Archive for the '読書' Category

『荒野へ』





ジョン・クラカワー/著
佐宗 鈴夫/訳
¥700(集英社文庫)


1992年の4月、東海岸の裕福な家庭に育ったひとりの若者が、ヒッチハイクでアラスカまでやってきて、マッキンレー山の北の荒野に単身徒歩で分け入っていった。4か月後、彼の腐乱死体がヘラジカを追っていたハンターの一団に発見された。


全米でベストセラーとなったノンフィクション、『荒野へ』は、こんな書き出しから始まっている。友人と入った書店で、とにかくすごいからと薦められ手にとったにしろ、興味を持たずにいられない何かがあった。

彼はなぜ、不自由のない暮らしを捨て、わざわざアラスカにまで行って無惨な死に方をしなくてはならなかったのか?
クリストファー・J・マッカンドレスに仕事以上の興味を持ったクラカワー氏の緻密な取材行為のおかげで、私達は「アラスカで餓死した青年」の個性を感じられるようになる。

裕福な家庭に育った青年が、裕福であるがゆえに自分の境遇に満足できなかったとしたら。若者は感化されやすく物事に傾倒しやすい。先人の偉大な書物に傾倒するあまり、今日の文明に違和感を感じてしまう若者がいたとしても不思議ではない。

しかし、マッカンドレスの死が全米に知れ渡ると、少なくない人々が不快感を口にしたそうだ。日本でも時々ある、危険な地域に足を踏み入れ命を落とした若者を語るときと同じように。そして当然のごとく、彼らは一部の人々に英雄のように崇められたりもする。

マッカンドレスがアラスカに向かった時、欲求だけに突き動かされ、興奮状態で地に足がつかず、冷静さを欠いていたのかもしれない。若さは時にそういう事態をもたらす。
けれども、強い意思なくして行動を起こすとはできない。彼は、強い意思をもってアラスカに向かい、いくつかのミスのせいで結果的に命を落とすことになってしまったのだ。

彼はカメラとノートを持ち、人生を変える旅の記録を残していた。そのおかげで死の直前をどのように迎えたかのかも、私達は推測することができる。

本著は、死後に論争を巻き起こした青年が、ただの青年だった頃の話だ。そして、ある人物について深く掘り下げ、事実、もしくは事実に近い物語を提示する作家という職業の素晴らしさを感じさせる作品でもあった。

マッカンドレスは、地図に記載されていない地域を放浪したがっていたという。
しかし彼がアラスカを訪れた1992年にはアラスカに地図上の空白地が残されていなかった。そこで彼は地図を捨て、彼の頭に未知の大地を残した。彼にとっては、簡単ではないということがなによりも重要だった。

毎日、テレビをつけているだけでいくつものニュースが読み上げられていく。この本を読んだあとは、それがいっそう早く感じられた。
我々はニュースの主人公達の人生について少しでも考えを巡らせるべきなのだ。


本日の1曲
Sæglópur / Sigur Rós

『コインロッカー・ベイビーズ』





村上龍/著
¥490(講談社文庫)




改札の向こうにあるコインロッカーには「コインロッカーに入れてはいけないもの」という注意書きが掲げられていた。ある日、何気なく目を遣ると、そのリストの中に「死体」があることに気が付いた。

それは他の文言と並列に表記されているのは少し違和感があった。
その日以来、コインロッカーを見るたびに注意書きが気になるようになってしまった。そしてこれまで目にしたほとんどのコインロッカーには、やっぱり「死体」という文字があった。

コインロッカーはブラックボックスなのだ。誰が何を預けたかは、本人以外にはわからない。
コインロッカーは壁や柱と同じなのだ。人々はその中に何が入っているかなんて考えないし、そんなことに興味もない。扉が堅く閉じられたままでも暫く誰にも気付かれないだろう。

キクとハシはそんなコインロッカーで発見された。それぞれの母親によって、生後まもなく置き去りにされた二人の孤児は、乳児院で兄弟のように育てられた。キクは気の弱いハシをいつも守ってやった。

母を捜すため東京にやってきたハシは男娼となり、「薬島」と呼ばれるスラムに住み着いた。後にハシは、才能を見出だされ歌手としてデビューする。コインロッカーで生まれたといういわくつきの出生が瞬く間に彼を有名にした。

