9月 23rd, 2007 by taso
この映画の存在を知った当初真っ先に沸いたのは、なぜフィンランド?という疑問だった。しかし作品を観ているうちに、その答えらしきものをじわじわと感じることができた。
それにもしこの作品が、日本のどこかの街で撮られたものであったなら、少々趣旨の違った作品になったのではないかと思う。
3人の日本人女性が、それぞれの理由でフィンランドに集まった。ヘルシンキで定食屋を営むサチエ(小林聡美)は、なかなか客の集まらない「かもめ食堂」で毎日皿を磨いている。彼女は『素朴だけど美味しいもの』をフィンランドの人に振る舞うためにここにやってきた。
サチエ:さて。朝一番白いごはんと一緒に食べたい焼き魚といえば?
ミドリ:・・・しゃけ?
サチエ:ほら!ね?日本の人もフィンランドの人も「しゃけ」好きなんですよ。
ミドリ:なるほどー。
サチエ:なーんて、たった今思いついたコジツケですけどね。
ミドリ:・・・ハハ。
3人の中でフィンランド語を話せるのはサチエだけ。食堂を手伝うミドリ(片桐はいり)も、マサコ(もたいまさこ)も、接客では日本語を使う。実はこれこそが『かもめ食堂』という作品の要ではないかと思う。
相手の話す言葉がわからなくても、自分の話せる言語に心を込める。そんな風に人と接することが出来たなら、意外とあっけなく心の通ったコミュニケーションが成立してしまうのかもしれない。物語に自然に入り込んでくる異国の空気は、登場人物たちの人となりをいっそう際立たせていた。
そんな食堂の空気を、この作品が発する音がよく表している。
食器が重なり合う音や、店内を行き来する靴の音。日常会話の音量の登場人物たちの会話。サチエの発する『Kiitos!(ありがとう)』も心地良く響く。(それは背後に控えているであろう撮影クルーの存在をも感じさせないのだ)
自分の名前を漢字で書いてもらい歓喜する日本アニメオタクのトンミ・ヒルトネン(豚身昼斗念)青年や、フィンランド発祥の「エアギター」の話題が登場するあたりは、なんとも今風の味付けであるし、なにより個性的なキャストが醸し出すちょっとした可笑しみは、もはや期待通りというべきだろう。
彼女たちが作り、テーブルに出された “焼き魚” や ”おにぎり” がとても美味しそうに見えるのは、それが丁寧な所作の延長線上にあるからだと思う。(実際、映画を観た後で、誰かの作った料理を食べたくなり、定食屋へ駈け込んだほどだった)
ボトルにふきんを添えて飲み物を注ぐ。
キッチンの汚れは気付いた時に拭く。
菜ばしを丁寧に揃えて置く。
食器をきちんと整頓する。
そして、丁寧に人と接する。
『かもめ食堂』から丁寧な暮らしを感じれば、自分の生活がいかにそこから離れているかに気付くかもしれない。容易いようでなかなか叶わない “丁寧な暮らし” に価値をおける人なら、きっとこの作品に心地良さを感じるはずなのだ。
本日の1曲
クレイジーラブ / 井上陽水
——————————-
『かもめ食堂』に続く、荻上直子監督作品『めがね』は本日公開
▼『めがね』
脚本・監督:荻上直子
出演:小林聡美 市川実日子 加瀬亮 光石研 もたいまさこ 薬師丸ひろ子(「めがね」の友だち)
エンディングテーマ:大貫妙子
テアトルタイムズスクエア、銀座テアトルシネマ、シネセゾン渋谷ほか全国ロードショー
9月 5th, 2007 by taso
これを読んでくださっている全国の皆様にはほとんど関係ない話だけれど、このたび高円寺駅北口の、とあるコンビニエンスストアが閉店する。
高円寺阿波踊りで街中が盛り上がっていたある日の夜、書店を目指して自宅を出たものの、祭りの列が通りを封鎖し車道の向こうに渡ることができなかった。仕方なく目の前にあるコンビニに入店する。
