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信じられるかい? これが僕の “電話” なんだ。 iPhone Keynote@MacWorld2007



アップル社CEO スティーブ・ジョブズの行うプレゼンテーションは “キーノート” と呼ばれる。2007年1月に行われた iPhoneのキーノートを初めて見た時は鳥肌がたった。こんなにも胸躍るプレゼンテーションを未だかつて見たことがなかったからだ。

YouTube
Steve Jobs Keynote Macworld 2007 SF
iPhoneのプレゼンテーションは25分過ぎあたりから。何度も驚かせる話術に場内騒然
iPhoneを発表するスティーブ・ジョブス(日本語字幕)
冒頭からの約8分間のキーノートを字幕つきで見られます
Apple.com ※リンク切れ(2012/10/5確認)
Mac World 2007 Keynote Address(英語)
[Watch iPhone Introduction]から約90分のiPhoneキーノートを視聴できます

ジョブズのキーノートは世界中のApple Maniacsを虜にする。それはキーノートの隅々までアップルの哲学が反映されているからだと思う。
独創的で洗練されたアップルの新製品はもちろん、スクリーンに映し出されるのは説明に必要な最低限の文字、場を和ませるジョークにちょっとした毒舌。ゴージャス・ワンダフル・ブレイクスルーというキーワードの頻出に一層気持ちを煽られてしまう。

この日ジョブズは、まずスクリーンに3つのアイコン(タッチスクリーンiPod・携帯電話・ネット通信機器)を並べ、この日3つの製品の発表があることを匂わせた。そしてすぐ、それが「3つの」機器ではなく、それら全てを含む「1つの」機器であることを告げ、皆が待ちに待ったプロダクト名『 iPhone 』をコールする。

会場は喝采に包まれた、まるでライブ会場でロックスターが登場した時のような盛り上がりをみせる。確信に満ちたジョブズの佇まいと、興奮し身を乗り出す観客の様子に思わず頬が緩む。そしてゆっくりと、ジョブズは言い放った。
___ 我々は電話を再発明した。

ジョブズの行うキーノートのシナリオを “落ち着いて” 分析してみれば、いくつものテクニックを学ぶことができるだろう。ジョブズはプレゼンの名手として、世界中のビジネスパーソンの注目を集めている。その証拠に、彼のキーノートを行う間、アップル社の株価はぐんぐん上がっていくらしい。(iPhoneのキーノートでは、ジョブズがオンラインのデモ操作中にアップルの株価が上昇しているのを知り満足そうに「上がってるね。」と呟くシーンがある)




先日、ついに日本でもiPhoneが発売されることが発表された。昨年末辺りから国内各キャリアによるiPhone獲得への動きが度々報じられ始めた。DoCoMoへのキャリア替えも已む無し! と(勝手に)覚悟していた矢先だったから、iPhoneの登場を待ちわびていたsoftbankユーザの感慨もひとしおである。(自分だけか)

スティーブ・ジョブズは、理想のためなら手段を選ばない完璧主義者であり、冷酷非道なワンマン経営者と揶揄されることが多い。どんなに小さなボタンデザインも彼の厳しい最終チェックをパスしないとならないし、エレベーターで乗り合わせた社員に「今日君はアップルのために何をしたか」と問い、答えられなかった社員はその場で解雇する。

ジョブズはアップル創業時からずっと、コンピュータに詳しくない人にも使いやすいインターフェースを研究し、外装のデザインにこだわり、製品には『人々がそれまでできなかったことをできるようにしたい』という願いを込めてきた。
もっと便利で、よりクリエイティブに。それを叶えるためなら時に手段を選ばない。

トレードマークのブルージーンズで壇上に立つジョブズを見れば、彼がいかにアップル的なエッセンスを体現した人物であるかがわかる。
アップルの製品を心から愛する姿は自信に溢れ、我々はいつも素晴らしいプレゼントを受け取ることができる。もし今後iPhoneを手に取ったなら、キーノートでのジョブズの宣言( __ 今日、アップルが電話を再発明する)が、決して大袈裟ではなかったことが証明されるだろう。

あのジョブズがプレゼンテーションしたプロダクトが手に入る!
アップルの製品にはそんな価値もある。


本日の1曲
Aretha, Sing One For Me / Cat Power



F R E E D O M



FREEDOMのTVCMが放映され始めたのは2006年4月。一目で大友作品と判るキャラクターと、言わずと知れたカップヌードルの組み合わせ。宇多田ヒカルの楽曲と『自由を掴め。』というシンプルなコピー。多くの人がそれぞれの理由で注目した鮮烈な幕開けだったのではないかと思う。

