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WWWの網の上

かつてポータルサイトの存在すら知らなかった自分も、今ではインターネットヘヴィーユーザーである。必要な情報を収集し、ネットバンクで預金を管理し、週に何回かはネットショッピングをし、blogも立ち上げた。

すべてが悪い側面で語られるべきではない。
今はそんな発言も不毛であるほどにインターネットは我々の生活に根付いているが、当時は急速な普及の最中にあった為にその賛否は充分な話題になった。ヒューマニズムの欠落と匿名性の恐怖。情報の流出と不法サイトの数々などが。

自宅のMacintoshをインターネットに接続したのは大学3年生の時だった。23時から8時までは繋ぎっぱなしの状態でも月額を超えることはないNTTのテレホーダイに加入していた。自宅に電話がかかってくるとブツッと回線が切れたことすら懐かしい。当時はプロバイダの基本料金も高く、常時接続は大学生には夢のような話だった。
23時を待ってインターネットに接続した。そして目の前に突然開けたその世界に夢中になった。オンラインゲームやチャットに参加してみた。そこに集まった何百人という面々の多くは翌朝8時になると画面からいなくなった。

そのうちインターネット上で友達が出来始めた。友達が友達を紹介し、気の合う仲間が徐々に集まっていった。全国各地、暮らす環境は様々だった。聞くと皆がほとんど同世代だった。
そして毎晩のように「会う」ようになった。もっとも実際に会ったことは無かったが、1年ほど顔を合わせているうちにひとりひとりの性格も把握できるようになっていた。

理工学部の大学院生の彼は研究の手を休めてはチャットに現れた。
>>この実験、朝までかかりそうだ・・・。
区役所に勤めていた彼は毎日決まった時間に現れ同じ時間に去っていった。
>>外国人の取材に行ったんやけど、だーれも英語話せへんで困ったでー。
お姉さん的存在の彼女は彼氏とのデートのエピソードを教えてくれた。
>>バスローブのまま廊下に出たら鍵締まっちゃってさあ!

今まで接点の無かった人と話をするのは楽しかった。彼等にもそれぞれの生活があり、彼等にも話したいことはたくさんあった。モデムから伸びる黒く細い一本の線が自分と仲間を繋いでいた。

無論モニタの向こうにいる相手の表情を知ることは出来ないし、文字だけで感情のニュアンスを伝えるのはテクニックがいる。時にはうまく伝わらないこともある。キーボードを操作するだけの会話で嘘をつくことだって容易い。しかし我々は互いに嘘をついていたか?
例え姿は見えなくても彼等の言葉からはいつも人間を感じることが出来た。毎晩アクセスする度に必ず誰かがそこにいた。当時の自分にとっては最も「身近な」友人達がそこにいた。

森田芳光監督の『(ハル)』という作品がある。
1996年の公開当時はまだパソコン通信の時代だ。どこか空虚な生活を送る若者同士が映画フォーラムで出会う。通信を重ねる度に互いの人間を理解し始め、自分以外の人間の人生を考える。そして生活の隙間にその存在が徐々に入り込んでゆく。
独特のカメラワークや、字幕使いなどのちょっとした遊び心もストーリーを一層魅力的なものにしている。人間同意の繋がりがどれ程尊いものか思い知らされる素晴らしい映画だ。

たとえ姿は見えなくても、その繋がりはとても尊い。今では疎遠になった友人達のことを考える時、WWWの網の上で出会った彼等のことを思い出す。


本日の1曲
Hold Me / Weezer



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(ハル)
(ハル)

1996年・日本・118分
監督:森田芳光
出演:深津絵里 内野聖陽 ほか


ハイスクール・デイズ

島田市には川幅1キロはある大井川が流れている。高校の敷地を出ると目の前に河川敷が広がる。通っていた静岡県立島田高等学校は大井川の土手近くにあり、通称ドテ校と言われていた。
毎朝国道1号線を自転車で通学していた。川風のせいで朝の通学時は向かい風が強く、反対に帰り道は追い風に背中を押されて帰ってくる。国道沿いの人気のない中古車センターとパルプ工場の縞模様の煙突を思い出す。