一方、ハシを追って東京にやってきたキクは、「東京を真っ白にする」恐ろしい物質を手に入れようとしていた。キクは世界を憎み、復讐のためならどんな危険でも冒してしまう。凶暴な魂で復讐を試みるキクと、次第に自分をコントロールし始めるハシ。

『コインロッカー・ベイビーズ』を初めて読んだのは大学生の時だった。読むそばから、言葉は次々に映像に転換されていった。喩えるなら、頁から剥がれた活字が鮮やかなインクになって、頭の上にどろどろ垂れてくるような感じがした。句読点の少ない夢想的な描写の連続は、幻覚を見ているかのような気分にさせた。

その濃密な文章で、むせ返る空気や生き物の血の匂いが生々しく迫ってくる気がする。キクとハシ以外にも、鰐(ワニ)を飼う少女「アネモネ」や、ハシを発掘した男色の音楽ディレクター「ミスターD」など、独特の人物像が物語の世界観をより強固なものにしていた。

何をしていてもまとわりついて離れない不幸を跳ね返す方法はあるんだろうか。動かなくてはならないとしたら、何をどうすればいいのだろう。物語の中で動き回るキクとハシを見ているうちに、自分が最善と信じるやり方は愛する人を幸せにするだろうかと、自問するようになった。

「じゃ、俺はもう飛ばなきゃ」
キクは立ち上がった。隠しておいたグラスファイバーポールを取り出す。うわあきれい、レーザー光線みたい、銀色の半透明の長い棒を見てアネモネが言った。うまく跳んでね、写真とるから。

上巻でキクが薬島を囲む鉄条網を棒高跳びで跳び越えるシーンがある。この作品を思い出す時はいつも、半円の弧を描いて真夜中の空に舞うキクの姿が目に浮かぶ。

都心の夜の通りを歩いていると、高い鉄の柵の向こうの茂みが見えた。今にも目の前をキクが飛び越えていくんじゃないかという錯覚が襲う。そんな時は、きらきらと弧を描くポールの先端に、細く長い手足で絡みつくキクが見えるような気がしてしまう。


本日の1曲
KICK IT OUT / BOOM BOOM SATELLITES

『ボロボロになった人へ』






リリー・フランキー/著
¥520(幻冬舎文庫)


そういえば前日に一緒に酒を飲んだ彼はリリー・フランキーが好きだと言っていた。その日、目当ての本は見つからなかったけれど、替わりにこれを読んでみようと思った。

このタイトルはあまりにも率直で恥ずかしい。背表紙に手をかけて書店の棚から抜き取れば、周りの人に自分の弱音が聞こえてしまいそうな気がする。

6つの短編に登場する人々は、性別も年齢も立場も異なる、傷ついて諦めて投げやりになった人達だった。どこかに向かえば今とは違う「なにか」が見つかるのかもしれない。小説の中のボロボロになった人はそんな期待を抱いていた。

なりたい自分とか、こうなっているはずだった自分。そして、そんな風に無邪気に理想を語る気にもなれなくなった今の自分。

かつての自分が想像していた「いま」はこんなはずじゃなかったはずだった。なんだか勝手が違うなぁと思いながら毎日を過ごして、見栄えだけが良い社会のシステムに閉口する。順応できない自分をぼやいて、ぼやいている自分のダサさに嫌気がさす。
もし違う環境に身を置いてみたとしたら、人は変わることができるだろうか?

この小説の主人公達もそう思っていた。四方を塞がれた人が取る行動は奇妙だけれど、本人はそれに気付いてもいない。その描写に人間の滑稽さや悲しさが滲んでいる。

その昔、高校生の時に手に入れたのは、全く新しい「ものさし」だった。今考えてみれば、自我の目覚めというやつかもしれない。
それはこれまでに教わったこととは随分違っていたし、同級生とも少しズレているような気がしたけれど、「ものさし」を使えば、必要なものとそうじゃないものは簡単に区別することが出来た。

“一般的に” 美しくないとされているものは美しく、淀んだ感情こそが澄み切った希望を表しているような直感がした。突如やってきた覚醒は、新たな美意識を与えてくれ、自分が抱えていたコンプレックスをも飲み込んでしまった。美しくありたいならば悩まなくてはいけない、そう思った。

しかし「悩み」を「美しい」とくくってはみたものの、いざ自分に悩みが降りかかるとどうも勝手が違っていた。
ひとりで鬱屈と佇む姿を一体誰が見ていてくれるというのだろう?