日清カップヌードルの知名度は高く、もはや「宣伝」の必要はない。宣伝するための広告ではなく、世界観のみを提示する広告展開はやっぱり特異だった。
特に第3話の予告編となっていたCM(YouTube)は特に印象深く、しばらく残響が持続した。

アニメーション「FREEDOM」を中心としたFREEDOM PROJECTは、二年半をかけたシリーズの完結を迎えるまで、3ヶ月ごとのDVD発売・CM放映・街頭広告・動画配信など、長期的なプロモーションを展開していった。(アニメーション本編にもカップヌードルを食べるシーンが盛り込まれ、宇多田ヒカルの楽曲の歌詞にも「カップヌードル」は登場、アニメーションをコラージュしたミュージックビデオ(YouTube)も制作された。)


作品の舞台は、23世紀の月。崩壊した地球文明を見捨てた人々は月共和国「エデン」を形成する。エデンは平穏な生活が約束された代わりに、全てを運営局に管理された自由無き場所として描かれている。
ある日、タケルは月面で一枚の写真を拾い、地球がまだ生きていることを確信する。そして写真の女の子に会うため、無謀にも危険な地球行きを決断してしまう。

第2話には、エデンを抜け出したタケルとカズマが、青い地球を目にして立ち尽くすシーンがある。それは感動的な地球との出会いであると共に、エデンによる巨大な嘘があばかれた瞬間でもある。美しい作画の中にも、自由を奪われることの恐ろしさを感じさせる名シーンではないか。

この作品を見ていると、自分の中に「タケルならこうするだろう」というプロットが無意識に組み立てられていく。そしてタケルはそれを裏切ることがない。本当の自由は、逃げることでは得られない。そんな一番真っ当で最も困難な道をタケルは選択していく。


FREEDOM SEVEN 発売記念
オールナイト上映イベント @テアトル新宿


2008年5月31日土曜日、『FREEDOM』全6話+特別編『FREEDOM SEVEN』がオールナイト上映された。

深夜0:30、本編上映に先駆けて森田監督以下制作スタッフが登場し、ステージトークが始まる。会場は立ち見を含め満員である。
まるで部室のような雰囲気の制作スタジオ(平均年齢25歳!)の様子や、DVDの発売よりCMが先に放映されるという「オチが丸分かりのジレンマ」など、息つく暇がないほど次々にエピソードが披露され、会場が沸く。

曰く、今夜は『最初で最後の上映』。朝までかけて全7話がインターバルのように上映され続けた。大音響のロケット発射シーンでは、タケル達と一緒に宇宙空間を移動しているような気になったし、描かれた宇宙空間は胸のすくようなSFへの憧憬を思い起こさせた。すべての上映が終わった時、会場に大きな拍手がおこり、監督は手をあげてそれに応えていた。

構成を担当した佐藤大氏は、普段OVA(リリースのみでテレビ放送がないアニメ作品)ばかりやっているので、今日は見た人の顔を見られるのが楽しみにしていると語った。それはこちらも同じで、製作した人の顔や、その想いを知ることができたことはとても興味深い体験だった。


本日の1曲
Kiss & Cry / 宇多田ヒカル


お散歩・トーキョー 〜緑浮き立つ神宮外苑編〜


あのライトが春樹的なの?
うーん、球場かな? なんだっけ、最近短編集読んでさ。回転・・・
『回転木馬のデット・ヒート』?
そうそう。その中に球場の近くに住んでる男の子の話わかる? 部屋の窓から女の子の生活覗いて、“つくづく女の子が判らない” みたいな話なんだけど。

昼頃に電話がかかってきて、我々は神宮外苑に散歩に行くことにした。彼女は青山に届けものがあるからと車でやって来た。ファックスで済ませてもいいはずの書類をわざわざ届けに行くらしい。彼女はファックスというものをあんまり信用していないみたいだった。

週末の都心の公園には「運動が生活の一部になっている人達」がいた。グランドの隅ではフットサルチームの青年たちが談笑し、トラックの中に整列した子供たちはトレーナーの指示通りに体を動かしていた。

アイススケート場から出てくる少女たち、音もなく視界を横切るロードバイク、学生が担ぐドラム型のナイロンバッグ。そんな光景を見ていると、さながらここがスポーツアイランドのように思えてくる。

