Archive for the '黄昏コラム' Category

都庁とランチ


久々に新宿中央公園で昼食をとることにした。一日中建物に籠もりっきりになっていると無性に外気に触れたくなるものだ。朝早くに出勤し、日の光を体感しないまま気付くと夜になっていることも多い。
今日はインド料理店でテイクアウトしたカレーを持参し新宿中央公園に行った。

目の前にそびえる都庁と、公園で遊ぶ子供達を眺めながら黙々と食事をする。14時の公園にはあまり人がいなかった。昼休みもひと段落し、寒空の下外でランチを取ろうと思う人は少ないのかもしれない。
木々の葉は見事な黄金色に輝いて、冬の空は水色だった。

近隣の高層ビルからは公園を一望することができる。上階から見る新宿中央公園はもこもこと木々が重なっている。沢山の集合住宅と、細長い副都心のビル群に囲まれた様は小ぶりなセントラルパークといったところだろう。

しかし園内に入ってみるとそこは決して綺麗な公園ではないことがわかる。物々しいオレンジのフェンスや、素っ気ない立て看板も沢山ある。園内は特に整備されている様子もなく、その証拠に奥地にはホームレスの青テントがたくさん張り巡らされている。

東京都庁の「お膝元」に青テントがひしめいているのは皮肉な光景だと思う。見るとどれもが大変しっかりしたつくりでまさに家そのものである。ビルに囲まれた西新宿、果たして家賃に換算するとどれだけの好立地なのだろう、と思ったりする。
彼等は日中、会談場になった広場で日光浴をしているみたいだった。
 
子供たちは甲高い声を上げながら駆け回り、それから目を離さずに見守る親達。恐がりもせずにこちらに詰め寄るすずめや鳩。何人かがランニングで走り去り、都庁にレンズを向けるアマチュア写真家もいる。

今日は都庁に見下ろされながらインドカレーを食べた。清掃夫は終始無言で落ち葉をかき集め続けた。会社に戻ると、唇も目もひどく乾燥していた。


本日の1曲
Sparky’s Dream / Teenage Fanclub


何時間寝ても翌日が同じ法則

或る高校生は偉大なる法則を発見した。数時間しか眠らない日が続いても、日中に疲れたり眠気に襲われたりすることがなかった。例えば10時間の睡眠の後も、2時間の睡眠の後も、全く同じ状態で翌日を過ごせていたのだった。
高校生はそれを『何時間寝ても翌日が同じ法則』と名付け、ある期間その法則に酔いしれた。

それは大発見だった。当然眠らなければ一日が長い。その上翌日に何の影響も及ぼさない不眠の法則だ。すると寝る時間が一気に無駄に思えてきた。
世の中の人々は皆寝過ぎてはいないか?

そしてその法則に乗っ取った日々を過ごしていた。深夜番組を眺めた後はラジカセでCDを聴き、雑誌を読み耽ったり、絵を描いて過ごした。
家族は寝静まり、誰にも咎められずに過ごす時間は楽しかった。夜行性の性格はこのあたりが起源なのかもしれない。

テスト直前になっても一夜漬けすれば何とかなるとタカをくくり、実際それでなんとか高校を卒業できた。前日の真夜中から起算して明日の日中に照準を会わせればよいのだ。何しろ眠らなくてよいのだから時間はたっぷりとあった。

人間は脳内の同じ回路を二度通過させればものを覚えると聞いたことがある。確かに脳内の回路を意識しながら学習すると成果があった。しかしそんなことにこだわっていては一夜漬けは乗り切れない。答案用紙が配られると、まず余白に覚えたばかりのキーワードを書き連ねた。その場しのぎの新しい記憶は思いの外役に立った。

大学生になると、夜行性はより助長された。しかしこの頃になると『少ない睡眠時間の後に起きることができない法則』にぶち当たった。
20代ももう終わろうかという現在の悩みは『寝なければ翌日使い物にならない法則』である。
かつて大発見した法則が若さ故の特権であったことを、そろそろ認めないわけにはいかない。