人前でやっと口にした寂しささえ、他の客の馬鹿笑いで消えてしまう。孤独を口にすれば、それは一層深くなっていった。それは先にやってきてしまった覚醒に自分自身がついていけないという奇妙な感覚だった。なりたい自分は明確にあるのに、それについていけない。

あの頃の覚醒は実にシンプルで、言い逃れのできない説得力があった。けれども、守りの習慣が一度形成されてしまうと、そこからは簡単に逃れることができなくなってしまう。高校生が知らなかったことは、美意識を全うするのは容易ではないということだった。

自尊心、優越感、自分は皆と違うなにかを持っていると信じる気持ち。本来ならば持っていて良いはずの意思に、人は悩まされてしまう。
誰かに求められたい。大丈夫だと言って頭を撫でてほしい。だから口にできない弱さを見透かされたようで、こんなにこの本のタイトルが恥ずかしいのかもしれない。


本日の1曲
Crooked Teeth / Death Cab For Cutie




『間取りの手帖 remix』







佐藤 和歌子/著
¥525(ちくま文庫)


作者の佐藤和歌子氏は、賃貸情報誌でヘンな「間取り図」を見つけてはスクラップしてきたという。彼女が収集した間取り図を掲載したフリーペーパーは評判となり、のちに『間取りの手帖』が出版された。

先日用事のついでに文庫本コーナーへ立ち寄り、それが『間取りの手帳 remix』として文庫化されたのを知る。しばし立ち読みしたあと購入した。

文庫版は各ページに1つずつ間取り図が掲載され、下に短いコメントが添えられているだけのシンプルな構成。間取り図から住人を見立てて綴った6篇のショートコラムも含みのある面白さが感じられて印象に残った。

奇異な形状に違和感を感じる間取りもあれば、一見普通に見えるくせに「実はとっても不自然!」な間取りもある。まじまじと間取りを眺めて初めて下のコメントの意味を理解する、というタイムラグも本書の楽しみ方のひとつなんじゃないか。


留年して大学5年生になるとき、大学近くのアパートを退出することにした。中央線沿線の不動産屋に駆け込む日々が続き、最終的に物件を決めるまで40件以上の不動産屋をまわった。初めて誰にも指示されずに、自分の住みかを探す興奮もあった。

目の前の簡素な設計図は、そこに住む人の生活を想像させてくれる。度重なるコピーとFAXでガサガサに解像度が落ちた間取り図を持ち帰っては、その部屋の暮らしを想像していた。まるで上空から住居を俯瞰するみたいだ。

『間取りの手帖』に触発されて賃貸情報誌から「ヘンな間取り」を探してみることにした。いくら変わった間取りとはいえ、そこに間取り図があるということは、その部屋が確かに存在している証拠でもある。

ストイックな間取りのこの部屋も東京のどこかに実在していて、電話を掛けさえすれば借りられるはずなのだ。


本日の1曲
On Fire / Phoenix

『走ることについて語るときに僕の語ること』






村上 春樹/著
¥ 1,500(文藝春秋)



ある友人氏は電話で『アレ読んだ?』と問い、『村上春樹があんなに自分を語るのは初めてだと思う』と続けた。
電話を切るとすぐに書店へ出掛け、ベッドの上でページをめくる。友人氏の言っていたことは嘘ではなかった。もちろん疑っていたわけではないけれど。

村上春樹が「わりに真剣なランナー」であることは、彼のエッセイを読んだことのある人には周知の事実だろう。
それに村上春樹は文学に興味のなかった自分をずるずると活字の世界に引きずり込んだ信頼できる作家でもある。(これも一部の人の間では周知の事実である)

何故走るのか、走ることが創作活動に何をもたらすのか。彼はこれまでにも走る理由について折りに触れて話してきた。

タイトルで「走ることについて語る」ことを宣言している以上、「走ること」に価値を見出さない人々に興味を持たれない可能性だってある。(もちろんその逆の可能性もある)正直に言うと、全著作を読み切っている自分でさえ ”小説じゃないなら” と後回しにしていたからだ。

しかし、である。村上春樹という作家が「走ることについて語る」ということは、とかく誠実に自分の内面を語ることであった。彼の今の年齢が自分を語ることに導いた気もする。