緑に囲まれた神宮外苑には、大小様々なスポーツ施設が揃っている。地図で見てみると周りを主要道路に囲まれ、緑が浮き立ち、島のように見えなくもない。
ここにはスポーツを愛する人が集まり、各々が選んだ競技の練習に勤しんでいる。犬だって溌剌と体毛をなびかせているのだ。

夕刻、赤坂御用地を一周することを思い立った。先ほど降った雨で空気はひんやりとしていて、植物の青いにおいが心地良い。明治記念館を眺めながら緩い上り坂を歩いていると、何人かのランナーが軽快な足取りで我々を追い抜いていった。

坂を上りきって御用地の内部を眺めると、正面に東京タワーが見えた。東京タワーの光が雨上がりの空にぼんやり滲んでいてとてもきれいだった。

豊川稲荷を過ぎ、日の暮れた青山通りを歩く。人通りの少ないこのあたりを歩くのはとてもいい。(人々は週末に青山一丁目より奥に進まないのかもしれない) 我々はイチョウ並木を通り、1時間ばかりかけて神宮球場へ戻ってきた。

彼女が言っていたのは『野球場』というタイトルの短編だった。彼女は簡単に物語を説明すると、言い訳をするみたいに「私つい最近読み返したばかりだから」と言った。

村上春樹氏は、かつて千駄ヶ谷でジャズ喫茶を経営していて、青山界隈を描いたシーンは度々作品に登場する。神宮球場で野球を見ている時、「ふと思い立って」小説を書き始めたというエピソードはファンには有名な話だ。
そんなわけで、村上作品を愛読する我々は、週末の神宮外苑を歩きながらムラカミ的な空気を楽しみもした。


本日の1曲
Please Patronize Our Sponsors / Jim O’Rourke


倍数の哲学

ここ何年かは “お笑いブーム” と言われているそうで、そのせいか「芸人の話およびそのネタ」は我々の会話に日常的に介入している。
『なにそれ?』と聞けば、大抵「芸人の話およびそのネタ」の話題で、その度に『YouTube見ろ』だの『ググれ(Googleで調べろ)』だのと言われることになる。

そんな風に最近「3の倍数」や「世界のナベアツ」という言葉に接触する機会が増えた。たまにテレビをつければ、やっぱりその言葉が聞こえてくる。楽しそうにしている共演者の意識はある事象を介して共鳴している様子。一人暮らしの部屋にほんのりと漂う、置き去り感。

「ナベアツ」という名称は、スポーツ界の重鎮を思わせる。きっと、巨人の偉い人(おそらくナベツネ)や、川渕チェアマン的なポジションにつき、「世界の」とつくからには、イチローのような高名な人物であろうことは容易に想像がついた。

ナベアツが名誉会長に就任したとか、ナベアツ主導のストライキが起こっているとか、スポーツ界全体に関わるアクションがあったに違いなく、今や連日のようにナベアツという青い文字がスポーツ新聞の見出しに踊っているのだ。きっと。

ところで、毎日必ずチェックするウェブサイトのひとつに、ほぼ日刊イトイ新聞の「気まぐれカメら」がある。糸井氏の愛犬ブイヨン氏が愛らしく、なにかというとすぐにページを開く癖がついてしまった。

4月5日の記事には「ちょっとちょっとブイちゃん、それじゃ、3のつく数と、3の倍数のときだけする顔だよ!」とある。
悔しいけれど、何のことか全く察しがつかなかった。

言うまでもなく、糸井重里氏は言葉の人である。きっと “ハムレット” や “欲望という名の電車” などの古い戯曲に出てくる決め台詞に違いない。倍数という概念を用いるあたりがそんな雰囲気を決定付けていた。そんな深い意味が含有された3の倍数の哲学は、今は判らずともいつかは理解できるだろう。やはりシアターコクーン青山劇場あたりか。

ところが先週、ある青年氏と話していて、あっさりと「3の倍数云々は世界のナベアツという芸人のネタ」であることが判明した。しきりに感心する自分の前で、『ボクは8の時の気持ちいい顔が好きです』と言い、『はぁひぃ〜〜(8〜〜)』と恍惚とした気持ちいい顔を見せてくれた。YouTubeだのGoogleだの言わず、その場で白目を剥いて説明してくれるとはなんて優しい青年なんだろう! 8の時は気持ちいいのだ!