その店はなんだか様子がおかしかった。
祭の見物客が店内に押し入り、トイレのドアの前には不自然なほど長い列ができていた。しかし様子がおかしいのは、店内が混雑しているからではなかった。この店には明らかに商品が少ない。ついでに言うと店員もなんだか元気がない。
普段ならところ狭しと雑誌が重なり合っているラックは「から」で、祭の見物客達が無遠慮にもたれかかって通りをのぞき込んでいる。普段ならそれを注意すべきである店員達がそれを黙認しているのも不思議だった。コンビニの店主は店の前でたむろする若者や、無断で家庭ゴミを捨てていく通行人を口やかましく注意するものなのに。
陳列棚には「店内全品半額」という貼り紙がされていた。
日用品が並ぶ陳列棚はスカスカで、黄色いパッケージの日焼け止めがひとつ転がっているだけだった。菓子のコーナーにはかろうじて商品が残っていたけれど(在庫が残っているのだろう)、こんな時はポテトチップスの袋すら味気なく見える。
レジには少女と、その父親くらいの歳の男性が並んで立っていた。二人の視線は目の前の空間に向けられていて、背後には一年に一度の祭りの日に商品を用意できない後ろめたさが漂っている気がした。
皆さん、トイレだけでも使ってやってください、
クーラーも、効いているんですよ、と。
一人暮しをしているとどうしてもコンビニの世話になることが多くなる。 電球は21時過ぎに切れ、キャットフードは時間のない朝に無くなる。
コンビニは便利だ。でもちょっと高い。半額のコンビニに入店したのは初めての経験だった。コンビニは便利なだけの店で、今まで半額のコンビニがあったらいいなんて思ったこともなかった。
差し出したいくつかの電球に少女がバーコードを通すと、普段通りの金額が弾き出された。やはり何かの勘違いだったと一息つくと、少女は目の前の大きな電卓をつまらなそうに叩き、数字はあっさりと半分になった。
その昔、父親は『便利は金で買うものだ』と格言めいたことを言った。それが正しい理解なのかは別として、コンビニエンスストアで買い物をする時にその言葉をよく思い出す。それは便利が半額で買えたちょっと奇妙な夜だった。
本日の1曲
パレード (’82 remix) / 山下達郎
8月 9th, 2007 by taso
カリフォルニアとの時差を考えると、明朝には世界中に確かな情報が出回っているはずだった。ウェブサイトの ”準備中” の画面でこんなに心が踊ったことが、未だかつてあったろうか?
昨深夜、Apple Storeのサイトがとうとう準備画面に切り替わった。どうやら新製品発売の噂は「今度こそ」本当のようだった。
Appleは米国時間8月7日、カリフォルニア州クパチーノの本社で開催されたイベントでついに新型「iMac」を公開した。iMacのデザインがリニューアルされるのは、2004年の10月以来のことだ。
Apple社のプロダクトは、マイナーチェンジを繰り返す間も何年間かは同じデザインで統一されている。そしてそのほとんどがとても印象的なデザインであるけれど、とかくiMacはAppleらしいデザインを体現したモデルといえる。一時期の可愛くて手軽なイメージは薄れ、プロの仕事に応えられるコンピュータに成長した。
Appleファンにとって、スペックのアップグレードは勿論、デザインチェンジは重要な問題である。
新しいiMacの登場は、世界中のデザイン事務所を景色が変えると言っても過言ではない。歴代のiMacがそうであったように、デザイン関係のみならず映画や雑誌の気の利いたインテリアの一部として登場するはずなのだ。(これは一大事だ!)