本日の1曲
Hey Now! / Oasis


ブロードバンド孫自慢

昼食を終えた我々を喫茶店で出迎えていたのは、孫を自慢したくて堪らない男。彼は我々の上司である。機敏なUターンも虚しい程あっさりと捕まり、同席することになってしまった。
最早彼の孫自慢癖は職場で有名である。おまけにポータプルプレイヤーの動画つきだ。一通り話した後、引き際を悟るとすっきりとした表情で去っていく。その繰り返しなのだ。

私物の持込が厳しい職場環境もなんのその、常にいくつかのデジタル機器を携帯し、いつでも再生の準備は万端である。孫は公園を駆け回り、家の中でボール遊びをし、庭に水を撒く。
四国に住む息子一家からは毎日大量のデータが送られてくるらしい。勿論その全てには愛くるしい孫の姿が映っている。毎晩光ファイバーにのった新鮮な映像が東京にやってくる。

幼い頃の映像が残っているのだから現代の子供は幸せである。今残したいと思って撮りなおせるものではない。もともと機械に疎い家庭で育ったものの、まだその頃はビデオカメラも一般的ではなかった。
小学生の時、我が家にSONYのハンディカムがやってきたが、その頃にはもう撮る側の自我が目覚めていた。

デジタルカメラで撮影し、パソコン上で編集する。文字を入力し、音楽をつければオリジナルムービーが完成する。あまりにも熱中しすぎる為に『編集作業は一日一時間まで』と決めているらしい。
そして仕事の合間に孫の映像を部下に見せて回るのだ。デジカメで撮れる映像の長さは限られていて、録画機能は必要ないと思っていたが、こんなところに需要があったとは。

大型連休の度に会いに行くとしても子供の成長は早い。彼は毎日動く孫の映像を受信し続けている。無理矢理渡された再生機器を握り、BGMを聴くためのイヤホンまでさせられた同僚氏は滅茶苦茶な早送りで映像をすっ飛ばしていた。
方や上司氏は真剣に胸を痛めていた。息子宅の周辺に光ファイバー計画が無いことに。


本日の1曲
Hey Joe / Tahiti 80


若い大人達へ

他人に対して否定的になる時、人はよく『子供』という言葉を使う。いささか諦めの良すぎる言葉を吐いて、さも勝ち誇ったような気分になっているのだろう。何を言っても仕方がないという諦めと、何も知らないで可哀相にという傲慢な同情が入り交じっている。

ある時納得できない状態に陥った二人の友人は、揃いも揃ってお互いを『子供』と形容していた。ほんの少しの時間差で双方から同じ言葉を聞いた時は、とても妙な気分になった。彼等は相手のことを『大人には足らぬ存在』として否定を繰り返していた。

自分の正しさを疑わず、大して年の違わぬ相手を子供だと形容するのは妙な現象だ。年長者が何十も歳の違う青年に向けるのとは少し意味合いが異なる。
意識してみると『子供』という言葉はそういった否定的な場面でよく用いられているようだった。そしてその言葉を聞くたびにいつも違和感を感じてきた。

確かに同年代でも驚くほど価値観の違う人間もいる。似たような時代を生きてきた同世代の友人にはシンパシーを感じるが、中には相入れない奴もいる。
年長者への敬意は忘れていないつもりだが、日々沢山の大人の中で働いていると、その敬意すら揺らぐ時もある。

ある作家は”大人になることは、進歩することよりも、むしろ進歩させるべきでない領域を知ることだ。”と言った。

巧みな言葉で他人をけなすのが大人ではない。陰口を叩き、上手いことを言ってやったと悦に入るのが大人ではない。
適当に周りに同調し、愛想笑いに顔筋を強張らせ、波風立てずに上手くやっている若い大人達へ。


本日の1曲
ふたりごと / Radwimps


ヘアサロンの変人

後頭部から『ボコ・ボコ』という音が聞こえる。掌にたっぷりとためた湯の音だ。ヘアサロンのシャンプー台でその心地よい音を久々に聞いた。アシスタント氏は泡が冷たくなるまで丹念に髪を洗い、拳大のシャワーヘッドは充分な水量を吐き出した。
そこは女性のスタイリストと若い男性のアシスタントがいるだけの小さな店だった。主に鉄と木材による内装も落ち着いていて好みだった。