これまでの自分の人生を顧みても、誇れるようなエピソードの無かった3年間だ。それまで家族や友人や教師達に向かって取り繕っていた体裁は崩れていった。

学習塾に毎日のように通って入学した高校であったが、程なくして勉強に対するやる気を失った。当然成績は思わしくなかった。日本史教師氏が学年集会で放課後の追試について言及したが、追試の教室に現れたのは自分ひとりだった。日本史教師氏は自分に気を遣っていたのだ。数学に関しても一切興味が沸かなかった。定期テストで数回に渡って採点不可能の点数を採り、数学教師氏に申し訳なさそうに謝られた。言うまでもないが、彼に責任はない。
風邪で一週間休んでいる間にサイン・コサイン・タンジェントの単元は終了していたけれど、例え授業に出席していたとしても到底理解できない数式だったと思う。

当初入部した運動部も1年も経たずに退部し、活動しているかどうかわからないような部に籍をおいた。数週間に1度のその集まりにさえ参加しなかった。高校には文化祭や体育祭があるが、それらの行事にも参加しなかった。体育祭でガチャピンの着ぐるみを被ったクラスメイトを横目に頬杖をついた。もっとも、ほとんどの物事の進行は自分の知らないところで進行しているようだった。

文化祭の閉幕式で片付けの段取りの説明を聞くよりも、自分の抱えていた苦痛の方が重要な問題だった。式が行われる体育館には行かず、教室に作られた巨大で陽気な迷路の中で友人とボソボソ会話をしながら窓の外の景色を眺めていた。
そんな憂いの最中にクラスの担任氏が教室に現れた。彼は陰に隠れた我々の存在に気付き、怒り狂って教室の壁や扉を蹴飛ばし始めた。怒り出すと収集のつかなくなるその教師氏は顔を紅潮させて唾を飛ばしているに違いない。隣にいた彼は煙草まで吸っていた。ばれてしまったら停学になるだろう。
数分後、他校の友人が身代わりになって出て行った。平謝りをする教師氏の声に安堵し顔を見合わせる。その後、転がり落ちる勢いで階段を降り保健室のベッドに逃げ込んだ。きっとものすごく怪しい二人組であった。

ちょうどその頃、想像していたよりも自分がもろい人間であることに気づいて愕然としていた。逆境にぶち当たると自分が粉々になる感覚を味わった。それまで突発的イベントと捉えていたその弱さはどうやら自分の「性質」であるようだった。その厄介なエゴと対面してしまったのも高校時代だった。

授業をサボり、その時間を大井川の河原で過ごした。川岸のブロックに腰掛けて石を投げた。ざわざわと流れる川と山肌の茶畑、視界の両側には隣町とを繋ぐ橋が2本。進学、恋愛、家族、そして自分自身。今ここにいる場所が全てだった。今思えばライ麦畑的な高校生の憂鬱である。

そしてちょうど10年前の今日に高校の卒業式があった。当日は大学受験で東京にいた為に式には参加していない。それにはっきり言って卒業式なんてどうでもよかった。どうしようもなく保守的な人間の東京生活がこれから始まろうとしていた。


本日の1曲
Whatever / Oasis


愛しのハク 〜MY CAT LOST編〜

ネコ氏と暮らし始めて1年が経過した頃、ネコ氏の人生について考えていた。外に出して自由な生活をさせてやったほうがよいのではないかと。
そのためにはそれなりの予防接種をしておいた方がよい。大学近くに合った動物病院に向かった。原付の荷台にネコ氏の入ったキャリーバックを乗せてヨロヨロと青梅街道を走った。

獣医氏に訪れた趣旨を説明すると彼は難しい顔をした。「屋外に出すということは危険が沢山あります。ワクチンは病気の感染を完全に防げるわけではないし、交通事故に巻き込まれる可能性だってあります。」彼が外に出すことに賛成していないのは明白だった。そして「家の中で安全に末永く暮らすか、楽しみを優先して危険にさらすか。」と獣医氏は静かに言った。

高校生の時、実家で飼っていたネコが亡くなった。家の前の車道で車に轢かれてしまったのだ。目立った外傷もなく、おそらく内臓破裂でこの世を去った。
のんびりと毛繕いを始めたネコ氏を眺めながら、ぼんやりとそのことを考えていた。
その日はワクチンを接種して帰宅したが、今に至るまで我が家のネコ氏はインドアキャットである。しかし脱走をしたことは数回ある。

気づくとネコ氏がいない。脱走しないように貼り付けたガムテープが緩んで、いつも締まっている網戸がほんの少し開いているのに気がついた。以前からその網戸を開ける仕草をすることがあった。そこから出て行ってしまったのだ。
当時住んでいたアパートの裏手は雑木林になっていた。そこは猫たちにとってはこの上ない遊び場であるようで、野良猫の姿もよく見かけた。