なんともプリミティブな芸を目の当たりにし、いくつかがパキパキと繋がっていった。糸井重里が言及した意味不明な文言も、これでようやくつじつまが合う。見返してみると、該当記事のタイトルは「世界のぶいよん」であったが、3の倍数をするときの顔が単なる「アホ面」のことを差しているなんて思ってもみなかった。

そういえば「世界のナベアツ」をレクチャーしてくれた優しき青年氏と、以前エレベーターに乗り合わせたことがあった。彼は3階のボタンを押す時、甲高い声で「タンっ!(3!)」と叫んだ。
きっと仕事のストレスが溜まって、やりきれない気持ちなんだろう。若さというのは厄介なものだ。意味のない奇声を発したくなる時もあるよな。

大人の包容力をもってその場をやり過ごしたつもりだったけれど、それは単に世界のナベアツのネタだったのだ。お笑いを知らないと、いろいろと勘違う。


本日の1曲
Wow / Kylie Minogue



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2006/09/22 『妙なあだ名の王子さま
2006/04/01 『稲葉ウアー


『パラノイドパーク』人はそれに耐えられるか?

16才のアレックスははじめたばかりのスケートボードに夢中。
今日もお気に入りのスケボーパーク「パラノイドパーク」へ出かけていく。

しかし、ふとした偶然から、誤ってひとりの男性を死なせてしまう。
目撃者は誰もいない。おびえ、悩み、不安に駆られながらも、
まるで何事もなかったかのように日常生活を送っていく。
オフィシャルサイト〈STORY〉より一部抜粋

初めて行ったスケボーパークで、常連のスケートボーダーを眺めるアレックスの後ろ姿は格好良いものに憧れ、自分自身に退屈していたティーンエイジャーの頃を思い出させる。彼の後ろ姿に、居場所を見つけたいという切実な願いや、普通の少年の劣等感が滲んでいた。

『パラノイドパーク』の映像は、遮断された自分だけの世界を歩いているような浮遊感を感じさせる。スローモーションの映像に音楽をかぶせた演出は、緩やかなテンポの音楽をイヤホンで聴きながら街を歩いている感覚に近い。すれ違いはしても交わることのない多くの人々と、適度な孤独がもたらす安心感の類。

本作の撮影監督はウォン・カーウァイ(王 家衛)作品で独特の撮影スタイルを披露したクリストファー・ドイルが担当している。彼はカメラを「手持ちで」扱い、うねるようなカメラワークで対象を撮影する。
流れる景色にスローな音が重なる、そんな物事との距離を象徴するような映像演出は、少年の心情にとても近いように感じられた。


図らずも殺人を犯してしまった主人公アレックスも、事件が起きるまでは普通の少年だった。無邪気な仲間達と変わりない日常を送っていたはずなのだ。しかし事件の顛末を知ったその日から、全く違う次元にある世界の存在に気づいてしまう。

作品のストーリーは、随分前に見た悪い夢のようだった。夢の中で夕飯を食べながら楽しく談笑していると騒々しく玄関のドアが開き、ある友人が駆け込んできた。そして彼はたった今、人を殺してしまったと言った。殺すつもりはなかったがなぜかそこにいた老人を殺害してしまったと。彼は魂が抜け落ちてしまったみたいに生気がなく、思考が停止した空っぽの目をしていた。

日常に突然割って入った事件が、その場にいた偶然を激しく後悔させた。
___ なぜ、今晩ここに来てしまったんだろう?
___ なぜ、こんな事件を知る羽目になってしまったんだろう?

その夢はとてもリアルだったから、それが夢であったことに深く安堵した。しかし本当の恐怖の種類を知った気がして、目覚めたあとも暫く胸騒ぎが治まらなかった。
『パラノイドパーク』は誤って人を死なせてしてしまった16才の少年の、これからも続く人生の一部を描いたに過ぎない。彼は誰にも真相を打ち明けずに、このまま生きていくことが出来るのだろうか。

少年が殺人を犯してしまうというあらすじは、この作品のポスターにさえ印字されている。言うなれば、それだけの映画なのだ。
しかしあらすじを知ってしまっても、この映像は観るに値する。きっと、あらすじなんてこの作品のほんの、ほんの一部でしかないのだと思った。


本日の1曲
Oram / Fridge


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▼『パラノイドパーク 』【予告編】


監督・脚本:ガス・ヴァン・サント
撮影監督:クリストファー・ドイル
原作:ブレイク・ネルソン
2007年/85分/カラー/アメリカ・フランス
2008年4月12日(土) シネセゾン渋谷他にて全国順次ロードショー


