ライカと古着と別れた彼女

とにかくその会社は汚かった。細長い雑居ビルのフロアに灰色のスチールの机がひしめき合い、その上にはもれなく書類やらOA機器やらが積み上がっていた。考えてみればその会社にいる間、フロアの奥まで “到達” したことは一度もなかった。事務所の奥にいる社長の顔もずいぶん後になってから知った気がする。
大学生の時、そんな視界の悪い会社で2ヶ月間アルバイトをしていた。

社長は時代遅れの大きなシルエットのスーツを着た人物だった。40代半ばくらいの腹の出た大男だ。一度、お札を渡され人数分の夜食の買い出しに行ったことがある。顔さえろくに覚えていないのに、お札を渡す行為が「社長」という存在を妙に印象付けた。それまで他人に札を渡されたこともなかった。

その会社の主な業務は、都内全ての「橋」のデータを収集して都の機関に納品することだった。河川に架かる大きな鉄橋もあれば、またいで渡れそうなどぶ川に架かった橋まで全て。与えられた仕事は、サービス判サイズの写真を図面に貼る作業だった。

まず「測量班」が現場で橋の実寸を計測し、その数値を元に「製図班」がパソコンで図面を作成する。出力された大判の図面は「写真班」の机の上にどっさりと積み上がり、我々は様々なアングルで撮影された橋の写真を該当箇所に一枚ずつ貼付けていく。出来上がった図面は特製の分厚いバインダーに閉じられる。完成。

「写真班」は4つの机を付き合わせて座っていた。段ボールの囲いを机の端に置き、写真の裏面にスプレー糊を吹き付ける。一日に何百回もそれを繰り返すために、囲いの中に綿菓子のような糊の塊が出来ていく。霧状の糊は自分にも跳ね返り、買ったばかりのカーディガンもすぐにべとべとになってしまった。

その会社には10人くらいの社員と、同じくらいの数のアルバイトがいた。
後ろの席には、作業着を着た男性が座っていた。白髪混じりの初老の男性は明らかに最年長だったけれど、なぜか自分と同じアルバイトだった。社員達は初老の古株アルバイターをとても慕っていて、わからないことをよく相談しにきていた。
彼は「撮ることより分解するほうが好き」という典型的なライカコレクターで、売れないジャズミュージシャンだった。窓際の特等席の、一段と高く積み上がった書類の間から時々陽気なハミングが聞こえてきた。

向かいの席で作業している若者は、古着屋の開店を目指して複数のアルバイトを掛け持ちしていた。彼は「古着屋の時給がいかに安いか」や「原宿で古着屋を経営するリスク」について切々と説いた。

ある日、断られるのを承知で席で煙草を吸っていいかと社員に尋ねると「ウチは紙が多いから火の元には気をつけてネー。」と呑気な調子でやってきて、銀色の灰皿をカチャリと置いた。なんだか頼りない社員に囲まれ、毎日朝から晩まで糊と格闘しているのだ。それくらいは許されていいような気もした。でもオフィスの自席で喫煙するなど、今ではちょっと考えられない。

当初の契約は延長され、アルバイトは2ヶ月目に突入した。年度末が近付くにつれ、図面と写真がうんざりするほど積み上がっていった。しかし社員達は定時を過ぎると皆あっさり帰っていった。全ての書類の納品が翌朝に迫った日でさえも。

そのさまに呆気に取られながらも、それならばと会社に泊まり込んで作業を続けた。やっとのことで作業を終えると、汚い床に段ボールを敷いて寝た。
『寝かしといてやんなよ、疲れてるんだから。』という声に目を覚ますと、すでに何人かの人が出社していた。狭い通路に寝ている全身糊だらけの大学生のことをもうみんな気にしていないみたいだった。

都会のど真ん中にあるオフィスはすべて綺麗で、働いている人全員が立派なビジネスマンであるというのは、単なる浅はかな幻想だった。
社員達は昼飯時に中華料理屋の円卓を囲み、未練たらしくにやつきながら別れた彼女の話をしていた。社会人は学生と違って大変だと聞いていたけれど、こんなに気楽な人達もいるのだと知って騙されたような気分だった。

でも会社の愚痴を言っている人はいなかったし、職場仲間のつまらない噂話も聞いたことがなかった。みんなはそれぞれ「ライカの内部構造」や「古着屋の経営状態」や「別れた彼女」に興味があるみたいだった。
新宿のあの雑居ビルには、まだあの会社があるんだろうか?