自分の猫がいなくなって初めて、雑木林に足を踏み入れた。斜面には草が生い茂り、黄色い土の中に埋もれそうな石の階段を上がると個性的なつくりの民家が見え、その奥には大きな駐車場のあるコンクリートのマンションがあった。アパートのすぐ裏手にあったにも関わらず、今まで存在すら知らなかった建物だった。

名前を呼んでみるが反応はない。部屋の窓を開け放し、一日中部屋に戻っては探しに出かけるのを繰り返した。雑木林からアパートの部屋にかけておかかをふりまき ”おかかの道” を作った。近所の人に聞いてみたところで白ネコを見た人はいなかった。気休めによく見かける猫たちに話し掛けた。
___ハク、いなくなっちゃったよ。

夜中には業務用おかかの袋をパカパカと開け閉めしながら雑木林をうろついた。彼はその音を聞きつけると家中のどこにいても走ってやってきた。しかし、その日ばかりはいくら名前を呼んでも彼は来なかった。

どこかの溝にはまって出られなくなっているのかもしれない。帰り道がわからなくなって数キロ先を途方に暮れて歩いているかもしれない。このまま外の生活が楽しくて戻ってこないかもしれない。
探せば探すほど不安が募る。頭の中を良くない妄想が支配し始めた。

翌日になってもネコ氏は戻らず、一層気分は落ち込んだ。張り紙を作ろうと考えた。電柱に貼ってある探しネコのポスターは何度も目にしたことがある。普段部屋の中で生活していたネコだ。首輪もしていない状態であの家のネコだ、とはわかってもらえないだろう。探していることをアピールしなければならない。
しかし思いついたところで到底そんな作業をする気にはなれなかった。ベッドに腰掛け目をつぶった。
友人に電話を掛け、話し相手になってもらう。必死で飼い猫を探している友人に何と言えばよいのか、彼女は必死に考えてくれていたと思う。

その時、窓の外にひょっこりハクが現れた。
こちらの大きな声で驚くでもなく、すんなりと部屋に入りごはんを食べ出した。真っ白い毛は灰色に汚れてボサボサになっていた。細かい葉っぱが体のあちこちについている。鼻をくっつけると乾燥した外気の匂いがした。足の裏には僅かに血が滲んでいる。


これが我が家のネコ氏の一番長い逃亡劇であった。
彼の生活を豊かにすることはできているだろうか。自分と一緒に暮らして満足してくれているだろうか。時々そんなことを考える。


本日の1曲
君は僕のもの / クラムボン


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2006/02/11 『愛しのハク 〜ルームメイトは白猫氏編〜


FUJI ROCKのOMOIDE

今年で10回目を迎えるFUJI ROCK FESTIVALが今年も新潟県の苗場スキー場で開催される。
97年の富士天神山スキー場でその歴史は幕を開けた。後に「嵐の天神山」「伝説のフジロック」などと呼ばれることになる。当日の嵐は人命に危険を及ぼすほど猛烈で、会場の様は伝説的にデカダンだった。よって公演は途中で中止を余儀なくされた。

当時大学1年生で静岡の実家に帰省中だった。当日は呑気に麦藁帽子をかぶっている友人と鈍行列車で御殿場に向かっていた。しかし、御殿場駅に到着するとバスロータリーの職員にフェスの中止を知らされた。

当日のweb上では「来ないでください!」とフェス主催者にあるまじき悲痛なメッセージが随時アップされていたらしい。写真を見ると参加者は頭からゴミ袋を被り雨風に耐え、鉄骨のステージは今にも崩れそうな様相であった。
御殿場駅で、これ以上は会場に近づけないことがわかるとトボトボと帰りの列車に乗り込み、なぜか静岡で下車し映画館で「もののけ姫」を観た。Green DayとWeezerに思いを馳せながら真っ直ぐ帰るのはあまりにもやりきれなかった。

翌98年は豊洲の東京ベイサイドスクエアで開催され、99年からは現在の苗場スキー場に開催地を移した。そして2003年FUJI ROCKに初参戦した。
真夏の3日間に国内外のアーティストが苗場に集結する。動員数は各日3万人に登り、ステージの数は大小合わせると10を超える。チケットの券種もそれぞれの1日券、前2日、後2日、3日通し券と用意されていたが、この年初めてチケットがソールドアウトした。

03年は元Smashing PumpkinsのBilly Corgan率いるZWANの出演が決定していた。行くなら今年だと確信していたのだが、その個人的ヘッドライナーZWANはその後出演をキャンセル、秋には解散を発表した。同年3月の新宿リキッドルームがZWANの最初で最後の来日公演となってしまった。あのライブに行ってよかった。もうきっとあんなに近くでBillyは観られない。