スケッチブックの憂鬱のもと

あの頃、不安はいつも近くにあって、まるで身体に濡れた布がまとわりついているようだった。だから眠くなるまで誰かと一緒にいて、明け方の歩道で手を振って別れた。

まだそう長くはない人生を振り返っても、10代最後のその年は密度の濃い一年間だった。当時住んでいた狭すぎるワンルームは、ものを考えるのには適していたけれど、考えているうちに何がそこまで気分を憂鬱にさせているのか判らなくさせた。出どころの曖昧な不安は、夜になると小さな四角い空間をひたひたと満たしていった。

___ それはここまで気分を落ち込ませるほどのことなのだろうか?

ある時何気なく、目の前のスケッチブックに、今少しでも不安に思っていることを書き出してみた。薄暗い部屋でスケッチブックに覆い被さるようにして10程度の項目を書いた。

とりとめのない大きな問いを除けば、そのうちの多くは日常の些細な出来事に起因していた。時がたてばやり過ごすことのできそうなものも多かったし、答えが明らかな単純な悩みもあった。(明日のテストが嫌だ、とかそんなことだった気がする)

箇条書きにされた “憂鬱のもと” は、どれも大したことがなかった。
そう、驚いたことに、大したことがなかった。

それ以来、スケッチブックに憂鬱のもとを書き出すようになった。
一人暮らしを始めたばかりで、真夜中の憂鬱の解消法を他に知らなかった。

それは悩みの解決を試みることとは少し違う。靄(もや)のような不安を千切って眺めれば、少しそれが遠退いていくような気がしただけだ。言葉を書き出せば、なんとなく不安と折り合いをつける方法を見つけたような気になった。

浪人生の身分だから、翌春のためにやらなくてはいけないことはたくさんあった。克服しなくてはならないデッサンモチーフのことや、覚えなくてはならない英語の構文も山積していた。今、前進するためには、不安を追いやらなくてはならないと思った。

___ なんだ、大したことはないじゃないか。

だから、そう思えることが重要だった。理由のつけられない憂鬱は邪魔だった。不安な夜は憂鬱のもとを眺め、そのスケッチブックのおかげで、次の春には大学に合格することができた。

今では憂鬱のもとを書き出すこともなくなった。
もう、不安を追い払おうとしなくなったのかもしれない。あの憂鬱の種類を持たなくなったのかもしれない。何かを目指して貪欲に前進する必要も、無くなった。
あの頃スケッチブックを覆ったのは、まだ何にでもなれると信じていた頃の憂鬱のもとなのだ。


本日の1曲
Swallowed / Bush


日曜日の夕方症候群


友人の部屋の本棚には、全く同じ文庫本が二冊並んでいた。聞くと、持っているのを忘れて同じ本をまた買ってしまったのだという。その時、なぜ自分が買った本を忘れてしまうのか不思議に思った。確かに彼は読書家だけれど、さすがに自分の読んだ本くらいは覚えているもんなんじゃないかと思ったのだ。

日曜日の夕方はなぜか本を買ってしまう。高円寺駅の北口にはこぢんまりとした書店があって、日用品の買い物のついでにいつも立ち寄る。それはなんとなく周回コースのようになっている。
___ これからゆっくり夕食を作って食べ、夜は本でも読もう。
日曜の夕方はそう思わせる何かがある。

そうして日曜日がやってくるごとに書籍が増えていく。かといって購入した本を必ずその日に読むわけではない。読んでいない本が増えるのに、翌週末はまた本を買ってしまう。

本を購入する時、「カバーはかけますか?」という店員氏の声に、反射的にハイと答えてしまう。本を読み出す時にカバーを外し、本体だけの簡素な物質を掴む。我が家において、書店のカバーはまだページの開かれていない未読本の目印みたいなものだ。

しかし書店のカバーは買った本を探す折に少々やっかいである。単行本だったか、文庫本だったか、「紀伊國屋書店」か「ブックファースト」か「ブックスオオトリ高円寺店」か。日曜日の夕方に本を買う習慣がついてからというもの、カバーを外して中身を確認する回数は確実に増えている。
時々、買ったことを忘れていた本を見つけたり、買ったはずなのになかなか見つからない本もある。(それはつまり買っていないということだ)

