12月 30th, 2006 by taso
高校生の時、アルバイトをしたいと家族に相談すると、当時駅前にあったラーメン屋のマスターに話をつけてくれた。父親の長年の友人であるマスターが一人で切り盛りする小さな店だった。
アルバイト初日、昼の時間になると次々と客がやってきた。接客をし、お金を扱い、食べ物を運ぶ。店の運営を自分のような高校生に任せてよいのかと不安になった。
そんな「重大な」ことをしているにも関わらず、仕事の説明らしきものはほとんどなかった。不安な気持ちのまま最初のお客さんがやってきて、マスターは淡々と料理を作り始めてしまった。ラーメンの汁をこぼさないように運び、省略して呼ばれるメニューの名前も覚えた。
そのほかにいくつかアルバイトを経験したけれど、その度にろくに説明も受けないまま勤務が開始された。
社会に出るということは突然放り出されることだった。充分な説明を得られないまま、最善の方法を自らが考えなくてはならない。その時、今まで自分がどれだけ加護されて生きてきたかということを思い知った気がした。
上京する時も、大学に入学した時も、初めて勤務先に出社した日も。いつもその感覚が蘇ってきた。
今夜友人から携帯にメールがあった。そこには”今度家族が増えるから・・・”と事も無げに書かれていたが、それは初めて知る彼女の近況だった。そういえば元同僚の彼女とは昨年の夏から暫く会っていない。
職場でメールを見たあと、帰り道に彼女のことを考えていた。こちらがまだ呑気な大学生活の最中に彼女と知り合った。彼女はアルバイトをしながら学費を捻出し、1個100円のキャベツでおかずを作っては、職場に弁当を持参していた。こつこつと勉強をし、国家試験を突破してハードな仕事に就き、長く付き合っていた彼氏と昨年結婚した。
どれもが人生の転機というべき出来事だった。彼女に起こった出来事の全てを知っているわけではないけれど、知り合ってからの5年半で、彼女の生活は刻々と変化しているようだった。
彼女はその間何度も「放り出されて」きたのだろう。現実感が湧いてこないまま予測できないほんの少し先の未来を選び取ってきたはずだった。それがよい変化であれ、意図しない変化であれ。
自分は、何をしていたのだろう。
環境が変わることを大袈裟に恐れ、生活を維持することを第一に考えてきた。たった5年半の彼女の生活を反芻していると、ほんの少し先の変化にすら怯えていた自分がひどく情けなくなった。
新たな一歩を踏み出す時はそれなりの覚悟が必要ではあるけれど、適度に肩の力を抜かなくては乗り切れない。踏み出した一歩はきっと面白い世界を見せてくれる。
帰宅してから自分に言い聞かせるようにそんなことを思っていると、ラーメン屋の狭くて細長い店内を往復していた頃の自分の姿を思い出した。
本日の1曲
Somewhere There’s A Feather / odani misako・ta-ta
12月 28th, 2006 by taso
歩く度に『お疲れさまです!』と喋るスニーカーがあったらいい。
俯き加減で、伏せ目がちに歩くとそれっぽく見えるよ。
すれ違いざまに押せる『お疲れさまですボタン』を首に下げるのはどう?
あ、でも、あまり仕事していない上司には押してはいけないよ。
ははは。
毎日毎日、数百人の同僚と過ごしていると、挨拶がちょっと面倒になる。が、挨拶をやめるわけにはいかない。しかし一日で100回以上は繰り返される挨拶には少々マンネリを感じてしまう。
iPodの再生を停止し、片耳のイヤホンを外す。出勤してオフィスのエレベーターホールに到着した時から、挨拶をする心構えが必要になる。見知った顔の同僚達にはもちろん、時にはフロアボタンを確認し、同じ会社で働く人にも会釈をする。
中には全く挨拶をしないポリシーの人もいるが、会う人会う人全員に挨拶をするせいで、なかなか席に戻れないお人好しもいる。丁寧にお辞儀をしまくる人は、10秒前に顔を合わせたのも忘れているようだ。
『お疲れさまです。』というのにも飽きて『こんにちは。』や『おはようございます。』に変更したりするが、油断していると無意識に『お疲れさまです。』の口になってしまう。何年も続けてきた習慣はあなどれない。
挨拶をしないと決めてしまえば良いのかもしれないが、長い廊下をすれ違うまでの間、なんとなくソワソワしている相手の動向を見ると、お互い様なのだと納得したりする。
人に出くわすと条件反射で『お疲れさまです。』と言ってしまう。相手の顔を確認もせずにその言葉を発すると、実は相手がよく知った同僚だったりする。関係にそぐわない少々かしこまった挨拶口調に、気のゆるみを見透かされたような気分になる。
仕事が終わって帰宅する時、一日中惰性で発してきた『お疲れさまです。』という言葉はやっと自分に向けられる。
(お疲れ!自分!)と意気揚々と入店した居酒屋の廊下で店員氏に出くわす。そしてまたしても条件反射で『お疲れさまです。』と言ってしまう。
本日の1曲
土星にやさしく / ザ・クロマニヨンズ
12月 27th, 2006 by taso
いつもブログをご覧頂きありがとうございます。
この度(と言ってももう1ヶ月以上前の話ですが)、ドメインを取得しブログのアドレスが変わりました。
以前のアドレス(http://livingtokyo.jugem.jp/)でブックマークしてくださっている方はお手数ですが新しいアドレスhttp://living-tokyo.com/に変更をお願いいたします。
(2006年12月以前にブックマーク登録していただいた方は旧アドレスの可能性がございます)
今後ともリヴィング・トーキョーをよろしくお願いいたします!
