
ウェイ? / Number Girl
4月 12th, 2006 by taso
ここ日本で催される夏の音楽フェスティバルのうち、海外バンドも招集されるFUJI ROCK FESTIVALとSUMMER SONICは、ラインナップの充実度で2強と言える。
前者は新潟県苗場スキー場での開催だがSUMMER SONICは千葉県の幕張で開催されるため都心からのアクセスも容易く、日帰りも可能である。会場の環境の魅力はフジロックには勝てないが、都市型フェスティバルとして日本の夏に根付いたと言える。
昼間のグランドでは好むと好まざるとに関わらず大量の放水を浴びることになる。スコール状態で全身ずぶ濡れになるがこれをやらないと倒れる人が多発してしまう。水分補給をしグランドに突入する!ライブが終わるとスタジアムの外には日焼けと興奮で顔を真っ赤にしたキッズ達がコンクリートに寝転がっている。最早倒れこんでいるという方が近い。
2003年の各日のメインアクトはオフスプリングとガンズアンドローゼスだった。高校時代によく聴いていたオフスプリングは今もキッズ達を熱狂させているようだ。片や全く聴いたことのないガンズアンドローゼスはスタンドに座って焼そばを食べながら観戦。ハードロックを生で聴きながら屋台の焼そばを食べる経験はなかなか出来ないと思われる。
昨年のメインアクト、OASIS登場前のスタジアムは異様な興奮に包まれていた。マリンスタジアムはこれほどの人数を収容したことはあるだろうか?通路にも階段にも人が溢れかえり、『席の無い人はスタジアムに入らないで下さい』とバイト氏も必死の形相だ。2階スタンド席からグラウンドを見下ろすとオーディエンスは天日干しされたシラスみたいに見えた。
機材トラブルで1時間程開演が遅れ、途中で登場したMCが『喧嘩ではありません。』と説明に出る事態だった。(もしかしたらもしや!?)という悪い予感が払拭され皆が胸を撫で下ろした・・・かはわからないが、とにかくギャラガー兄弟の不仲は音楽界的にはかなり有名である。あろうことかライブの最中でもぷいっと帰ってしまうこともあったくらいだから気が抜けない。そして待ちきれず『オーエイシス!!』コールやウェーブが起こる。
メンバーが登場するとスタジアムは地響きのような歓声に湧いた。『Don’t Look Back In Anger』は会場内が大合唱だ。
あるミュージシャンが映画館で映画を観た後、そこにいた人々がそれぞれの家に帰ってゆくところを見て(この時のために音楽をやっているんだ)と実感して堪らない気分になると言っていた。すなわち、現在OASISのライブに熱狂している人々にも個々の生活がある。皆が家のCDデッキの再生ボタンを押しOASISの音楽に耳を傾けているということだ。熱狂的ファンもそうではない人も一緒になってこうして同じ空間を共有してライブを楽しんでいる。そして皆がそれぞれの生活に戻っていく。
OASISは素晴らしかった。そしてそのせいでライブ中にそんなことを考えて胸が熱くなってしまった。こういう世界的バンドをこの状況で観れたことを幸せに思う。
サマーソニックは2日間、幕張と大阪の当時開催で翌日には出演者がごっそり入れ替わるというシステムになっている。東京駅からは会場近くの海浜幕張駅までは快速で30分だ。年々参加者は増え、2005年には計16万6千人を動員した。
国内でも続々と音楽フェスティバルが誕生し、音楽ファンはお目当てのバンドが来日するか、そしてどのフェスに出演するか、日々情報収集を迫られる。出来ることなら全てに参加したい!が、とかく自分の経済状況を顧みては悶絶する日々である。
本日の1曲
Don’t Look Back In Anger / Oasis
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2/28 『FUJI ROCKのOMOIDE』