そんな重要な問題であるのにも関わらず、Apple社は新製品の発表前に一切の情報を明かさない。プレスリリースと商品の発売日が同じタイミングでやってきて、何の商品が発表されるかは、実際にCEOが語り出すまでわからない。
そんなわけで、Appleの製品に関するうわさ専門のサイトは世界中で運営されている。とりわけ有名なMacRumors.comやAppleInsider、Think Secretなどは、コアなMacファンにはお馴染みのサイトであろう。
そこではCEOが登場するイベントの開催が告知されるたびに、『今度は何が発表される?』という期待と、幾多の仮説が発信される。「信頼できるソース」からの情報が書き込まれ、真意の程が定かでない画像やら動画やらが出回り、店頭の商品が品薄になるたびに、噂は世界中を駆けめぐり、Macファンは盛り上がってしまう。
このところずっと我が家のMacは調子が悪い。Macが起動しないという最悪の不便を経験してからというもの、Macの電源を落とせなくなってしまった。そうして昨年あたりから、インターネットで検索をかけては発売時期に関する情報を集め、一部の人々と騒ぎを共にしてきた。
___そろそろiMacのニューモデルが発売されてもよい頃だ。
今年に入ってからはそんな確信めいた記事が目立つようになり、毎月のようにiMacのニューモデル発表日が日付指定で予測されては過ぎていった。(こんな時はiPhoneの発表すら喜ばしくない)
ある種のフィーバーは大多数の関係のない人々をよそ目に巻き起こっているものである。
本日の1曲
Debaser / Pixies
7月 30th, 2007 by taso
フツー・に【 フツーに 】
1. 《「フツー」は「普通」の意。多くあとに肯定的な形容詞をともない、肯定を強めている状態。若者言葉の一種。》
言うまでもなく。常識的に。「あの人はーにかっこいい」
ちょっと軟派な会話と、はにかんだ笑顔。細い身体を包むシンプルなストリートファッション。
そんな彼の ”なり” を回りは結構注目している。ちょうど音のするほうに猫が耳をそばだてるみたいに、その存在を認識している。
昼下がりの定食屋にて、我々は同僚の青年氏を『社内で抱かれてもいい男は?』とくだらぬ質問で問い詰めていた。
『〜さんは?』『じゃ、〜君は?』というこちらの提案にも首を降り続け、ひとしきり『違うナァ・・・アレはだめだ。』などと失礼なことを言っている。青年氏、本気で選びにかかっているようだ。山かけトロロ丼をこねくり回している。
そのうち各自が黙々と食事を再開した。箸と器のカチャカチャとした音だけが響く。
『・・・やっぱ・・・あの人なんじゃないの?』
しばらくすると青年氏はこちらの顔色を窺うように言った。
我々はこう吐き捨て、青年氏の解答に失望した。
『あの人はフツーにかっこいいジャン・・・!』
その相手とはいわずもがな、冒頭に登場した彼である。青年氏は忠実な犬みたいな上目遣いでこちらを見ている。お決まりの回答を提出してしまった後ろめたさすら感じさせながら。
この場において彼の名前が出ることは何の驚きも与えない。『えー!』とか『なんで!?』というワクワクした会話すら続かない。彼は「わざわざ言うまでもなくかっこいい」からだ。我々はサッサと別の解答を促し、青年氏の模範解答はすぐに追いやられてしまった。
そんな「フツー」についてちょっと考える。はからずもフツーの解答をしてしまった青年氏だって『あの青年氏、フツーにかっこいいよネ。』と言われている可能性だって、無くはない。それを言うと『聞いたことない?ないの?』とせっつかれたが、青年氏に対するそのような賛辞はまだ耳にしたことがなかった。フツーというのは結構難しいのである。
確かに、複数人が瞬時に同意するかっこいい男はなかなかいない。
かっこいいと言われるのはやっぱり嬉しい。あらかじめ選択肢から除外されようが、その場の会話が発展しなかろうが構わない。フツーにかっこいいというのは、結構貴重なものなのだ。