taso拝
12月 25th, 2006 by taso
ついこの間『夢は何ですか?』と問われ、思わず言葉に詰まってしまった。それはこれまで幾度となく繰り返され、苦もなく答えていたはずのありふれた質問だった。
若者にとって「夢」という課題はしばし好まれる。まだ十代だった頃、友人達が集まるといつしかその話になった。そこで具体的に夢を述べることが出来ない人間は異質だった。
ある彼女はいつも『良い大人になりたい。』と言った。皆が具体的な職業を列挙する中で、彼女のその「夢」は異質だった。そこに居た皆は横槍を入れた。
何しろ皆の夢は具体的だった。画家になりたい。グラフィックデザイナーになりたい。代理店でCMを作りたい。彼女のそうした返答が望まれていないのは明らかだった。それでも彼女は少し考えてからいつも同じ台詞を言った。
発言の真意を見出そうとして、彼女の表情をいつも窺っていた。大勢に囲まれると仕方なく職業らしきものをあげたりしたが、時折首を傾げる仕草を見せてなんだか納得していないように見えた。
解りやすい夢を列挙する若者たちにとって、彼女の発言は掴みどころがなかった。「夢」という言葉を超越した彼女の強い意志を感じもしたが、友人の自分ですら「良い大人」を上手くイメージすることは出来なかった。それにその頃はまだ大人という存在は漠然としていて他人事のように思えた。
これから我々を出迎えるであろう心躍るイベントからいくらでも夢はすくい取れる気がしていた。(楽しい大学生活や、素敵な恋愛を信じて疑わなかった)
年々「夢」という言葉が自分の中で具体性を欠いている。夢があるのは良いこと、やりたいことがあるのは良いこと、いつもそう言われてきた。
自分が本当に望んでいるものや大切にしたいものの輪郭は日に日にはっきりしてくるのを感じる。なりたい自分を思い描くことも出来る。しかしうまく言葉に出来ない。
帰り道、夢を答えられなくなった自分が信じられないでいた。そしてかつての彼女の発言を思い出した。『良い大人になりたい。』もしかするとあの頃の彼女も同じような心境だったのかもしれない。
表現することで人間とコミュニケーションを取りたい。その手段は何であれ。
本日の1曲
タイトロープ / ASIAN KUNG-FU GENERATION
12月 24th, 2006 by taso
練馬区に住む友人氏はユナイテッド・シネマとしまえんがお気に入りみたいだった。大きくて綺麗で割引もあって、なにより空いているらしい。確かに新宿や池袋から近いものの、わざわざ「練馬の」映画館に足を運ぶ人は少なそうだ。
練馬方面に伸びる環状七号線を北上すれば、我が家からも自転車で30分以内で辿り着けるはずだった。
まずは予定通りに夜の環七を北上。大和陸橋を通過。引越の時最後まで候補に残ったマンションを懐かしく見上げる。目の前の歩道橋にのぼり車道を見下ろす。
再度自転車にまたがり、西武新宿線野方駅に到着。線路を越え商店街を通過、新青梅街道に出る。都立家政駅周辺を散策してさらに北上すると目白通りにぶつかる。
人通りの無い歩道とカーブを描く広い車道。時折高架を西武池袋線がゴォーと通り過ぎていく。好みの景色を立ち止まって眺める。
練馬区はなかなかフォトジェニックな街であることが判明した。
地下道をくぐり、としまえんに繋がる道を真っ直ぐに進む。地図で見た町名を確認しながら走っていると突如左手にユナイテッド・シネマとしまえんが現れた。
実はこの時既に上映時間を過ぎていた。開演時間を調べてあったものの、初めての土地の景色にはしゃぎ過ぎたせいで到着時間をオーバーしてしまったのだった。
それにしても!立派な映画館!