本日の1曲
Again / Lenny Kravitz


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20 Responses to “ライカと古着と別れた彼女”


  1. 1moe

    tasoさんは人生の巨匠のようなコメントを返してくださるので、とても頼もしいです(笑)

    そうですよね。やっぱり、美大出じゃないとそういう職に就こうとしたら何かと不利だし、基本的な美術的能力が足らないんでしょうね。。


    先日、ペンタブを買ったのですが、使い方が難しく大変困っています(笑)慣れない物を使うというのは大変ですね。。つくづく思い知らされました(笑)

    紙に描いてスキャナーで取り込んでっていう作業が大変そうだし、綺麗に出ないんだろうなぁと思ったので、ペンタブを買ってHPとかに載せようかなとか思ってたんですが、使い方すらよく分からないっていぅ大惨事です…(´Д`;)

    結局紙の方が良いっていぅ…(笑)

  2. 2taso

    >moeさん
    そういえばこのブログのタイトルロゴと、サイドのイラストはタブレットを使って描きました。タブレットは準備も簡単だし思い付いた時にさっと描けますが、じっくり描きたい時は紙の方が描きやすいかもしれませんね。

    一言でいうと美大というのは、自分の表現形態を模索したり制作活動を行うことが「やりやすい」ところです。
    ずっと絵を描いていても文句も言われないし、理解者を得ることも難しくはありません。これは美大に通う一番の利点だと思います。

    でも美大以外の場所でそれらが「できない」ということではありません。でも、それができるかできないかは、実のところ個人の性質によるところが大きいと思います。

    「基本的な美術的能力」については、興味のある分野に好奇心を持ち続けることができる人なら、そんなに心配は要らないんじゃないかと思いますよ。

  3. 3u

    こんばんは!
    これ、そのまんま映画になりそうなお話ですね(笑)。すごく濃い人達が集まっていて、興味深いです。売れないミュージシャンと古着屋青年の配役がポイントだなあ……

    今、妄想に耽っております。かなり楽しいデス♪

    あ、taso役は誰がご希望ですか?(笑)

  4. 4taso

    >uさん
    楽しんでいただけたようでよかったです!
    キャスティングまで考えていただいて恐縮です(笑)

    そうなんです。400以上記事を書いておきながら、なぜ今までこのバイトのことを書かなかったのか自分でも不思議なんですよねぇ。
    どんどん筆が進んで(キーボードですが)、これでもかなり文章を削ったんです。

    taso役は、常に何かを口ごもってるようなちょっとサエナイ青年に演じてほしいですね・・・!

  5. 5moe

    なんか、自信持てました!!

    そうですよね!絵が好きならどこに居たって何してたって描けますもんね!!!!

    実はこの前受けた大学受かりました。自分の好きな勉強も気に食わない勉強もある大学ですが自分の好きな事を忘れないようにしたいと思います。

    ペンタブで描けるなんて、すごいですね~まだまだ私は慣れるのに時間がかかりそうです…が、何とか頑張りますね(笑)

  6. 6taso

    >moeさん
    大学合格おめでとうございます!
    振り返れば、高校を卒業してからの日々は刺激に満ちていて、あらゆる価値観が一変した時期でもありました。選択肢はこれまでと比べものにならないくらい用意されているはずです。

    これからやってくる時間を、いい仲間と過ごせるといいですね。

    ところで「合格」って字面を久しぶりに見た気がします。今では何かに合格することも少なくなりました。(車の免許くらいです)

  7. 7u

    う~ん、う~ん(妄想&苦悩中)。

    売れないミュージシャン→松尾スズキ
    古着屋青年→佐藤隆太

    taso役は……難しい(汗)。
    うう~ん……松山ケンイチ…ちょっと違うかなぁ?
    いや、彼は演技が達者だから見事に演じ切ってくれるはず!(笑)

    あのう……このお話、もっと読みたいです。
    ぜひっ!!!

  8. 8taso

    >uさん
    お、リクエストありがとうございます(笑)
    確かにまだ登場していない人達がいますねぇ、なんて。

    佐藤隆太はしっくりきますね。オレンジのダウンベストが似合いそうです。(実際の古着屋青年が着ていました)
    松尾スズキも作業着を着こなしてくれそうで期待できます。松山ケンイチは、…ちょっとかっこよすぎかもしれませんけど(笑)

    推測するに、taso青年は古いアパートに住んでいて、変な柄のカーテンをかけているんじゃないかと思われます。コンビニでの立ち読みが彼の日課です。

  9. 9u

    変な柄のカーテン!(笑)
    なんだか、インスピレーション湧いてきました。
    ああ、社長役がまだちょっと……
    次がアップされるまでには決定しておきます(笑)。

    実は、佐藤隆太、とっても自信があったんです♪

    今週の金曜日、AXに行きます。ピロウズのワンマンは初めてなので、ワクワク&ドキドキです!

  10. 10taso

    >uさん
    社長はバブルの遺産みたいな変なスーツを着て、鼻の下に口ひげをはやしていました。でもそんな見かけにそぐわず無口で控え目な人でした。・・・演じるには難易度高そうです(笑)

    渋谷の外れ、という感じがしてAXは好きなライブハウスです。そういえば初めてThe Pillowsのワンマンに行ったのはAXでした。(uさん邸からなら自転車で行けるのでは!?)
    こちらは来週金曜にZepp Tokyoに行ってきます!

