戦争を歌うということ

ある音楽雑誌編集者が「この時代にロックをやるのは難しい」と言っていた。「全面戦争の時代なら戦争反対を叫べはいいし、平和な時代なら退屈だ!と歌える」と。
全世界的に平和主義者(支持者)が増え、アンチ戦争の気運は高まっているのにも関わらず一向に戦争は無くならない。善悪がほぼ等しい比率で混じり合うカオスの時代。

この所、何組かの身近なバンドが戦争をテーマにした楽曲を発表した。それは判りやすい反戦歌ではないが、彼等は無意味な戦いの虚しさを歌う。いちリスナーとして、今までにないテーマの楽曲に驚いた。初期衝動は去った。今こそ伝えたいことがある。そう言っているようにも思えた。

けれども音楽や芸術で反戦を叫んだところで、簡単に世界は変わってくれない。戦争が繰り返されるたびに表現者達は平和を呼びかける作品を送り出してきたではないか。芸術の無力さについて考えざるを得ない。

戦火が絶えないどこかの国でインスタレーション(芸術的空間演出)を企てたアーティストが、その国の現状を知る人に作品の展示を止められたというエピソードがある。彼が用意したのは光を発する装置を使った幻想的な作品であったが、その国ではその装置すら盗難の対象になる。
貧困に喘ぐ人々の前に、現代美術は無力だった。彼のコンセプチュアルな作品よりも、その国の人々に求められているのは金であり、今日の食料であった。

そんなことを考えていたら恐ろしい夢を見た。ある外国兵が戦車でお寺の敷地に乗り入れ、自分は敵ではないことを必死に訴え、戦車の中で夜を明かすことを承諾してもらう。そしてお寺の関係者は彼を友好的に迎えた。

しかし夜明けが訪れて、彼は戦車ごと自爆し辺りは火の海と化した。上空に高く舞い上がった彼の体を間近で見たところで目が覚めた。

悪夢だった。起きてから暫くは気分が滅入って何もできなかった。平和な朝にもたらされたリアル過ぎる夢。争いが続く限り、こういうことは世界のどこかで確実に起こっている。
夢の中のその兵士は、自爆する前、境内の大きな木の樹皮に額を押しつけ、両手で巨大な幹を抱きしめていた。それは繰り返される裏切りで疲弊した人々の悪夢のような現実だった。暖かなベッドで見た絶望的な夢は、ある人々にとっては夢ではない。

反戦を歌うことに意味はあるか?
ひとりの人間が個人的意見を世にアピールすることは本当に意味があるのか?
手榴弾を投げる手を止め、命令のスイッチを押す手を止めることが出来るか?

明確な答えが出せない自分の鈍感さが本当に嫌になる。しかしながら、その意思表示に意味があると思わなければ、一切の芸術活動は無意味になってしまう気がしている。


本日の1曲
American Idiot / Green Day


続けて読みたいエントリーたち

0 Responses to “戦争を歌うということ”


  1. No Comments

Leave a Reply