しかし一度上がってしまったテンションは収まりがきかず、どうする?行く?どうする?・・・行くか!と3日間通しチケットを購入し新幹線で苗場へ向かった。
3日間のうち2日間は雨に見舞われた。沖縄そばを雨の中突っ立って食らうが、一向にスープが減らない。屋根があるところは人だかりが出来ていて常にずぶ濡れの状態だ。着ているTシャツを絞ると止めどなくしたたる雨水。そんな雨具らしい雨具を持ってこなかった自分に、優しい友人が差し出した黄色いポンチョ。我ながらよく似合っていた。

各国からやってくるアーティスト達にもFUJI ROCKの評判は上々だ。このフェスティバルで復活、解散というバンドもいて、アーティスト達にとっても特別なイベントであることがうかがえる。国内の野外フェスの草分け的存在であり、毎年の出演者のラインナップはこちらを唸らせる。しかしなんと言ってもその環境が魅力の要因になっているのは間違いなさそうだ。

一番大きなグリーンステージ前は芝生が続き、昼間にはそのスペースで寝転がってステージを眺めることが出来る。地面は土あるいは芝生で、コンクリートでは無い。膨大な敷地では隣のステージに移動するのにも結構な時間がかかる。参加者はタイムテーブルと相談しつつお目当てのアーティストのステージへ向かう、そして時には走る!
キャンプサイトも併設され、テントを張って宿泊することも出来る。もちろん簡易浴場や、手洗い場も完備されている。(もっとも、この時期の苗場で宿を確保できるのはラッキーな人たちだけだ)
昼間から夜にかけてのライブパフォーマンスだけでない。深夜から朝にかけてはDJプレイが続く。明日に備えて寝たい人は寝る、踊りたい人は朝まで踊り続けるのだ。

会場にはボランティア氏の姿も多く見られ、ゴミの収集活動も盛んに行われている。もはや名物となっている屋台の数々もこちらを飽きさせない。川で水浴びをする人達や、スキー場のゴンドラで山の頂上を散策する人、キッズランドでは小さい子供達が遊んでいる。FUJI ROCKだからこそ、その楽しみ方はたくさんある。FUJI ROCKを巡る環境は年々進化しているみたいだ。

ポンチョ姿で踊りまくったThe Music、苗場のトワイライトに映えるColdplay、雨が降りしきるグリーンステージを舞うBjork。その演奏中ホワイトステージの騒音がうるさいな、と思ったらそれはIggy Popだった。なんて贅沢な空間なんだろう!そして混雑を避けるため早めに乗り込んだシャトルバスの中で聴こえたUnderworldのBorn Slippy。(自分の計画性が仇になる好例である)

そして昨日、2006年の第一段出演アーティストがFUJI ROCKERS ORGにてすっぱ抜き発表された。実質的な第一弾発表でRed Hot Chili Peppersの文字に早くも胸が高鳴った。


本日の1曲
Declarations Of Faith / Zwan


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2006/08/07 『FUJIROCK道 〜グッバイ・サンキュー!編〜
2006/08/06 『Red Hot Chili Peppers @FUJI ROCK FESTIVAL2006
2006/08/05 『FUJIROCK道 〜0時を過ぎても!編〜
2006/08/04 『FUJIROCK道 〜滑降覚悟のテントライフ編〜
2006/08/03 『FUJIROCK道 〜騒いでも騒がなくてもハングリー編〜
2006/08/03 『ASIAN KUNG-FU GENERATION @FUJI ROCK FESTIVAL2006
2006/08/02 『FUJIROCK道 〜魅惑のエンバイロメント編〜
2006/08/01 『ストレイテナー @FUJI ROCK FESTIVAL2006
2006/07/31 『FUJIROCK道 〜ハロー苗場!高速移動編〜』 
2006/07/27 『FUJIROCK道 〜出発直前!いざ苗場編〜』 
2006/07/10 『FUJIROCK道 〜ライブのお供にゃクエン酸編〜
2006/06/08 『FUJIROCK道 〜夏嫌いインドア人間の決意編〜
2006/06/04 『FUJIROCK道 〜冷静を装う週末編〜
2006/02/28 『FUJI ROCKのOMOIDE