数えてみたらヘアサロンに行くのは7年振りだった。以前は表参道や吉祥寺の有名サロンに通っていたこともあった。時には満足できない仕上がりもあったけれどその度に高額な料金を払い続けた。

自分で髪を切ることを覚えてからはずっと自分で髪を切ってきた。頼まれて友人達の髪も随分切った。ヘアスタイルを変えたい衝動は突然訪れて、予約を入れた次の瞬間に気が変わることだってある。それに美容師達との会話も億劫だった。そうしてサロンに通わない生活が定着した。
しかしパーマは自分でかける技術が無い。久々にパーマでもかけようかと思い、今夜美容室へ行った。

『人に髪を切って貰うのっていいですね』と言うと、そんなことは初めて言われたとお姉さんは笑った。去年5年振りに美容室へ来た男性のお客さんが同じような事を言っていたらしい。準備が面倒で部屋が汚れるヘアカラーですら『自分でやる人が信じられない』そうだ。美容師らしい意見だった。

『7年振りなんです、実は。』勝ち誇った気分になってうっかり言ってしまった。お姉さんはハサミを動かす手を休め目を丸くしていた。もの凄い早口で自分の存在を弁解したい衝動に駆られた。
『あ、でも!昨日通勤定期も更新したしホケンショーも一応ありますし大切な友人も数は多くないかもしれないけど何人かいますし我が家の猫も元気に育ってます』と。

そうか、髪は誰かに切って貰うものなのだ。絶句している彼女を見ていると、なんだか自分が変人になった気がした。


本日の1曲
バスルームで髪を切る100の方法 / Flipper’s Guitar


午前8時の沈黙

ドアが開いた時、ホームから見る沈黙の集団は結構恐ろしい。
ホームに滑り込んでくる電車は既に満員で、車両の中からは沢山の視線が彷徨っている。皆が無になって我慢している寡黙な空間だ。
高円寺で降りる人はほとんどいない。怪訝そうな顔をした(ように見える)大勢の乗客の中に体をのめりこませる。

その日はなかなか上手くいかなかった。車両に背を向け、後ろ向きになって上半身を電車に突っ込む。これは東京のラッシュを経験して習得した満員電車の乗り方だ。
普段は扉の上部に手を掛けるがあまりにも満員で手が届かなかった。車内から押し出される圧力に逆らえず、閉まりかけのドアは両肩にぶつかった。まだ体の8割はホームに出ている状態で。

なんとか体を車両に押し込めようと踏ん張る。次の電車も待ってもきっと同じような状態だろう。しかしこの日はなかなかハードだった。いくら踏ん張っても体が車両に収まらない。時々駅員が渾身の力で乗客を押し込んでいる光景を見る。自分もあんな風に車両に押し込まれるのだろうか?
自意識が頭をかすめた瞬間、見かねた他の乗客の協力によって体が引き込まれ、扉が閉まった。

窓は熱気で曇り、顔が近すぎるせいで目の前の広告がなんの広告なのかもわからない。高円寺〜新宿間は中央線で2駅、総武線で4駅。線路は平行して走り、停車駅の多い総武線は中央線より若干空いている。しかし乗車時間が数分長い。苦しいことは早く終わらせたい一心で中央線に乗り続けている。

混雑した車内で親密に会話をする”勤め人カップル”や、冤罪を恐れた中年男性の”バンザイ”などを視界に納めつつ、息を潜める。
満員電車の窓に張付いていると、扉の強度が不安になってくる。カーブを耐える革靴やヒールの音が鈍く聞こえる。乗客の圧力で鉄の扉が外れてしまえば線路に放り出されるだろう。

新宿駅構内を突破するまでに、日中の倍の時間が掛かる。電車から吐き出された人々が階段になだれ込み、はじき出されたように目的地へ向かって歩いていく。それは縦横無尽に人々が行き交う巨大交差点のようでもある。
ザッザッと軍隊の行進よろしく、皆が街道を勇み足で歩く。まだ半分眠った街を起こす業務につくために。


