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語る言葉と語らない言葉

人はどこまで分かり合うことが可能なのだろうかと考える。そもそも人間は完全に分かり合うことなんて出来ない。どこまで相手を受け入れることができるのだろうか、ということになる。その目の眩むような難題を前に、不毛な会話を続けなくてはならないこともある。

”言葉”の難しさは事ある毎に語られる。その残酷さと嘘くささに打ちひしがれることもあれば、言葉のポジティブな力に救われることもある。
自分の中に相反する2つの感情があるのなら、同じ言葉でも意味はいくつか生まれるし、上の文章の”ポジティブな力”を”ネガティブな力”と言い換えても、納得できなくもない。
しかし他者に向かって発言する以上、たった一言の言葉にそこまでの意味を委ねることは難しい。皆が皆、自分に都合の良い想像力を持ち合わせているとは限らない。そうやってアーダコーダと考えているとキリがなくなる。
ぐるぐるぐる。

人と会って話す時、電話で喋っている時。相手の肉声を聞いている時、もっとも誤解が生じやすいのではないかと思う。放たれた言葉はそそくさと空間を通り過ぎてしまう。すぐに次の話題に移ってしまうこともあるだろう。
その時、言葉は通り過ぎるだけのものだ。お互いがその誤解に気付かないまま理解したつもりになっているだけかもしれない。表層をかすめた程度の浅はかな理解や、見当違いの理解であるかも知れない。まるで暗号のように言葉は放たれる。

ある人と激しい口論に及んだ時、彼は『言葉にならない。』とボソリと言った。その時は頭に血が上った状態で余計に苛立ちが増した。
後日そのやりとりをある友人に打ち明けた。彼女は少し考えてから『・・・それは言葉にならない気持ちを持っているっていうことだよ。』と言った。
目から鱗が落ちた気分だった。彼女の言葉は彼の気持ちを最も的確に代弁しているように思えたからだ。

人それぞれ、様々な体験をし、日常的な出来事に一喜一憂し生活している。日々の感情を共有できるような会話や、文章を求めている。個人を感じることができるような身近な言葉を求めている。そして背伸びをせずに正直な言葉で自分を語れる人間でありたいと思う。


本日の1曲
暗号のワルツ / ASIAN KUNG-FU GENERATION

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