新製品恐怖症

現在のMacintoshを購入したのは2001年の年末だった。当時は大学の卒業制作真っ只中で、アニメーションを作るにはどうしても新しいマシンが必要だった。純正の液晶ディスプレイと合わせて30万円の買い物。友人と大金を持って新宿に繰り出し、お互いMacintoshを購入した。そしてクリスマスの日に我が家に新しいMacintoshがやってきた。

それまで使っていたマシンはPower Mac 7600/200だった。3年も使っていなかったがあの頃は最もハードの進化がめざましい時分ではなかったか。しかもあろうことかモニタの接触が悪いために毎回本体にチョップを加えていた。余計に壊れた。それ以来電化製品にチョップを加えたい衝動を必死に押さえるようになった。

意気揚々とPower Mac G4を操作する。新しい液晶ディスプレイはとてもスマートだしハードディスクの容量は10倍になった。今までとは比べ物にならない程のパフォーマンスに興奮した。自分は一番イケてるニューマシンを手にしている!

しかしあっさりと年明けに新機種が発表された。締め切り前の混沌とした頭のカオス度が一気に加速する。冷静に情報を確認すると同じ価格でスペックが随分とグレードアップしている。悦に入っていたのも半月ともたなかったじゃないか。
しかし残念なことに郊外に住む一大学生が発売前の情報を知る手段はなかった。

Appleは新製品発売前に情報を出さない。いきなり新製品が市場に登場するのだ。ちなみに同社は今週も「面白い新製品(”fun, new products”)」の発表を予定しているが具体的に何を発表するかは公にされておらず、憶測は全世界的に飛び交っている。報道関係者に送った電子メールには「もっと詳しいことを知りたい方は28日にカリフォルニア州クパチーノにあるアップルの本社まで来るように」と書かれているだけだ。”Come see some fun, new products from Apple,”

あのタイミングで購入しなければ締切に間に合わなかったんだから・・・と自分に言い聞かせている。だがCD-RW内蔵を逃したダメージは大きかった。未だにメディアはMOを使っている。ボソボソ。

それ以来、新製品恐怖症になった。
appleから メールニュースが届くたびにドキドキしてしまう。メールを開封する時、明らかに鼓動が早くなるのを感じて自分におののく。iPodを購入したばかりの今はそれが”新しいiPodの登場です”ではないかとヒヤヒヤしてしまう。


本日の1曲
Feel Good Inc / Gorillaz


風に舞う風花

昨日の時点では今夜半から雪の予報だったが、現在の東京23区は空気こそ冷たいが雪は降っていない。
数日前は初春の陽気だった。もう春が来たんだ。お気に入りのコートの出番はもうないのか。ちょっと寂しいな。クリーニングに出さなければならんな。でも近所のミッキーの偽物が壁にデカデカと描かれているクリーニング屋は果たしてちゃんと仕事をしてくれるのかな、などと考えていた。
そして翌日、春物の上着を着て外出し今度は寒さに震えながら帰宅した。

支度をしていて今日はあったかいんだナーと、それが呑気な朝風呂の名残りと気づかずに外気に震えることも多い。天気予報を見ずして、自分の勘だけに頼った結果である。
外出するときに雨が降っていなければ傘は持って出ない。今は駅近くのマンションに住んでいるので多少の雨ならば気にならないし、雨に濡れることは自分にとってそれほど深刻ではない。

今年の冬の東北地方は深刻な雪害に見舞われた。さかんに報道されたその事実を知らず、地元の豪雪を嘆く東北出身の人に「でも・・雪は毎年降りますよね?」と的外れで不謹慎な反応をしてしまい、ニュースを見て自己嫌悪に陥った。
ヘッドラインぐらいはチェックしなくてはいけない。

大学4年生の時、東京にも数十センチの積雪があった。当時卒業制作の真っ只中で、提出直前の1週間はほぼ寝ていなかった。作品の完成は絶望的だったが、中途半端でもそれなりの中途半端を目指さなければならない。友人たちに協力してもらい自室に缶詰になって昼夜作業を続けた。

実は卒業制作展は既に始まっていた。その笑えない状況の中、教室の見張り当番の順番がまわってきてしまった。はっきり言って人の作品を見張っている場合ではなかったが、決められた当番を放り出すわけにはいかない。
目を血走らせ、雪に足を取られながら大学までの道のりを全力で走った。これほど雪を疎ましく思ったことはなかった。

またある年は引越当日に雪が降った。
新居はエアコン取り付け前であったし、木造アパートの大きな窓にはまだカーテンすらついていなかった。荷物もロクにほどいていない状態で、とりあえず毛布と小さな電気ストーブを出し、ネコ氏と一緒に毛布にくるまった。3月末は春ではなかったか?よりによって何故引越日に雪が降るのだ?ガチガチ震える状態で片付けをするどころではなかった。