そんな風だから、全く同じ本を二度買ったとしてもおかしくはない。しかし意外にもこれまで同じ本を二度買ったことはなかった。ホラ、やっぱり買った本は覚えているじゃないか。我が家の本棚に全く同じ本は二冊無い。
しかし先日、ついにその神話が崩されてしまったのである。

ある日曜日の夕方、またしても書店の棚の前にいた。今夜読みたい本を物色し、ある本を手にとった。ベッドの脇あたりで見かけたような気もしたけれど、今夜読みたい本が手元に無いよりはマシな気がして、買って帰ることにした。

部屋に戻って、ベッドの脇に積みあがった文庫本の中から数冊を引き抜いた。床にバラバラと崩れた中から何冊かのカバーを外していくと、ついさっき購入した本と同じ本が出てきた。

文庫本にかけられた帯は、“夏のキャンペーン” から “映画化の告知” に変わっていて、8版が18版になっていた。

本棚に同じ本を二冊並べた友人氏からは、その本の話を何度か聞いたことがある。有名な作家の著作でありながらなかなか日の当たらないその作品に、いたく感銘を受けているみたいだった。彼はそこまで思い入れのある本を何故気づかず二度買ってしまったのだろう。


本日の1曲
DOOR OF THE COSOMOS (THIS STARS ARE SINGING TOO)
/ SPECIAL OTHERS


愛しのハク 〜北風とナーバスな猫、編〜

机に乗ってものを落とす。
観葉植物の茎を折る。
皿の隅のキャットフードは残す。

そんな風でも文句を言われないので、これからもその癖はきっと直らない。まあ、それでも良い。

ペットとの関わり方は親子のそれによく似ていると思う。
例えば、ぺットに洋服を着せる人は、子供にも洋服を沢山買い揃えそうだし、小さくて高価な缶詰をペットに与える人は、スーパーマーケットのお惣菜で子供を育てないような気がする。
育てるという行為は、育てる人の価値観を反映する。それが猫であっても人間であっても、きっと大差は無い。

我が家のハク氏に対しては、何かをしつけた覚えが無い。(トイレの習慣は、うちにやってきた時にもう身に付いていたみたいだった)考えてみれば自分とハクとの関係は、自分と親の関係に似ていなくもない。しかし両親と大きく違うのは、自分がひどくだらしないところだ。

先日、ハク氏を半日動物病院に預けた。その医院には以前一度預かってもらったことがある。前日に電話を掛けて予約をしたというのに、当日訪れると院内の誰にもそれが伝わっていなかった。

ペットを預けるときには感染症を避けるため、一年以内に受けたワクチン接種の証明書を提示しなくてはならない。しかしその日は証明書を自宅に忘れてしまった。
確か1年前くらいに予防摂取をしたはずだったけれど、それが一年以内である証拠がない。数人のスタッフと獣医氏は、待合室にいる自分とハクの入ったキャリーバッグを交互に見た。

受付カウンターに置いてある病院名の入ったプレートを見ると、昨日予約した医院となんだか名前が違う。同じ町内の違う病院に予約を入れていたのだ。

予約無。ワクチン証明書無。診察券も忘れた。足元に置いたキャリーバッグから、不安そうな愛猫の鳴き声が聞こえる。こちらが途方に暮れていると、獣医氏がしぶしぶ頷いてくれた。

家までの帰り道、いぶかしげな獣医氏の顔や、他の動物の気配に身を縮めるハク氏の姿を思うと、次第に早足になった。いくらこちらが説得したところで、ハクの安全性を証明できるものがない。擦り切れたジーンズにニット帽という姿ではさらに説得力に欠けていたかもしれないなどと、どうしようもないことを考える。

証明書は机の引き出しに無造作に閉まってあった。そして案の定、前回の摂取日から1年が経過していた。これでまたハク氏の立場が悪くなってしまった。病院に電話をかけ、恐縮しながらワクチンの接種を依頼した。今ハクの潔白を証明できるのは3種混合ワクチンしかない気がした。

引取りの時間が来て迎えにいくと、ハク氏は身体を硬くして唸り続けていた。獣医氏は「ナーバスになってるみたいですね。」と言った。知らない人に囲まれて注射まで打たれたのだから仕方がない。

住み処を点々とする一人暮らしに加えて、(幸運なことに)病を患うこともあまりなかった。だから東京にはハク氏のカルテがない。一歩外に出れば、ハクの身元を証明できるのはこの頼りない自分だけなのだ。