9つの章で構成された本著は、それぞれ執筆した時期と場所が異なる。ランニングコースの風景やそこを走る人々の描写は小説のように美しい。
ケンブリッジの川沿いをハーヴァード大学の新入生の女の子達が颯爽と駆け抜けていく。

世の中には僕の手に余るものごとが山ほどあり、どうやっても勝てない相手が山ほどいる。しかしたぶん彼女たちはまだ、そういう痛みをあまり知らないのだろう。そして当然のことながら、そんなことを今からあえて知る必要もないのだ。

ー第5章『もしそのころの僕が、長いポニーテールを持っていたとしても』より抜粋

群像新人賞を受賞した当時の生活の様子や、これからの作品の方向性がどのように定まっていったのかを語っているのはもっとも歓迎すべきくだりだった。それはこれまでエッセイや(滅多に受けない)インタビューで断片的にしか読むことのなかったエピソードだからだ。

20代最後の秋に小説を書くことを思い立ち、30才で小説家としてデビューした。経営していたジャズバーの店を畳み、“職業的小説家” として33歳で走り始めた。時期的に今の自分と重なるところもあり、愛読する作家のメモワール(個人史)をリアルタイムに母国語で読める幸せを感じさせもした。

『走ることについて語るときに僕の語ること』は、村上春樹が腰を据えて自分自身を語ることだった。そして村上春樹について語るならば、走ることを語らずにはいられなくなる。


本日の1曲
Delta Sun Bottleneck Stomp / Mercury Rev



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ファンにはたまならい本著『走ることについて語るときに僕の語ること』。
だけどまだ村上春樹の作品を読んだことがないという方へ。
もし興味がおありなら以下の作品をおすすめしたいと思います。

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『風の歌を聴け』-1979年

29歳で書き上げたデビュー作。
若者の喪失感や怠惰を背景に描かれるある夏の日々。
文章の鮮烈さは数ページごとに本を閉じてしまうほど。
英語で執筆した原稿を日本語に訳しながら書いたとい
う逸話も。

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『中国行きのスロウボート』-1980年

以前のエントリーでも紹介したことのある
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」収録の短編集。
好きな村上作品を尋ねられ、咄嗟に「初期の短編」と
応えてしまうのは、この作品のせいではないかと思う。

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『カンガルー日和』-1983年

ムラカミ・エッセンスが凝縮された18のショート・ス
トーリー。「バート・バカラックはお好き?」は人生
の指標ともいえるフレーズを発見した個人的に重要な
作品。
「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」、
「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出
会うことについて」など、タイトルも秀逸。
ちなみに「32歳のデイトリッパー」はこのブログの副題の元ネタ。

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『ノルウェイの森』-1987年

大切なものを失った人間は、何か
を得ることができるのだろうか?
大学生の「僕」を美しくも悲しい
東京の景色が包む。
読了後には東京の景色が違って見
えるはず。

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2006/11/13 『村上春樹 「ニューヨーク炭鉱の悲劇」
2006/06/28 『J.D.サリンジャー 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」
2006/02/20 『村上春樹と君と僕

見沢知廉

これまでの読書遍歴を明らかにするなら、それは見沢知廉抜きでは語れない。

初めて読んだのは大学生の頃で、『囚人狂時代』と『母と息子の囚人狂時代』だった。(新潮文庫刊:現在は絶版 ※2013年6月追記:リンクはAmazonの文庫中古品)
これはかつて、彼が殺人罪で刑務所に収艦されていた12年間の記録である。

全国指名手配ののち、出頭。当時23歳の見沢氏は少年刑務所を経て、凶悪犯や長期刑囚が送られる千葉刑務所に収監された。それゆえに、世間的に名の知れた有名事件の犯人と遭遇することもあり、作品中にもそういった”有名人”は度々登場する。この2冊は、刑務所の中の(時にコミカルな)ルポタージュと、言えなくもない。

しかしそこで、孤独な囚人の閉ざされた生活を知った。冷静で客観的なルポタージュの合間に、普通に生活することへのどうしようもない憧れがふと現れる。特に見沢氏は、刑期の多くを問題囚が放り込まれる「厳正独房」で過ごしていた。

大学生だった当時は、幸福な若者の「絶望!絶望!」という連呼も聞き飽きていた。見沢氏が独白した生々しい絶望感はとてつもなく崇高なものに思えた。

見沢氏はインテリであり、相手を論破する膨大な知識も持っていただろうが、刑務所とはそんな高尚なものが通用するところではない。看守が黒と言えば、白いものでも黒になる。