本日の1曲
A Certain Romance / Arctic Monkeys
7月 19th, 2007 by taso
これまでの読書遍歴を明らかにするなら、それは見沢知廉抜きでは語れない。
初めて読んだのは大学生の頃で、『囚人狂時代』と『母と息子の囚人狂時代』だった。(新潮文庫刊:現在は絶版 ※2013年6月追記:リンクはAmazonの文庫中古品)
これはかつて、彼が殺人罪で刑務所に収艦されていた12年間の記録である。
全国指名手配ののち、出頭。当時23歳の見沢氏は少年刑務所を経て、凶悪犯や長期刑囚が送られる千葉刑務所に収監された。それゆえに、世間的に名の知れた有名事件の犯人と遭遇することもあり、作品中にもそういった”有名人”は度々登場する。この2冊は、刑務所の中の(時にコミカルな)ルポタージュと、言えなくもない。
しかしそこで、孤独な囚人の閉ざされた生活を知った。冷静で客観的なルポタージュの合間に、普通に生活することへのどうしようもない憧れがふと現れる。特に見沢氏は、刑期の多くを問題囚が放り込まれる「厳正独房」で過ごしていた。
大学生だった当時は、幸福な若者の「絶望!絶望!」という連呼も聞き飽きていた。見沢氏が独白した生々しい絶望感はとてつもなく崇高なものに思えた。
見沢氏はインテリであり、相手を論破する膨大な知識も持っていただろうが、刑務所とはそんな高尚なものが通用するところではない。看守が黒と言えば、白いものでも黒になる。
『母と息子の囚人狂時代』に収められたエピソードの中に、特に印象的だったくだりがある。
刑務所内では、見沢氏のような政治犯は特に厳しく監視されるらしい。組織に連絡されてはなにかと不都合があるため、手紙の閲覧も念入りに行われていたようだ。
そこで見沢氏は、母との手紙に一工夫することを思いつく。手紙に暗号を織り交ぜ、刑務所内で手に入る限られた材料を使ってあぶり出しを用い、宅下げ(用済みの荷物を自宅へ送り返すこと)の書籍の背表紙を剥いで秘密文書を潜ませたりもした。
しかし問題は、その暗号や細工を母に知らせる方法がないことだった。面会室では同席した看守が会話の一字一句をメモしている。全ては母と息子の勘にかかっているのだ。
それでも母は暗号を解読し、あぶり出しにまで成功する。『なんとなくあぶってみたら文字が出てきた。』という母の勘には読者のみならず、見沢氏本人も驚愕したようである。
刑務所では、先の見えない閉塞感から発狂してしまう囚人もいる。夜の闇をつんざく奇声を聞きながら、必死に正気を保とうとする。
劣悪な環境と容赦ない体罰の中、見沢氏は獄中で小説を書き続ける。もはや文学だけが正気を保たせてくれ、それを受け取った母は手が動かなくなるまで原稿を清書し続けた。
発狂寸前の息子と、それを支える母。そうして母と二人で書き上げた小説「天皇ごっこ」は新日本文学賞を受賞する。その数カ月後、見沢氏は出所した。
出所後は、長期刑特有の拘禁症と戦い入退院を繰り返していたようだった。サブカルチャー系雑誌での特集や連載、トークショーへの出演。「2ちゃんねる」に実名で書き込む見沢氏を ”目撃” したこともあった。
ニューヨーク同時多発テロが起こった際は、直後から氏のホームページでは活発な議論が交わされていた。政治的背景を含む問答はほとんど意味が判らなかったけれど、興奮を抑えた文体ながら饒舌な見沢氏が印象的だった。
2005年初秋、インターネットのニュースで彼が投身自殺したことを知った。その時、モニタに向かって「あ」と大きな声をあげた。
とうとう一度も姿を見ることもなく、彼は逝ってしまった。初めて著作を読んだ時から、今の日本で絶望を語ることのできる数少ない小説家のひとりだと思ってきた。ぶっきらぼうな言い方ではあるけれど、自分の中には「死んだら悲しい他人」という存在がある。自分にとって、見沢氏は紛れもなくその一人だった。
本日の1曲
