像と光の論争

『アレは光じゃないんだヨー、”光”なんだよォー!写真はさァ!』
彼の熱弁を聞きながら写真好きのうんちくに呆れていた・・・わけではない。それどころか、こちらもまた全身の毛穴が開ききるほど興奮していたのである。
『だよね!”像”なんだよォー!写真はさァ!』
議題はデジタル写真の是非だった。『デジカメってなんか買う気になれないんだよねぇ・・・』と溜息混じりに発した言葉が、互いのソウルに火をつけた。

先日臨時収入があった。この機会にデジカメを購入するのもいいかもしれないと思った。インターネットでスペックを調べ、家電量販店に通い、自室には最新モデルのパンフレットが増えていった。
『デジカメ・・・デジカメ。』と金の使い道を考えながら独り言を呟いていると、隣に居た友人氏は『でもどーせデジカメはドットなんでしょ?』と半ば呆れた口調で言った。以前彼女の前で『デジカメは所詮ドットの集積だ』とこき下ろしたことがある。彼女はそのことを言っていたのだった。

デジカメの良さは気軽さと即効性。現像するまでもなく、完成写真は簡単に確認でき、気に入らなければデータを消去すればよい。現像代もかからないし、部屋中にネガが散乱することもない。海外旅行に行くたびにフィルムを何十本と現像し分厚いアルバムを十冊以上こしらえる両親には是非デジカメをお勧めしたい。

これまで倦厭していたデジカメに食指が動いたのはこのBlogの存在だった。Blogの記事に添付する写真を撮るには最適だろう。現在は写真をスキャンしたものを使用しているけれど、外出から帰ってすぐにアップロードしたい時には向いていない。それに携帯電話のカメラでは画質に不満が残る。

文頭に登場した熱い男は、写真に興味を持ち出した友人にNikomatを買わせ、最近子供が産まれた友人にはアサヒペンタックスを贈る予定だという。勿論両方ともフィルム一眼レフ、しかもマニュアル機である。カメラ好きには有名なNikomatも大抵の人にはどこのメーカーかわからない重いカメラでしかないはずだし、子供の成長を記録するにはデジカメの方が便利に決まっている。
しかし彼は一眼レフのシャッター音にこだわり、一眼レフの硬質なボディにこだわる。
彼のした選択に笑いながらも、きっと自分も同じことをするだろうと思った。要するに我々が気が合うのだ。

敬愛する写真家は”自分が長年使ってきたフィルムや印画紙が生産停止になったらその時に(デジタルへの移行を)考える。”と言っていた。
世の中の写真家の多くは、彼のようなスタンスなのではないかと思う。デジタルを真っ向から否定するわけではないが、できるところまでフィルムでいく、ということだ。彼の残した『撮影で出会った景色に、もう一度現像で出会う』という言葉すら今後は理解されなくなってしまうのだろうか。

スナップショットと作品の境目でカメラを変えればそれで済む。暫く考えてその案に頷きかけるが、”作品”を撮影する行為はスナップ写真とどれほどの違いがあるというのだろう。そこには表現の境目など存在しないように思える。
アーダコーダと考えているうちに臨時収入は生活費に吸い込まれて、あぶくのように消えてしまった。


本日の1曲
Heartbreaker / Led Zeppelin


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