トップページ > 黄昏コラム > 婚約者は受話器を握り

婚約者は受話器を握り

クレーマーはあらゆる手を使って、企業に挑む。屁理屈を言い、揚げ足を取る。訴えるから名前を教えろと脅し、要求が受け入れられないとヒステリックにまくし立て、陰湿な話し方で諦めが悪い。

以前とあるコールセンターで仕事をしていた。それは料金滞納でサービスがストップしたあるマンションの一室。夜遅く、料金の支払いを終えた女性がセンターに電話を掛けてきた。サービスの再開は営業時間内に限られている。支払いが終わったとはいえ、夜間はサービスを再開できない。

電話口で彼女はすすり上げていた。『このままだと、婚約を破棄されてしまうんです。』と、涙ながらに訴える。どうやら電話を掛けてきたのは初めてではないらしい。オペレーターが変われば対応が変わることもある。彼女はそれに賭けていたのかもしれない。自分にもサービスの再開を懇願した。

彼女は名義人の婚約者で、この一件で彼と大喧嘩をしたらしかった。彼らが同居状態にあるのかはわからないが、婚約者は決して請求書を見落とすようなことがあってはならない、「女なら金の管理はしっかりやれ」ということなのだろう。

男は自分のだらしなさを棚に上げて、彼女に責任を押し付ける。癇癪を起こし、暴力すらふるったかもしれない。婚約破棄をちらつかせて、彼女を追い込んだのだろうか。
何度断られても、婚約者はセンターに電話を掛け続けた。同情を乞うような嘘の芝居には慣れているつもりだったが、この時は何故か演技ではないという直感が働いた。

恋愛は時に人を豹変させる。普段は文句のひとつも言わず真面目に働いている人だって、裏では何をしているかわからない。彼女を救急車で運ばれるまでに殴り倒した顔見知りの男の子は、普段は穏やかでいつもニコニコ笑っていた。
悲惨な男だ。そんな男と結婚しても幸せにはなれないと皆が言うに違いない。彼女が今回のように窮地に追い込まれたことは初めてではないはずだ。些細なきっかけで、男は婚約者を罵り続け、彼女は嗚咽し続けてきたんだろう。

いくら泣きついたところで企業の方針は簡単には変わらない。もうどうにもならないことを悟ると、婚約者は渋々諦めたようだった。『わかりました。』と静かに言う。そして切り際に『私は今からこの家を出て行きます。』と付け加えた。
それは演技に過ぎなかったのだろうか。それとも彼女は本当に婚約破棄を受け入れたのだろうか。


本日の1曲
彼氏彼女の関係 / Base Ball Bear

続けて読みたいエントリーたち

0 Responses to “婚約者は受話器を握り”


  1. No Comments

Leave a Reply