生まれ育った静岡には雪は滅多に降らない。まだ小学校に上がる前、雪が数十センチ積もり近所の公園に黄色いレインコートを着て雪を見に行った。祖父が撮ったと思われる当日の写真も実家には残っている。それから18歳で東京に出てくるまで、静岡でそれほどの雪景色は見たことがない。

気温が下がると「風花」が舞う。カザハナと読む。それはたんぽぽの綿のようにふわふわしていて地上に漂着するとすぐに溶けてしまうが、静岡の冬の光景に欠かせない。風花はいつも、制服のブレザーの肩に舞い降りては消えていった。


本日の1曲
粉雪 / ASIAN KUNG-FU GENERATION


Drunken Hearted

人々はオノレの愚劣な行動を、度々酒のせいにする。酒が飲めない人にとってはその「酒の勢い」が果たしてどれほどまで威力のあるものなのかがわからない。

酒の勢いがなかったら結婚しなかったし、酒の勢いがなかったら日本は更に少子化が進行するわね、と彼女は言う。普段の彼女の「なり」をみている限り、想像できないような大胆発言である。

そんな彼女は酔っぱらって犬小屋に上半身を突っ込んで寝たこともあるし、爆睡して山手線を何周もしたこともあるらしい。起きてから財布を覗くと丁度タクシー代くらいの金額が減っているそうだ。お見事。
『不思議なんだけど翌日はちゃんとお家のベッドで目覚めるのよ・・・。』と話す彼女は本当に不思議そうな顔をしている。そんな日には決まって目にものもらいができているらしいが、どこで何を触ったか?それは彼女にも解らない。

聡明な顔をした美人でありながら、それは驚くべき有様である。一度彼女にCCDカメラ付きのヘルメットをかぶせてその行動を観察してみたい。

浪人時代のクラスメイトの彼は程なくして予備校に姿を見せなくなった。大学に進学するよりも意味のある思想を手に入れたのかもしれない。
それから数ヶ月してクラスの飲み会が行われた時、彼はあろうことか額に油性マジックで「酒」とでかでかと書いて現れた。(おまけに腕には「デッサンが好き」と書かれていた)
思うに彼はクラスメイトと楽しく話をしたかった。しかし姿を眩ませた時間の隙間を埋めなくてはならないし、いきなり現れて馴染めない可能性だってある。

彼は額の「酒」の文字をうまく反転させるために鏡も使わなければいけなかったはずだ。並々ならぬ気合いを感じさせる心温まるエピソードだ。当日の彼のノリノリの写真を見る限り、その試みは大成功であったと確信する。

そんな自分も学生時代には大勢で居酒屋に集まることもあった。しかし「生ビール○○人分とレモンサワー1つ」のレモンサワー的な人間だった。これまでに飲んだビールを注ぎ合わせてみても、おそらく中ジョッキ1杯にも満たない。
彼等の列伝は充分にこちらを楽しませてくれるけれど、今のところは万年素面である。


本日の1曲
Drunken Hearted / NUMBERGIRL


ブンガクする

東京で一人暮らしを始めてから気付いたことは沢山ある。そのひとつが自分がインドア人間であるということだった。休日一歩も外に出ない(マンションの郵便受けすら見ない)ことも多い「深夜活動型インドア人間」を自称している。家族と暮らしていた頃はお出かけ好きの両親に連れられて半ば強引に街に出たし、第一高校生の放課後は忙しい。

大学生は年間の3分の1が休日である。「そんなに時間があるのも大学生の時だけヨー」と母親が言うのを耳にしても実感が湧かなかった。現在も常に時間に追われるような生活はしていないのではっきりと実感しているわけではないけれど、それでもあの時間の有り様は異様だったと思う。

そう、一人暮らしをしてみて初めて自分は時間を有効に使える人間ではないということに気付いた。休日の自堕落な様には我ながら飽きれる。中原中也の言葉を拝借すれば「怠惰を逃れるすべがない」という状態だ。

もっとも、その時間が全て無駄遣いであるわけではない。大学時代に本を読むことを覚えた。そしていわゆる純文学作品を読みまくった。多少カテゴリに偏りはあるが昼夜問わず読みまくった時期があった。
なにしろ、今まで読書とは無縁だった。ブンガクが恐ろしく面白いということに気が付いてからは青梅街道沿いの書店に入り浸り文庫本を買い漁った。読みたい本はいくらでもあった。