日の暮れた路地を歩きながら、その日一度でも彼が疑いの目に晒されたことにいたたまれない気持ちになった。こうして “子供” は、親のだらしなさに時々巻き込まれてしまう。冷たい風がなるべく入らないように、ナーバスな猫が入ったバッグを抱きかかえて家に帰った。


本日の1曲
About You / Teenage Fanclub


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2007/11/18 『愛しのハク 〜ぼく達のささやかな10年編〜
2007/06/20 『愛しのハク 〜クッションのあたたかな凹み編〜
2006/12/11 『愛しのハク 〜純白のファッショニスタ編〜
2006/11/26 『愛しのハク 〜我が家の冬支度編〜
2006/11/09 『愛しのハク 〜のっぴきならないお出かけ編〜
2006/10/27 『愛しのハク 〜オレ関せず編〜
2006/10/11 『愛しのハク 〜ハクの宅急便編〜
2006/09/29 『愛しのハク 〜研いで、候。編〜
2006/08/11 『愛しのハク 〜3時間のショートトリップ編〜
2006/07/18 『愛しのハク 〜人知れずタフネス編〜
2006/07/04 『愛しのハク 〜勝手にしやがれ編〜
2006/06/11 『愛しのハク 〜飼い猫も潤う6月編〜
2006/05/03 『愛しのハク 〜おかか純情編〜
2006/04/10 『愛しのハク 〜違いのわかるオトコ編〜
2006/03/16 『愛しのハク 〜眠れぬ夜は君のせい編〜
2006/03/01 『愛しのハク 〜MY CAT LOST編〜
2006/02/11 『愛しのハク 〜ルームメイトは白猫氏編〜


映画『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生』


アニー・リーボヴィッツとの撮影を終えたわずか数時間後にジョン・レノンは暗殺され、その写真は広く世に知られることになった。胎児のように体を丸め、全裸でヨーコに抱き着く彼のポートレイトを見ていると、そんな皮肉な運命が信じられなくなる。

『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生』は、女流写真家アニー・リーボヴィッツの半生を描いたドキュメンタリームービーである。ハリウッドスターや世界有数のモード誌の編集長、あのヒラリー・クリントンまでが登場し、アニー自身とアニーの作品の魅力を興奮した表情で話す。

かの有名なRolling Stone誌にカメラマンとして在籍していた間、アニーはロックバンドのツアーに同行し、ステージ写真のほか、バックステージや滞在先のホテルなどでオフショットを撮るようになる。

日常的な風景と人物との間にも、思わず記録せずにはいられない瞬間がやってくる時がある。多くの人はレンズを向けられたその瞬間に他者を意識してしまう。あるロックスターは「(行動を共にしてから数日後には)彼女の存在が気にならなくなった」と語った。

それはカメラのレンズを介した両者がイコールに近いエネルギーを発する時に起こりうる現象で、エネルギーが多くても少なくても、それは叶わない気がする。たとえ優れた表現者を前にしても、彼女にはレンズの向こうの被写体とイコールになれるエネルギーがある。だからこそ存在を「消す」ことができたのではないだろうか、と。


__ 個性的で表情豊かなモチーフが目の前に用意されていたら、シャッターを切りさえすれば印象的な写真が撮れる? それなら誰がシャッターを切っても同じだということにならない?
以前ある友人氏は不思議そうに言った。

確かにフォトジェニックな(絵になる)モチーフや人物は写真を魅力的なものにする。しかし写真は一人の人間の限られた視界そのものであり、一枚の写真にはそこに存在することを選択した個人の意思が反映されているはずなのだ。写真を見るとき、その対象にレンズを向けた人間のアイデンティティを感じないだろうか。同じ場所に立っても同じ視界を持つ人間はいないはずで、瞬間を記録したい衝動がシャッターボタンを押させるのだから。

アニーは幼い頃から転居の多い生活をしていたみたいだった。景色を眺めながら次の土地へ向かう彼女にとって、車の窓枠は世界を切り取る「フレーム」だった。車を運転しながらインタビューに答えるアニーは、『私はいつも写真の構図のことばかり考えている』と言った。

確かに、毎日デッサンばかり描いていた浪人生の頃は、どこにいて何をしていても、物質の光の反射や、影や、パースペクティブが気になって仕方がなかった。親指と人差し指で作ったLの字を目の前にかざし、視界をトリミングしたりもした。

