不確かな自分の、確かな上京物語。

見慣れたモスバーガーの看板がある。知らない街で知っているものを見つけては安心した。雑多な風景に人々が溢れている。それは今までの自分とは接点を持つことの無かった日常の風景だった。
その日、田舎の高校生は東京にやってきた。来春の合格を目指して早くも春期講習を受講することになっていたのだ。ちょうど10年前の3月、自分は浪人生として東京にやってきた。

現役受験では希望していた二つの美術大学に不合格だった。高校2年の時、親に相談もせずに静岡市内の美術研究所に通い出した。受験が近づくにつれ通う回数も増え、直前にはほぼ毎日その研究所で絵を描いた。
それまで家族は事あるごとに県内の大学に行き、卒業後は家業を継いで欲しいと匂わせていた。ところがいきなり美術大学を受験したいと言い出した。その時点で家族の計画は何度目かの狂いをみせた。しかしいざやり出してしまえば反対することはない。いつもそうして家族は自分の我が儘を許してくれた。

同時期に入塾した友人は明らかに上達していき、ほとんどのクラスメイトは自分よりもうまいデッサンを描いた。講評の時に並べられた自分の絵には迫力がなかった。それは頭ではわかっていても思い切りが付かなかったせいだ。普段の自分の度胸の無さがデッサンにも現れている気がして、ずっと自分の絵を好きになれなかった。

だから大学に落ちても大して驚かなかった。自分に届いた不合格の知らせはさておき、その研究所で浪人していた先輩達が合格したことが嬉しかった。彼等はいつも朗らかなムードメーカーで面白くて優しかった。そして誰よりも真剣に絵を描き、下手くそな後輩の講評にも真剣に耳を傾けた。
浪人するということは日々プレッシャーと戦うことなのだと彼等を見て思った。だから合格の知らせを受けて一気に弛緩したその表情を忘れることが出来ない。

実は受験した大学のうち1校に合格していた。一応デザインという言葉が付いた学科だったが、試験は筆記のみでそれは美大とは言えない。その頃はどうしても武蔵野美術大学か、多摩美術大学に入学したいという思いが強かった。
家族は滑り止めとしてその大学の受験を勧めた。最初から入学する気がないなら受験しなければよかったのに、と今では思う。しかしその不確かな受験というイベントは高校生を不安に陥れるのに充分だった。受験できるならば受けておいて損はないと思ったのだろう。

自分で生み出してしまったその状況だったが、進路の決定を喜ぶ家族に入学の意志がないことをなかなか伝えることが出来なかった。ある日、父親はおもむろに研究所に現れ、先生達に挨拶をしてまわった。それを見て一層気が重くなった。若い講師氏は自分の浮かない表情を気にしていた。

入学金の納付期限が明日に迫った日も、研究所でデッサンを描いていた。未だに親と話し合いがされていないことを知った若い講師氏に「なんで話さないんだよ!すぐ帰って親父さんと話してこい!」と研究所を追い出された。

暗澹たる気分で電車を乗り継ぎ、自宅に帰った。応接室で父親と向かい合って座り、合格していた大学に進学する気がないことを告げた。「親に恥をかかせるな!」と父親は泣いた。父親は自分の気持ちに気付いていたのだと思う。
父親の顔をまともに見ることが出来なかった。「ごめんなさい」と声にならない声で呟いて逃げるようにその場を後にし、部屋に籠もった。

それはとても短い時間だったが、こうして父親と話したのは初めてだった。甘やかされ、自分の決めたことに反論されることもなかった。
そして自分の考えを正直に親にぶつけることが無かった。子供に甘い、優しさを絵に描いたような父親だったが、お互いどこか遠慮していた。そうして正面から向き合うことをなんとなく避けてきたのだと思う。

そして子供の浪人に腹を括った家族が東京に上京することを勧めてきた。驚いた。
美大受験にはデッサンや色彩構成などが出題される。採点の不確かなその「問題」を紐解くためにはより多くのパターンを見て勉強する必要がある。人の数だけアイデアはある。「どうせやるなら東京に行きなさい」と父親は言った。

大学に合格する気がしていなかったのにも関わらず、不合格だったときのことは何も考えていなかった。憧れていた東京生活はやや強引に、絶好のタイミングで目の前に用意された。乗っかるしかないと思った。

翌日研究所を訪れ、講師氏に東京で浪人することを告げた。彼は残念そうに肩を落とした。彼は既に、自分の浪人生活を支える覚悟をしていてくれたのだということに気付いた。自分ですら昨日までは東京で浪人するとは思っていなかった。彼の表情を見て大事な人を裏切ってしまったような、申し訳ない気分でいっぱいになった。
研究所の講師陣は魅力な人達だった。面白おかしく初心者の自分に絵を描くことを教えてくれた。美大に入学する為に決まりきったデッサンを描く疑問をぶつけると一緒に悩んでしまうような人達だった。真面目と不真面目を行ったり来たりしながら色んな表情を見せる彼等のような大人が素敵に見えた。今でも本当に感謝している。

めまぐるしく上京が決まったせいで、ゆっくりと物件を決める時間はなかった。祖母は分厚い予備校のパンフレットに紹介されていた近隣のマンションの写真を指さし「ここでいいら?」と確認するとすぐ予備校に電話を掛けた。ダイニングテーブルでぼーっとしている間に驚くべき早さで新居が決まった。

引越当日は静岡から父親が運転する車で東京に向かった。父、母、祖母と助手席に座った自分。
荷物を運ぶ業者のトラックが新居に到着し、狭いワンルームに洗濯機、机、布団、コンポを運び込んだ。その後予備校に挨拶をしに行った。家族は丁寧に講師陣に頭を下げた。

その日祖母は近所のうらぶれた電器屋で14型のテレビを買ってくれた。窓際のコンポの上にテレビを乗せた。それは実家にあるどのテレビよりも小さく、新品なのに頼りなかった。そうして一通りの段取りが終わると家族はあっさりと静岡に帰っていった。

見送ったあとに部屋へ戻った。簡素な箱形の部屋に取り残された小さなテレビを上から見下ろす自分。これからの生活を案じる暇も無くどたばたと上京し、心の準備がないままにひとりになった。来年の合格が保証されていない浪人生という不確かな身分で遂に東京生活は始まった。


本日の1曲
東京 / くるり


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1/25 『5.5畳ワンルーム


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