『母と息子の囚人狂時代』に収められたエピソードの中に、特に印象的だったくだりがある。
刑務所内では、見沢氏のような政治犯は特に厳しく監視されるらしい。組織に連絡されてはなにかと不都合があるため、手紙の閲覧も念入りに行われていたようだ。
そこで見沢氏は、母との手紙に一工夫することを思いつく。手紙に暗号を織り交ぜ、刑務所内で手に入る限られた材料を使ってあぶり出しを用い、宅下げ(用済みの荷物を自宅へ送り返すこと)の書籍の背表紙を剥いで秘密文書を潜ませたりもした。

しかし問題は、その暗号や細工を母に知らせる方法がないことだった。面会室では同席した看守が会話の一字一句をメモしている。全ては母と息子の勘にかかっているのだ。
それでも母は暗号を解読し、あぶり出しにまで成功する。『なんとなくあぶってみたら文字が出てきた。』という母の勘には読者のみならず、見沢氏本人も驚愕したようである。

刑務所では、先の見えない閉塞感から発狂してしまう囚人もいる。夜の闇をつんざく奇声を聞きながら、必死に正気を保とうとする。
劣悪な環境と容赦ない体罰の中、見沢氏は獄中で小説を書き続ける。もはや文学だけが正気を保たせてくれ、それを受け取った母は手が動かなくなるまで原稿を清書し続けた。

発狂寸前の息子と、それを支える母。そうして母と二人で書き上げた小説「天皇ごっこ」は新日本文学賞を受賞する。その数カ月後、見沢氏は出所した。

出所後は、長期刑特有の拘禁症と戦い入退院を繰り返していたようだった。サブカルチャー系雑誌での特集や連載、トークショーへの出演。「2ちゃんねる」に実名で書き込む見沢氏を ”目撃” したこともあった。
ニューヨーク同時多発テロが起こった際は、直後から氏のホームページでは活発な議論が交わされていた。政治的背景を含む問答はほとんど意味が判らなかったけれど、興奮を抑えた文体ながら饒舌な見沢氏が印象的だった。

2005年初秋、インターネットのニュースで彼が投身自殺したことを知った。その時、モニタに向かって「あ」と大きな声をあげた。

とうとう一度も姿を見ることもなく、彼は逝ってしまった。初めて著作を読んだ時から、今の日本で絶望を語ることのできる数少ない小説家のひとりだと思ってきた。ぶっきらぼうな言い方ではあるけれど、自分の中には「死んだら悲しい他人」という存在がある。自分にとって、見沢氏は紛れもなくその一人だった。


本日の1曲
The Crowing / Coheed & Cambria


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▼ 見沢知廉プロフィール(一部『日本を撃て』より抜粋)

1959年、東京都文京区生まれ(本名高橋哲央)。裕福な家庭で、幼少時代から英才教育を受け早稲田中学へ進学。同高等部在学中、演壇で教育批判を行ったのち全教壇の破壊行為を行い、退学。のちに暴走族、新右翼過激派活動家の道へ。同時期に一家は離散する。

79年東京サミットに決起しない右翼に失望。80年より新右翼へ転向。82年米、ソ、英の関係施設への砲火や火炎瓶ゲリラを指揮。同年スパイ粛正事件で逮捕。殺人罪で懲役12年を言い渡される。

刑務所内では反抗の限りを尽くし、94年獄中で書いた小説『天皇ごっこ』が新日本文学賞を受賞。同年秋満期出所。

96年、獄中記『囚人狂時代』がベストセラーに。以降は政治活動を休業し、文筆活動に専念する。97年には『新潮』巻頭の『調律の帝国』が三島由紀夫賞候補になる。
05年自宅マンションより投身自殺。享年46歳。
現在はその著書の多くは絶版になっている。

▼ 見沢知廉公式サイト[Web Chiren]
※現在は閉鎖(2012年9月追記)

気になる本棚



電車の中でブックカバーをせずに本を読んでいる人がいると表紙が気になり、満員電車では開いているページから、それがどんな書籍なのかをつい想像してしまう。
それに、部屋を始めて訪れた人が熱心に本棚に見入る姿はなんとなくこちらを緊張させる。選んだ書籍は個人のあらゆる側面を雄弁に語っているようにも感じられて、自分の本棚を他人にまじまじと見られるのは結構恥ずかしい。