本日の1曲
Banquet / Bloc Party


25日のショウウインドー

12月を散々盛り上げたクリスマスが終わると、1週間もたたないうちに正月がやってくる。東京の景色は12月25日と26日では随分変わる。日付が変わる頃からが慌ただしい。
役目を終えたサンタクロースは倉庫に眠り、街から”Merry Christmas”の文字は消え去る。クリスマスが過ぎたら、クリスマスの余韻は残さない。

ある年の12月25日、深夜の銀座のショウウィンドーは一斉に模様替えの真っ最中だった。空になったガラス張りの空間はそこだけ煌々と照らされて闇に浮かび上がっていた。その中にはそれぞれに人影がうごめいている。目の前の車道には小型のクレーン車が停車し、銀座仕様の豪華な正月飾りが次々に搬入されてくる。

銀座は多くのデパートが建ち並んでいる。真夜中に街中が西洋から東洋へ慌ただしく雰囲気を変えていた。クリスマスと正月は明確な季節の指標で、年間のディスプレイ計画には欠かせない。12月25日を境に、東京の冬の景色は変わる。

普段通りに仕事をしているうちに、いつの間にか年末になっている。急いで通り過ぎる駅近くのショウウインドーがいつの間にか入れ替えられているのに気付く。毎日の時間を示すのが時計の役目なら、都会の季節を感じさせる役目はショウウインドーが担っているのかもしれない。

ある日の作業の風景は影絵のようにも見え、華やかな舞台を裏から覗いているような気分になった。


本日の1曲
Black Velveteen / Lenny Kravitz


19歳のいびつな朝焼け

友人達と連れ立って何度か近所のマンションの屋上に忍び込んだことがある。それは東京に住み始めた年の出来事で、まだ19歳だった。
その頃、立川にある美術予備校で毎日絵を描いていた。全国各地から生徒が集まり、皆が一人暮らしをしていた。同じ境遇の生徒達はすぐに打ち解けた。

夜明け前。辺りはまだ暗く巨大なマンションはしんと静まり返っていた。入居者に気付かれないよう注意しながら柵を越え、屋上に降り立つと眼下にポツポツと灯のともる武蔵野の景色が広がっていた。下の通りにはタクシーやトラックが時折通り過ぎた。

そのうち僅かにに地平線の際が光り、太陽が姿を現した。強い光はあっという間に地平線いっぱいに広がり、大気は瞬く間にグラデーションに包まれた。色彩は一秒毎に変化し、瞬きしている間にも刻々と色が変わっていく。色づいた大気が屋上に立つ若者をぐるりと囲んだ。

言葉を失うほど美しい朝焼けだった。何時間か後にはガヤガヤと騒々しい街に変わるなんてにわかに信じられない。その大気はまだ誰にも汚されていないように思えた。

『オレらがどんだけ絵を勉強しても、この色は出せないよなぁ』とそこにいた一人が言った。彼が溜息混じりに発した言葉はとても恥ずかしく響いて皆が笑った。ほんの数分の間に街の輪郭は露わになって朝がやってきた。

ー東京には空が無い。
余りに有名なこの言葉で東京の空はしばし語られる。地上から見る空は四角い。透き通っているはずの空の色も、灰色のビルディングとコンクリートに挟まれれば濁って見えるかもしれない。それに東京の地平線は凹凸だらけだ。
しかし東京には東京のいびつな空がある。そしてその風景を何より詩的に思う。


本日の1曲
キャノンボール / 中村一義


ティーンエイジャーと夕食を

新宿駅付近にはショッピングビルが建ち並び、上階には決まってレストランフロアがある。すぐに電車に乗って帰れるのはこの上ない立地かもしれない。仕事を終え、同僚氏と食事をして帰ろうということになった。週末の夜は特に混むが、平日だってやはり混んでいる。店の外に行列が無いだけだ。

以前行ったことのあるパスタ専門店に行くことを決め、エレベーターに乗り込んだ。しかしフロアに降り立つと、最初に目に飛び込んできたのは違う店のパスタのディスプレイだった。
その店にはピザのようにパスタにサイズがあった。M、L、LL、どれを頼んでも値段は変わらない。大皿に盛られたパスタには580円の値札がついていた。それは当初の予定の半額以下で食べられる夕食だった。