それはおそらく、「表現者の目」を持っているがゆえの癖のようなものだ。表現者は常に見つめ続けている。何かを表現するためには、物事を見つめなくてはならない。しかし表現者でなくなってしまえば、その癖もいつしか消えてしまう。

髪を振り乱しながらポートレイトを撮影するアニーの姿は喜びに溢れ、野性を感じさせもした。
映画館を出ると、久し振りにモノクロのポートレイトを撮りたくなった。それと同時に、今の自分は何に愛を感じてシャッターを切れるのだろうかとぼんやり考えもした。


本日の1曲
Simple Song / Richard Ashcroft



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▼『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生
http://annie.gyao.jp/


監督・製作:バーバラ・リーボヴィッツ
2007年/83分/カラー/アメリカ
Photographsc2007 by Annie Leibovitz

2008年2月16日(土)より シネマGAGA!、
シネカノン有楽町2丁目他 全国順次ロードショー



『コインロッカー・ベイビーズ』





村上龍/著
¥490(講談社文庫)




改札の向こうにあるコインロッカーには「コインロッカーに入れてはいけないもの」という注意書きが掲げられていた。ある日、何気なく目を遣ると、そのリストの中に「死体」があることに気が付いた。

それは他の文言と並列に表記されているのは少し違和感があった。
その日以来、コインロッカーを見るたびに注意書きが気になるようになってしまった。そしてこれまで目にしたほとんどのコインロッカーには、やっぱり「死体」という文字があった。

コインロッカーはブラックボックスなのだ。誰が何を預けたかは、本人以外にはわからない。
コインロッカーは壁や柱と同じなのだ。人々はその中に何が入っているかなんて考えないし、そんなことに興味もない。扉が堅く閉じられたままでも暫く誰にも気付かれないだろう。

キクとハシはそんなコインロッカーで発見された。それぞれの母親によって、生後まもなく置き去りにされた二人の孤児は、乳児院で兄弟のように育てられた。キクは気の弱いハシをいつも守ってやった。

母を捜すため東京にやってきたハシは男娼となり、「薬島」と呼ばれるスラムに住み着いた。後にハシは、才能を見出だされ歌手としてデビューする。コインロッカーで生まれたといういわくつきの出生が瞬く間に彼を有名にした。

一方、ハシを追って東京にやってきたキクは、「東京を真っ白にする」恐ろしい物質を手に入れようとしていた。キクは世界を憎み、復讐のためならどんな危険でも冒してしまう。凶暴な魂で復讐を試みるキクと、次第に自分をコントロールし始めるハシ。

『コインロッカー・ベイビーズ』を初めて読んだのは大学生の時だった。読むそばから、言葉は次々に映像に転換されていった。喩えるなら、頁から剥がれた活字が鮮やかなインクになって、頭の上にどろどろ垂れてくるような感じがした。句読点の少ない夢想的な描写の連続は、幻覚を見ているかのような気分にさせた。

その濃密な文章で、むせ返る空気や生き物の血の匂いが生々しく迫ってくる気がする。キクとハシ以外にも、鰐(ワニ)を飼う少女「アネモネ」や、ハシを発掘した男色の音楽ディレクター「ミスターD」など、独特の人物像が物語の世界観をより強固なものにしていた。

何をしていてもまとわりついて離れない不幸を跳ね返す方法はあるんだろうか。動かなくてはならないとしたら、何をどうすればいいのだろう。物語の中で動き回るキクとハシを見ているうちに、自分が最善と信じるやり方は愛する人を幸せにするだろうかと、自問するようになった。

「じゃ、俺はもう飛ばなきゃ」
キクは立ち上がった。隠しておいたグラスファイバーポールを取り出す。うわあきれい、レーザー光線みたい、銀色の半透明の長い棒を見てアネモネが言った。うまく跳んでね、写真とるから。

上巻でキクが薬島を囲む鉄条網を棒高跳びで跳び越えるシーンがある。この作品を思い出す時はいつも、半円の弧を描いて真夜中の空に舞うキクの姿が目に浮かぶ。

都心の夜の通りを歩いていると、高い鉄の柵の向こうの茂みが見えた。今にも目の前をキクが飛び越えていくんじゃないかという錯覚が襲う。そんな時は、きらきらと弧を描くポールの先端に、細く長い手足で絡みつくキクが見えるような気がしてしまう。


本日の1曲
KICK IT OUT / BOOM BOOM SATELLITES