そんな「恥ずかしい本棚」を再現できるサイトが登場した。書籍の背表紙に記載されたバーコードナンバーかISBNコードを入力すると、書籍が「本棚」に追加される。登録を繰り返せば、自分だけのバーチャル本棚が完成する。

本棚.org(本文上写真)やBOOK LOG(右写真)が画期的なのは、登録した本のイメージまで表示できることだ。味気ない単なるリストとは異なり、視覚的にも面白い。

カーソルを合わせれば書籍の詳細を確認でき、一冊ごとにお勧め度や感想を書くスペースも用意されている。マンガ、小説、実用書。一口に本が好きと言っても、本にも色々な種類がある。これらのサービスは蔵書の管理に役立ちそうだし、読了後の感想を記しておくことも出来る。本棚はネット上で公開されるため、お勧めの書籍を他人に紹介するのも簡単である。読書家達には実用的なツールかもしれない。

管理画面では同じ書籍を登録している人の本棚のリンクが表示される。似た嗜好を持った人の本棚は気になるものだ。
例えばamazonやiTunes music storeで買い物をすると、好みに合わせた新たな商品を紹介してくれる。今日のインターネットは商品の紹介だけにとどまらず、自分の好みを反映した商品をシステムがプレゼンテーションしてくれる。誰かの選んだ一冊の本を辿れば、面白い書籍に出会えるかもしれない。

以前よく行っていたとある書店では「〜の本棚」という企画があった。売り場にアーティストや作家達の本棚を再現し、蔵書を知ることが出来た。読んだことのある本を見つければ親近感が湧き、意外な読書歴に驚きもした。

書籍がずらりと並んだ画面を眺めていると、まるで自分の部屋の本棚のような親しみが湧いてくる。他人の本棚は気になるものなのだ。そしてウェブ本棚ならば、気になる他人の本棚が遠慮なく覗ける。


本日の1曲
Glueing All The Fragments / Yuppie Flu

中原中也

その時求めていたものは孤独な芸術だった。
書店の棚で手に取った中原中也全集には年表や写真などの資料がたくさん載っていて、横から覗き見た友人は『資料が多くていいね、その本。』と興奮した面持ちで優しく微笑んだ。本好きの彼女が中原中也の詩を教えてくれた。

学生時代に襲った憂鬱は予兆もなく突然目の前に現れ、長きにわたって精神を蝕んだ。とにかく希望のない毎日で、その時の自分が見ていたものを他人に伝えようとしたところで容易ではない。誰にも理解して貰えないと思っていたこの気持ちを「既に体験した人間」がいる。そう知ったことはなによりの救いだった。




窓ガラスに映る情けない自分の姿を見るたびに、ただの物体になってしまったような感覚が襲った。全てを即物的に感じ、聞こえる音にも一切の抑揚を感じなかった。
もはや自分には何も残されておらず、この世で自分の存在だけが辛気臭かった。

周りはきらびやかに見えた。世の中は自分と接点を関係のない所で進んでいて、誰一人として立ち止まっていないように思えた。
皆は少しずつ現在位置を変えて移ろいながら、幸福を手にしているように見えた。




中原中也の詩作に自分と同じ種類の人間の存在を感じることができた。絶望を抱えて生きた詩人の言葉は実感に満ちていて、希望がないことは何にも増して現実味があった。
詩人の言葉に共感し、自分にとってただ一人の理解者であるようにも思えた。

描かれない希望が人を救うことがある。
それは「得る、学ぶ」というこれまで読書体験とは全く性質の異なるものであった。このように身近に文学を感じたことはなく、中原中也を知ったことは今までのどの体験とも異なっていた。
久し振りに黄ばんだ詩集を開くと、中也の言葉と共にあの時の心情が迫ってきた。


本日の1曲
Since I Told You It’s Over / Stereophonics

村上春樹 『ニューヨーク炭鉱の悲劇』

詩人は21歳で死ぬし、革命家とロックンローラーは24歳で死ぬ。それさえ過ぎちまえば、当分はなんとかうまくやっていけるだろう、というのが我々の大方の予測だった。(〜中略)

我々は髪を切り、毎朝髭を剃った。我々はもう詩人でも革命家でもロックンローラーでもないのだ。酔払って電話ボックスの中で寝たり、地下鉄の車内でさくらんぼを一袋食べたり、朝の四時にドアーズのLPを大音量で聴いたりすることもやめた。