我々は目を輝かせた。店内をくまなく照らす真っ白い蛍光灯の明かりにひるみもしたが、その安さに勝るものはない。お互いに金欠で、つい先程まで外食すらためらっていたからだ。
真ん中のテーブルに案内された我々は嬉々としてメニューを眺めた。長時間の労働を終えたばかりで腹が減って仕方がなかった。

その店でティーンエイジャーではないのは我々だけみたいに思えた。入り口にあれ程「取り分けはご遠慮ください」と注意書きが出されているのにも関わらず、若いカップルは一つの皿をつつき、女子高生は目の前の麺をペタペタといじりながらお喋りに夢中だった。

テーブルにはおしぼりも紙ナフキンも無い。プラスティックのコップで出された水には氷すら入っていない。それは紙コップみたいに軽かった。ある店員の着ていたTシャツには妙なキャラクターが描かれていたが、見ると店員達は皆同じTシャツを着ていた。統一感のない稚拙な空間は託児所を思わせた。我々は段々と無口になっていった。

黙々とLサイズのパスタを平らげ足早に店を出た。ホームへ向かいながらいつもの店に行かなかったことを後悔していた。
すると同僚氏は一瞬神妙な顔を見せた後『・・・忘れよっ!』と歯切れ良く言い、精一杯の笑顔を作ってみせた。食べたばかりのパスタがまだ腹で渦巻いているというのに。

それは青春ドラマで取り返しのつかない失敗をした主人公を励ます親友みたいな、嘘っぽい笑顔だった。


本日の1曲
ルイジアナ・ボブ / マキシマムザホルモン


幸福な庭

道路に面した白い門扉を開けると頭上のアーチには真っ赤な薔薇の花が巻き付いている。湾曲する緩い階段を上がると、重厚な木で造られた玄関が姿を現す。幼い頃の記念写真は大抵そのアーチの下か玄関扉の前で行われた。
自宅は生まれる前に建立された古い一軒家で、白い洋館は当時はまだ珍しかった。

玄関を開けると吹き抜けの空間が広がっていて、丸いガラス球の照明が3つ天井から長く垂れている。ガラス張りの2階の廊下からは国道1号線が見渡せた。夏には日差しにテカテカと照らされた民家の尾根を、冬には寒々しくそびえる遠くの山を眺めた。
隣接する工場では祖父と父が働いていて、キーンキーンとかすかに機械の音が聞こえた。

祖父は庭に大業な犬小屋をこしらえた。サーモンピンクの屋根にアクリル板をはめ込んでサンルーフを作り、雨どいまで装備されていた。2匹の犬は朝の時間放し飼いにされ、ランドセルにまでじゃれついてきた。門扉でお別れすると、今度は素早く進行方向の階段を駆け上がり外壁の白い塀の上から顔を出して見送ってくれた。その動作はとても愛おしくて手の届かない犬の顔に向かって何度も手を振った。

祖母の見真似でよく庭の掃除をした。天気の良い午後、長いホースで豪快に水を振りまいた。階段の上から水を流し、硬いホウキを使って葉や土を洗い流す。”おそうじ”を終えて庭を見渡すと、植物もコンクリもつやつやと光っていた。

中学生になると工場は隣町に移転し、自分の部屋と洗濯場が増設された。自分の部屋にも、洗濯場にも家への出入りができた。そして段々と玄関を利用しなくなった。
祖父は他界し、犬も死んで犬小屋は撤去された。父親は再婚して新しい家を建てた。ひとりっ子の自分は東京に上京し、今は祖母が一人でその家に住む。

白い鉄製のポールは植物に巻き付かれることもなく、所々錆びが剥き出しになっている。今ではすっかり彩りの乏しい庭にも、時々庭師がやってくるみたいだ。


本日の1曲
雨は手のひらにいっぱい / SUGAR BABE


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08/19 『おじいちゃんの幸せなアトリエ』