その時期に自分が選出したベスト3を覚えている。夏目漱石の『こころ』、中原中也の『中原中也詩集(大岡昇平編)』、遠藤周作『わたしが・捨てた・女』だった。当時は混沌の波にのまれた精神状態だったため、今よりもブンガクをすんなり理解できていたのではないかと思う。

高校時代の話だ。読書好きの友人のところに図書委員氏がやってきてなにやら取材をしていた。彼女は大江健三郎を愛読しているようだった。
オオエケンザブロー?
休み時間に彼は『個人的な体験』を読んでいた。オオエケンザブロー。
その本の冒頭を読み、鳥が主人公なの!と面食らい1ページでその読書体験は未遂に終わった。大学時代にこっそり読み「バード」は鳥でなく主人公の愛称であることを知った。当時その驚きを口にすれば彼が教えてくれたはずで、おそらく羞恥でその言葉を飲み込んだと思われる。(ちなみに大学時代に読んだ氏の作品の中で最も印象深かったのは『われらの時代』であった)

文学は世界共通である。以前、アメリカ人氏にミシマの『金閣寺』を読んだか?と問われ、『金閣寺』は読んでいないけれど『音楽』は読んだと伝えた。彼は『金閣寺』は読んだが『音楽』は読んでいなかった。ディスコミニケーション状態である。
ことにロシア文学は多くの読書人を虜にしているようだ。実家の応接間には世界文学全集が並んでいたが手に取ったことはなかった。『カラマーゾフの兄弟』や『アンナ・カレーニナ』などは最早誰もが知っている作品である。(難かしそうだナ)と思わせるその作品でも、言ってしまえば「読んでいる人」と「読んでいない人」に分けることもできる。触れたことがあるかないか。完全に物語を昇華していなくても、その作品に触れたことのある人とそうでない人の間にはそれなりの違いがある。

以前友人と話している時「ちょっと本を出すの待って!待って!」と彼にしては珍しくジェスチャーまで交えて力説し出した。彼は読書好きのあまり、出版されている文学作品は全部読みたいらしい。それまでとは打って変わったハイテンションをポカンと眺めたものだ。
最近、久々に本を読もうと思っている。


本日の1曲
ひまわり / 大貫妙子



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2/20 『村上春樹と君と僕


NEWYORK TIME LAG

日本列島の本州すら出たことが無い自分が初めて海外に行ったのが2002年の秋である。当時ニューヨークに住んでいた友人に会う為にJFK空港で待ち合わせをした。

飛行機の先頭へ伸びたタラップを渡り機内へ入る。スチュワーデス氏が並ぶその脇に座面のゆったりとした椅子が配置されている。肘掛けも広い。チケットを見せるとにこやかに「このままお進み下さい」と案内される。
(そうだよな、これがエコノミーのはずがない)とふむふむしながら進むと一回り椅子が小さくなった。立ち止まりチケットを覗き込んでいるとさらに奥へ案内された。
(そうそう、飛行機は縦に長いんだった)と奥へ進むと、座席がぎゅう詰めになった空間に出た。エコノミーシートだ。これなら帰省する時に乗る新幹線こだま号の座席の方がまだ広い。

しかし離陸してすぐにそのエコノミーショックは過去のものとなった。初めてのフライトである。成田空港付近ののどかな景色がみるみる小さくなってゆく。
数時間経ち一度目の食事も終わり、機内の照明は落とされた。乗客は横になったり本を読んだりしてくつろいでいるが、自分は小さな窓から見える景色に釘付けになっていた。

座席前方のモニタで高度と現在位置を確認する。雲の合間から見たことのない外国の街が見えた。眼下に広がるその街ではで会ったこともない人々が生活している。太陽の当たらない球面を移動している時は無気味な闇が広がった。はっきり言って映画を見ている場合ではない。自分は今、世界を俯瞰している。

ロッキー山脈は荒々しく、五大湖は地図帳で見た通りの形状だった。この景色を見てからだったら少しは地理の授業に興味を持てたかもしれない。
仮眠の後の朝食を終えると到着時刻が近付いてきた。マンハッタン!