『ニューヨーク炭坑の悲劇』 短編集 ”中国行きのスロウ・ボート”収録

28歳の「僕」は立て続けに知人を亡くしてゆく。その度にいくつかの形式的な手続きと葬式が繰り返された。若い知人たちはある日を境に彼の前から居なくなり、二度と姿を見せなかった。

上京してから大学を卒業するまでの6年間、(偉大なる両親によって)大学と不動産屋に大金が納められ、住む家に困ることもなかった。大学に合格した時、せめて4年間は面倒な事を忘れて夢を見ようと心に決めたのを覚えている。

今では「若者」と呼ばれる年齢を過ぎかかり、多少の収入を得、一応は自立している。自分の性質にうんざりしながらも、もう高すぎる志に戸惑うこともない。
ミケランジェロのように有り余る才能を持って生まれたならばもうとっくに溢れ出ているはずだ。そういえば村上氏自身も28歳の時はまだ小説家ではなかった。

しかし何者でもないという感覚はしばし若者を悩ませる。
友人は、自分の生活がひどく味気なく感じると呟いた。それはお互いが大学生だった頃の話だ。

授業は退屈で、他の学生には適当な相槌を打っているだけだと言った。週の半分は深夜までアルバイトをし、信頼できる何人かにだけ口を開き、一人で食事に出かけ黙って食事をした。部屋で読書をし、酒を飲み、コインランドリーに行き、時々離れた場所に住むガールフレンドと電話をした。

彼は世間的に目立つわけでもないし、大袈裟な理想を掲げたりもしない。欲望に駆られて道を踏み外したりもしないし、トラブルに騒ぎ立てたりもしない。彼は黙って苦痛を受け入れるタイプの男で「僕」に似ていなくもない。

彼の呟いた言葉と共に、この短編がやけに頭にこびりついている。作品を初めて読んだのは大学生の時で、28歳は少し先の未来だった。
今ではその『伝説の不吉なカーブ』を過ぎ、今の所詩人でも革命家でもロックンローラーでもない生活を送っている。


本日の1曲
For All The Cows / Foo Fighters

ゼツボーの先の風景 『鉄コン筋クリート』



宝町の町並みはやはり東京を思わせる。東京は猥雑で下世話な看板ばかりだ。私欲に溢れた街の景色がこの世の全てを語っているかに思われる。管理の行き届かない繁華街を見ていると、美しい町並みなんて最初からなかったみたいに思えてくる。

この世の邪悪をかき集めたような薄汚い町、宝町。ヤクザがはびこり、老人がうめき声をあげ、成金が舌なめずりをしている腐った町。そこに二人の餓鬼がいた。親がいないみなし子のクロと、シロ。

クロとシロは宝町では有名な餓鬼。我が物顔で空を飛び回り、人間を襲っては金品を奪う。攻撃的なクロと、のんびり屋で奔放なシロ。対極に思われる二人はいつも一緒だった。

希望のない生活だ。宝町は血生臭い闘争にまみれ、力のあるものだけが生き残る。

クロは信じるもののためなら手段を選ばない。退廃の進む町の景色に心を痛め、憎悪してみても、もはや二人がこの町から離れることは出来なかった。ここだけが彼等の居場所で、町と同じくして心は荒んでいく。心を癒す方法も二人は知らなかった。

ある時シロが襲われ、クロは暴徒と化してしまう。復讐に全精力を注ぎ、毎晩人間を襲い続ける。その繰り返しは、人間の破滅を想像させる。やがてクロの人格は崩壊してゆく。

クロを見ていると、やさぐれて自暴自棄になっていた頃を思い出す。
悪を抱えながら生きていくことはいけないことなんだろうか?
孤独を知ってしまった人間は、希望を再び手に入れることが出来るのだろうか?
まだ何かを信じられるだろうか?

あの頃、世の中は救いなんてないかに思われた。しかし、まだこうして生きていられるのは、望みを託す価値のある僅かな希望の存在を認識できたからだと思っている。絶望の先にクロのための風景は残されているのだろうか。


本日の1曲
Feeling Yourself Disintegrate / The Flaming Lips





『鉄コン筋クリート』全3巻 小学館 (1994/03)
小学館サイト内 松本大洋特設ページへ

映画化決定!
12/23(祝)全国ロードショー
映画『鉄コン筋クリート』公式ホームページへ