『ボロボロになった人へ』






リリー・フランキー/著
¥520(幻冬舎文庫)


そういえば前日に一緒に酒を飲んだ彼はリリー・フランキーが好きだと言っていた。その日、目当ての本は見つからなかったけれど、替わりにこれを読んでみようと思った。

このタイトルはあまりにも率直で恥ずかしい。背表紙に手をかけて書店の棚から抜き取れば、周りの人に自分の弱音が聞こえてしまいそうな気がする。

6つの短編に登場する人々は、性別も年齢も立場も異なる、傷ついて諦めて投げやりになった人達だった。どこかに向かえば今とは違う「なにか」が見つかるのかもしれない。小説の中のボロボロになった人はそんな期待を抱いていた。

なりたい自分とか、こうなっているはずだった自分。そして、そんな風に無邪気に理想を語る気にもなれなくなった今の自分。

かつての自分が想像していた「いま」はこんなはずじゃなかったはずだった。なんだか勝手が違うなぁと思いながら毎日を過ごして、見栄えだけが良い社会のシステムに閉口する。順応できない自分をぼやいて、ぼやいている自分のダサさに嫌気がさす。
もし違う環境に身を置いてみたとしたら、人は変わることができるだろうか?

この小説の主人公達もそう思っていた。四方を塞がれた人が取る行動は奇妙だけれど、本人はそれに気付いてもいない。その描写に人間の滑稽さや悲しさが滲んでいる。

その昔、高校生の時に手に入れたのは、全く新しい「ものさし」だった。今考えてみれば、自我の目覚めというやつかもしれない。
それはこれまでに教わったこととは随分違っていたし、同級生とも少しズレているような気がしたけれど、「ものさし」を使えば、必要なものとそうじゃないものは簡単に区別することが出来た。

“一般的に” 美しくないとされているものは美しく、淀んだ感情こそが澄み切った希望を表しているような直感がした。突如やってきた覚醒は、新たな美意識を与えてくれ、自分が抱えていたコンプレックスをも飲み込んでしまった。美しくありたいならば悩まなくてはいけない、そう思った。

しかし「悩み」を「美しい」とくくってはみたものの、いざ自分に悩みが降りかかるとどうも勝手が違っていた。
ひとりで鬱屈と佇む姿を一体誰が見ていてくれるというのだろう?

人前でやっと口にした寂しささえ、他の客の馬鹿笑いで消えてしまう。孤独を口にすれば、それは一層深くなっていった。それは先にやってきてしまった覚醒に自分自身がついていけないという奇妙な感覚だった。なりたい自分は明確にあるのに、それについていけない。

あの頃の覚醒は実にシンプルで、言い逃れのできない説得力があった。けれども、守りの習慣が一度形成されてしまうと、そこからは簡単に逃れることができなくなってしまう。高校生が知らなかったことは、美意識を全うするのは容易ではないということだった。

自尊心、優越感、自分は皆と違うなにかを持っていると信じる気持ち。本来ならば持っていて良いはずの意思に、人は悩まされてしまう。
誰かに求められたい。大丈夫だと言って頭を撫でてほしい。だから口にできない弱さを見透かされたようで、こんなにこの本のタイトルが恥ずかしいのかもしれない。


本日の1曲
Crooked Teeth / Death Cab For Cutie





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