空港に降り立ち入国審査を終えゲートをくぐる。ユナイテッド・ステイツ!
見渡すとまだ友人の姿は見当たらない。重いスーツケースを携えて壁際に並んだ固いイスに腰掛ける。一緒に搭乗していた人々はひとしきり知人と再会を喜んだあと、皆どこかへ行ってしまった。そして誰もいなくなった。

第7ターミナルはお世辞にも洗練されているとは言えない。そこは時々通り過ぎる人の足音が響くだけでしんとしている。昼間であるのに太陽光が差し込まない空間は蛍光灯にさらされて青白く自閉的な印象を受ける。目の前にはインフォメーションブースがあるが、本来インフォメーションするべき職員の姿はない。モップを持った猫背の清掃夫が通り過ぎ、黒人氏がなにかがなりながらうろついていた。
そのカウンターの上方に円を描く電光掲示板に流れる文字を眺めながら思う。
ジョン・F・ケネディ、ここは本当に君がいたアメリカか?

そうして1時間が経過しようとしていたが友人は来ない。携帯を持たない彼女と連絡を取るのは容易いことではない。自宅に電話をすればルームメイトがいるかもしれないと思いついたところで公衆電話の使い方もわからない。第一、到着時間に彼女が来ないということも考えにくい。冷たく固いベンチに座って待つ。

そして暫くして向こうから友人がやってきた。アメリカ合衆国は10月の最終週に時間を1時間早める。
そう、サマータイムを解除する。東京からやってきた訪問者とニューヨーカーの時間の認識も1時間のラグがあったのだ。
そのように、アメリカに到着して最初の1時間は合衆国によって失われたなんとも奇妙な1時間だった。


本日の1曲
A Praise Chorus / Jimmy Eat World


新宿アンダーグラウンド

その日もいつものカフェでサンドウィッチを食べた。細長く少し固めのパンに、クリームソースで蟹をあえたものとスモークサーモンが挟まっている。毎日のように通うカフェのいつもと同じサンドウィッチだ。
仕事に戻って1時間ほど経ってから右手のリングが無くなっていることに気が付いた。お手拭きを使う時、無意識のうちにリングを外す癖がある。
きっと、サンドウィッチの皿の下になったリングに気付かずに店を出てしまった。

店に戻ったが、1時間前のゴミはもうここには無いと言われた。あまり広くはないその店舗には満足なゴミ置き場が無いようだ。
なんとか諦めをつけようと妙な冷静さでエレベーターに乗り25階へ上がる。
しかし仕事が手につかない。
今まであまりリングを身につけなかった自分が気に入って購入した8石のターコイズは、このビルのどこかのゴミ集積場にまだあるのかもしれない。

再度店に行きゴミをどこに運ぶのかを尋ねると、もうトラックが運んでいったと若い店員は頼りなく苦笑いするばかりだ。残念ながら彼にとっては他人事であった。その対応に見切りをつけビルの警備室に駆け込み、インターホンで警備員を呼び出した。
時刻は夕方過ぎ、地下のゴミ集積場に案内してもらった。

体積の広いエレベーターで地下2階へ降りる。正面の管理室には既に1階の警備室から連絡が入っていたようで事務所へ通された。机に座っていたスーツ姿のお兄さん氏に事情を説明すると彼は少し上方を見ながら立ち上がり「とりあえず見てみましょうか」と友好的に頷き、ゴミ集積所に向かって歩き出した。

その空間の広さもさることながら、次々と運ばれてくるゴミの量も相当なものだった。委託している清掃業者も何社かあるらしく、その会社ごとに与えられた倉庫がいくつも並んでいた。
巨大なオフィスビルのゴミ集積場はやはり巨大なのだ。カフェから出たゴミを判別するだけでも大変な作業なはずで、勢いで来てしまったことを後悔した。

案内してくれたお兄さん氏が見当をつけた場所へ行き、ゴミ袋に片っ端から手を突っ込んだ。突っ立っていても仕方がない。
「レシートの時間を見るといいですよ」と彼もスーツの袖を捲って一緒になってゴミの袋に手を突っ込む。「エンゲージリングかい?」と周りで作業中のおじさんがこちらに目をやる。そして1時間ほどゴミを漁り続けた。

リングは見つからなかったが、彼の助力を得て諦めがついた。
同じエレベーターで1階へ戻る時、倉庫で会ったひとりのおじさんが心配そうに声を掛けてくれた。コーヒーの出がらしや煙草の吸い殻、マスタードのついたビニールに突っ込んだ手は、何度洗っても臭いがとれなかった。

数日後に店から電話があり、リングは見つかった。
しかし、リングが見つかったのはこの話のおまけのようなものである。
明らかに動揺して饒舌な自分に付き合って、直接関係のないゴミに手を突っ込んでくれた彼に感謝している。


本日の1曲
Pretty, Pretty Star / Billy Corgan