  11. 11u

    AX、行って来ました!
    はい、余裕で自転車で行けるのですが、持ってないので(笑)、電車で行きました。AX、いいですね~♪
    ライブは最高でした!何もかも!本当に楽しかったです。ますます好きになりました!
    あ、あのう…私、ZEPPにも行きます。初心者なのにスイマセン!(笑)でも、多分遅刻します(悲)。ZEPPは遠いです……レポ、楽しみにしています。

  12. 12taso

    >uさん
    さっそくご報告いただきありがとうございます!
    そして、ライブ内容をさりげなく伏せるお気遣いに感謝いたします(笑)
    こちらは金曜のZEPP、仕事の都合がつきそうなので開場時間に間に合いそうです。毎度のことながら楽しみにしています。

    ちなみに「新宿からりんかい線に乗るとお台場が近い」ということに最近気付きました・・・!ゆりかもめは非常に好きなんですけど、ちょっと遠回りだったようです。

  13. 13u

    本当だ!!!
    この路線だと間に合うかも知れません!ゆりかもめ利用だと乗り換えが3回もあるのですが、これだと新宿で1回のみ。ありがとうございます!うわぁ~、ますます楽しみになって来ました~♪

    あ、ワタクシ「ネタバレ厳禁」が座右の銘です!(爆)

  14. 14taso

    >uさん
    新宿駅の東端のホームは、乗るべき電車を見極めるのに苦労しませんか?同じホームに色んな路線の電車が乗り入れていますよね、あそこ。

    あれは、埼京線と京浜東北線と湘南新宿ラインとりんかい線でしょうか?(よくわかりません)それぞれ快速や各停があるし、同じ路線で行き先違いとかもありますよね?(あれ?)

    とにかくあのホームに立つとカオスティックな気持ちになるのですが・・・。お互い間違わずに、開演に間に合うとよいです!

  15. 15u

    あっ!
    当日、あわてて階段を駆け降り、乗り込む寸前にドアが閉まりました。それに乗れていたら、どうも違う場所に連れて行かれてたようです(汗)。
    あのホームはまさにカオス!早く熟練者になりたいです!

  16. 16taso

    >uさん
    りんかい線はSTUDIO COASTに行くのにも便利なはずです。
    お台場のZEPP、新木場のSTUDIO COAST、それにライブハウスのメッカである渋谷も通過します。
    主要ライブハウスを見事にカバーしている素晴らしい路線なので、密かに「ライブハウス線」と呼ぶことにしました。多分誰にも浸透しないと思います。

    『ライブに行くならりんかい線』は、トーキョーのニュー・スタンダードです。

  17. 17コンバット越前

    イーゴンのところからきました。
    グッときました。グッと。

  18. 18taso

    >コンバット越前さん
    あっ。コンバットさんだ。
    イーゴン自治区では何度かお見かけしております。

    この会社ね、信じられないけれどまだあったんですよ。新宿に。
    去年の夏、夜遅くに散歩している時にちょうど通りかかったんです。
    こんな雰囲気でまだみんな働いてるんでしょうね。きっと。

  19. 19コンバット越前

    今日、会社に行く前に新宿行ってきたんです。
    カメラのパーツ探しに。
    やっぱあの街でそんな会社があるような感じはしませんでした。

    私の中での新宿は、西口ならばゲーセン、シャブ、ヤクザというアウトロー文化の集合体、中央口ならばスーツ、都庁、刑事貴族、というかなり穿ったイメージなのですが、やはり今日もそんな感じでした。

    俺も多分ですが、そんな会社でバイトが出来たらもうちょっと違った角度で新宿を見る事が出来る人間になったのかもしれねーな、と大して旨くもないヨドバシ近くのラーメン屋でつけ麺すすりながら思ったりしました。

    ってオチもなんもねえ扱いにくいコメントで非常に申し訳ござーせん!

  20. 20taso

    >コンバット越前さん
    新宿は方面によって雰囲気が違いますよね。
    でも、ぺらぺらした縦物のプレハブみたいな感じとか(歌舞伎町方面や東口の雑居ビル)、
    掃除しているんだろうけど、なんだか汚い歩道の感じとか(南口の甲州街道沿い)、
    そこかしこに新宿的なスピリットは漂っています。

    こんな雑多な雰囲気を嫌う人もいるかもしれませんが、
    渋谷なんかよりずっと好きです。(個人の感想です)
    西新宿の高層ビル群なんて、未だにドキドキしちゃいますね。
    そこにあったという理由だけで前職を選んだくらいです。

    その街で働くということは、今まで知らなかったコンビニで弁当を買い、
    まあまあ許せる喫茶店を見つけることです。
    この会社は、それでいーじゃないの という雰囲気で成り立っていた気がします。

    日曜もお仕事おつかれさまでした。
    まあまあなつけ麺を食べながら思い出していただけてとても光栄です。

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