The Crowing / Coheed & Cambria
——————————————————–
▼ 見沢知廉プロフィール(一部『日本を撃て』より抜粋)
1959年、東京都文京区生まれ(本名高橋哲央)。裕福な家庭で、幼少時代から英才教育を受け早稲田中学へ進学。同高等部在学中、演壇で教育批判を行ったのち全教壇の破壊行為を行い、退学。のちに暴走族、新右翼過激派活動家の道へ。同時期に一家は離散する。
79年東京サミットに決起しない右翼に失望。80年より新右翼へ転向。82年米、ソ、英の関係施設への砲火や火炎瓶ゲリラを指揮。同年スパイ粛正事件で逮捕。殺人罪で懲役12年を言い渡される。
刑務所内では反抗の限りを尽くし、94年獄中で書いた小説『天皇ごっこ』が新日本文学賞を受賞。同年秋満期出所。
96年、獄中記『囚人狂時代』がベストセラーに。以降は政治活動を休業し、文筆活動に専念する。97年には『新潮』巻頭の『調律の帝国』が三島由紀夫賞候補になる。
05年自宅マンションより投身自殺。享年46歳。
現在はその著書の多くは絶版になっている。
▼ 見沢知廉公式サイト[Web Chiren]
※現在は閉鎖(2012年9月追記)
7月 11th, 2007 by taso
そろそろ趣味・特技の欄に 「家具の組み立て」と書いても許されるのではないか、と思うくらいだ。ひとり暮らしを始めてから、あらゆる家具を自分ひとりで組み立てまくってきた。
段ボールに隙間なく収められた家具のパーツは、ビスやクギで連結され、みるみる組み立てられてゆく。
インターネットで注文した本棚が我が家に到着したのは5月、ゴールデンウィークのことだった。連休に合わせて注文し、休みを費やす覚悟でいたのだけれど、その重量と巨大さを ”実感” して面倒になり、長らく玄関に放置されていた。
末広がりになった本棚には、文庫から大型本までが収納できるだろう。完成すれば、天井につくほどの大きさになる。もっとも、文庫本と雑誌に関しては既に専用の棚があるので、主に単行本や写真集などを収納するための棚ということになる。本棚に並んだ書籍を眺めることは、背表紙フェチにとって快感ですらある。
意を決して組み立てを始めた先週末。平和な日曜の午後に突如作業は開始された。こういうものは、やろうと思った時にやらなくてはいけない。軍手をはめ、ドライバーセットを用意し、ロックミュージックをかける。
作業を設置場所から少し離れた奥の部屋ですることにした。玄関から部屋の中へとパーツを ”搬入”し、ペランとした簡易的な説明書を睨む。試行錯誤を繰り返しながら、高さ2メートルをゆうに超える本棚の組み立ては順調に進んでいた。やっばりこれは「趣味・特技」に書かなくてはいけない。
しかしあろうことか、順調に完成した本棚は天井の梁に引っかかり部屋から出せなくなってしまっていた。強引に棚を傾け搬出を試みると、バキッとビスが折れた音が響く。本棚が、真っ二つになった。
こんな時『あーあ!』と一緒に言う人もいない。八つ当たりする相手も居なければ、帰宅した同居人に甘くからかわれて頭を掻いておどけることもない。崩れたら、静かに組み直す。これがひとり暮らしである。
それに誰かを呼んだところで足の踏み場がない。
頑丈なスチールラックに積み上げられていた書籍や、パソコンの周辺機器は全て棚から下ろしてしまった。ザザーッ・・・ッと積み上げた本が時折崩れ、床にはナイーブな電子機器が無造作に点在している。(今日終えなければ一週間この部屋に!)という危機感で黙々と作業を続ける。
棚を設置するために机をどかし、Macをどかし、冷蔵庫をどかす。なんとか設置を終え書籍を並べた終えた頃には、からだ中がホコリだらけになっていた。
これまでは棚が飽和状態で、せっかく購入した本もしまう場所がなかった。背の高い本棚にずっと憧れていた。隙間の残された本棚のなんと素晴らしいことだろう!
本日の1曲
The (After) Life Of The Party / Fall Out Boy