建物内をダウンライトが照らし、吹き抜けのロビーからは階上へエスカレーターが伸びている。
最近の嫌煙傾向にも慣れ、そそくさと外へ向かっていると立派な「SMOKING ROOM」を発見する。木製のベンチやライトはモダンなインテリアで、暖房もしっかり効いて空間も広い。喫煙所にあるまじき贅沢な空間だった。
次の回まではあと2時間。閉園日のとしまえんを見に行くことにする。
真っ暗な入場ゲートをぼんやり眺めていると、目の前の豊島園駅を降りた人々はするするとゲート脇の道へ消えていった。どうやら通り抜けができるようだ。彼等の後をおそるおそる歩いているといつの間にか人影は消えていた。
すると目の前には巨大なウォータースライダー、”ハイドロポリス”が姿を現した。真っ暗でしんとした空間に不気味な白いチューブが上空に渦を巻いている。
プールの水面はどす黒く底なし沼のようで、わずかに浮かび上がった白いチューブは視界を覆い尽くした。まるで遊園地の廃墟を見ているかのようで、すぐに道を折り返した。休園日のとしまえんは夜来るところではなかった。
カフェのような映画館のロビーで書き物をしながら『マリー・アントワネット』の上映時間を待つ。0時近くに終演し、空いている車道を軽快に走り帰宅した。
本日の1曲
I Still Remember / Bloc Party
12月 24th, 2006 by taso
公園の入り口には真っ黒なSLがどっしりと構えている。遊具に改造されたそのSLの先頭には「D51」と書かれた重厚なプレートがついていて「D51(デゴイチ)は有名なSLだっけだよ」と父は教えてくれた。
実家の隣にある通称「SL公園」には遊具がたくさんあった。ブランコに滑り台、カラフルなアスレチックやコンクリの迷路など。夏休みのラジオ体操は決まってそこで行われたし、避難訓練や町内の運動会などで常に住民の中心にある公園だった。
幼い頃、ひとりで公園に出掛けてはSLのてっぺんに登って持ってきた駄菓子を食べた。上から見ると視界が違う。ソーダ味のアイスの棒に続けてアタリが出たことがあった。そしてその度に駄菓子屋に行きアイスを貰い、またSLの上に登って食べた。それを4回も繰り返したのであった。そうして子供達が駄菓子を持って集まるために、SL内のあちこちに駄菓子の袋が散乱していた。
公園の後方、国道一号線のすぐ手前には児童センターが併設されている。それはコの字をした煉瓦色の建物で、1階の両側は職員が待機する事務所とトランポリンや鉄棒などが置かれた遊具スペース、2階は小さな図書館と会議室になっていた。そこで沢山の絵本を読んだし、竹馬やフラフープで遊んだ。
建物の上部には半円形の銀色のドームが乗っかっている。普段はロープが張られているそこへ上る階段も、天体観測会の時だけ開放された。黒いフェルトが敷き詰められた狭い階段を上がると屋根裏部屋のような真っ暗な空間に出た。半円形ドームの内側だ。真ん中に天体望遠鏡が空に向かって突き出している。
何といってもこの日ばかりは堂々と夜に外出できた。夕飯を食べた後に近所の友達に会えるのも嬉しかった。普段は夕方に閉館する児童センターに夜入れるのはこの日だけで、「しゅうごうじかんは8じです」と掲示板に開催の「おしらせ」が貼り出されるとわくわくしてその日を待った。子供達とその親は代わる代わる望遠鏡を覗いては歓喜した。
1階の事務所には常に2人の職員が居た。たまに人が入れ替わって新しい世話役がやってきた。毎日のように通う自分はその事務所の「常連」だった。灰色のスチールの机の下には無数の紙芝居が積まれていて、床にぺたんと座ってはそれを眺めた。
それまでいた職員は中年のおじさんやおばさんばかりだったが、ある日めがねをかけたお兄さんが配属されてきた。いつも白いポロシャツを着ていたお兄さんは片方の足がなかった。事務仕事中には時々義足を外して見せてくれた。
ある日周りに誰も居ないのを見計らって彼の飲みかけのお茶に修正液をたらして混ぜた。その後あっさりと悪事はばれ、怒られた。(勘が鋭いな)と子供ながらに感心したのだが、どうしてばれてしまったのかは今でもよくわからない。
今年の正月に帰省した際にその公園を訪ねると、プールが無くなっていた。家族に聞くともう何年も前に撤去されたそうだ。毎年実家に帰省していながら、自分が思っていたよりも長い期間この公園に足を踏み入れていなかったことに気がついた。
平坦なコンクリの地面を靴底で撫でるように歩いた。プールの中でこっそり用を足した自分の尿も分子レベルで残っているかもしれないな、とどうしようもないことを考えた。
公園のシンボル的存在だったSLの周りにはロープが張られていて立ち入り禁止になっていた。話題の有害物質がその車体に使われていたらしい。
階段を上って荷台部分を覗くとあの頃と変わらないどぎつい赤のペンキが剥げかかった床が見えた。そしてあの頃と同じように駄菓子の包み紙がたくさん落ちていた。
現在はゲートボールをしたり、夏には盆踊り大会が催されたりしてそれなりに活気があるようだ。祖母はゲートボールを始めたようだった。そしてこちらが「ゲートボール」という度に「グランドゴルフ」と訂正してくる。祖母はきっと老人の象徴のようなその呼び名に抵抗を感じているのだ。一度その「グランドゴルフ」を見に行ったことがあった。
一眼レフをぶら下げて現れた孫の姿を見つけ、そこにいた30名程に声を掛け記念撮影をしてくれと言う。「はーい、取りますヨー」と片手を上げてからシャッターを切った。おばあちゃんもその仲間達もすごくニコニコしていた。
久々に歩いた冬の日の公園は、あの頃の輝きは無かった。20年前と変わらない遊具の数々はどれも覇気が無かった。あんなに大きかった滑り台も高いコンクリの丘も、驚くほど小さく、素っ気ないほど色彩は単調に褪せていた。
今でも地域の人々にはたったひとつの公園であり、賑やかな小中学生の通学路であることには変わりはないのだろう。けれども現在の自分がその公園の存在から遠く離れてしまったのを感じて少し寂しくなった。
本日の1曲
ミラーボール / クラムボン
12月 23rd, 2006 by taso
高校生の時、『アルバムの4曲目は名曲説』があった。CDラジカセで毎日音楽を聴いていた感覚だと、2曲目あたりにヒットシングル、4曲目でアルバムの要となる名曲が収録されているパターンが多いように思えた。
それを聞いた友人氏はひとしきり感心していた。彼は後日『おお、やっぱり4曲目だ!おおー、すごい!』と興奮していた。(ように思う)
近年音楽を聴く環境が自由度を増すに連れて、アルバムの収録曲順への意識は薄れつつある。アーティスト達が考え抜いた曲順も、パソコンを使えばあっさりと編集できてしまうからだ。
アルバムに収録されている楽曲はデジタル音楽配信では1曲単位で購入できる。もう欲しい曲目当てにわざわざアルバムを買う必要も無い。そうして(あのCDの何曲目!)という感覚は日に日に薄れてくる。
我が家でもiPodは頻繁にオーディオシステムに接続されている。iPodのプレイリストにお気に入りの音楽を放り込んでおけば、気に入らない曲をスキップする手間も省けるし、いちいちCDを入れ替える必要も無い。デジタルミュージックの便利さは家庭にも手軽に持ち込むことができる。
友人にCDを貸すのも随分と手軽になった。曲データは手元に残り、CD自体を手放しても同じように音楽を楽しめるようになった。貸したがために聴きたい時にCDが無い!という状況も起こらなくなった。所有しているCDの音源を全てアイポッドに取り込めば、コンポの上も散らからない。
iPodで再生順序をシャッフルにすれば曲順はランダムに再生され、幾度となく聴いたアルバムもこれまでとは違って新鮮に聴くことができる。しかしその新鮮な方法はいつの間にかスタンダードになって、アルバムから解体された音楽に慣れていく。それに慣れてしまうと、個々の楽曲がどのアルバムに収録されているかの認識すら希薄になってしまう。その証拠に収録曲順のイントロがなかなか思い浮かばなくなった。
『ライブでも、できることならアルバムの曲順そのままに演奏したい。』アーティスト達は度々こういう発言をする。それ程に曲順には思い入れのあるものなのだ。リスナーによって解体され続け、アルバム一枚の重みが失われていく。
だから最近「CD」を聴いている。
ひとつひとつのアルバムのカラーを感じながらじっくり一枚を聞く。アルバムの余韻に浸っていると突然始まるシークレットトラックに体がびくっと動く感覚も久し振りで、悪くない。
本日の1曲
All Apologies / Nirvana