Archive for the '黄昏コラム' Category

TEN-NEN

アイドルの全国ツアーを追っかけると、数十万単位で金が飛んでいくらしい。ただでさえ高いチケットに交通費や宿泊費を加算するのだから無理もない。
だから当然金が無い。それがわかっていても、ツアーの最中に自宅にいることは耐えられないはずだ。彼女達は迷いなく飛行機で北の大地に飛び、新幹線で浪花の地に降り立つ。

彼女たちにとっては出待ち、録音当たり前。いい歳をした大人でありながら、善悪の判断も怪しい。こうしたら喜ぶんじゃないか、悲しむんじゃないか、という想像には及ばない。その代わりに、面倒で長たらしい自論を展開することもない。重要なのは、歌い手のヘアスタイルや新曲のチャート、目撃談と噂話。

ツアーの間は仕事を休み、良席のチケットを定価の何倍もの金額で手に入れる。追っ掛けのためなら、お金は惜しまないとでも言うように。
自分の知る何人かの追っ掛けガール達はうだうだ考え事をしない。人々が世間を憂い、人生の難題に煩悶している間も、次のツアーに向けてダフ屋と合コン、スカートを新調してファン仲間とオフ会。彼女たちの日常は忙しく、バラエティに富んでいる。

天然。決断は実に簡潔で、後悔の余地がない。発言の余りの軽薄さに愕然とする時もあるが、こちらの困惑にすら気がついていないようだ。
普段ならすかさずツッコミを入れたくなる数十万の出資も、自分達の行動に疑問を持たない彼女達には通じない。

彼女達は(誰も本当の私を判ってくれない)なんていじけたりしないし、(このままでいいのかな)とか、(この先どうしよう)とぼやいたりもしない。
彼女たちの目的は明確で、そのための手段はいくらでもあるかのように思える。何をしたらよいのかがわからない人が世の中には大勢いるというのに。

人の目を気にしない。後ろめたさも感じない。堂々巡りの自問自答はしない。面倒なことに足を突っ込まない。悲壮感がまるで漂っていない。
中途半端に芽生えてしまったエゴは切ない。考え抜いた結論を放棄するくらいなら、最初からそうして吹っ切れてみたい。


本日の1曲
日常に生きる少女 / Number Girl


やどかり洗濯事情

一目見て、このマンションを気に入ったのは、マンションらしからぬ冴えない外観と、理想的な間取り。しかしひとつ問題があった。
この部屋にはベランダがない。その時は屋上の存在をアテにしてさほど気にしていなかった。しかし屋上へ出る扉には鍵がかかっていた。近所で飛び降り自殺があってから、開かずの扉はますます開かなくなった。

以前住んでいたアパートはちょっとした高台にあった。玄関前の広いスペースに洗濯物を一気に干せた。日当たりも、風通しも抜群にいい。大量の洗濯物はあっという間に乾き、布団を干すのも苦労しなかった。洗濯ってこんなに楽しかったのか!と開眼するほど快適な洗濯環境だった。

それに比べてこの部屋は、窓を開けても細くて頼りない欄干があるだけだ。人間がもたれればそのまま落下してしまいそうな気もする。かくして風呂場に洗濯ものを干す生活が始まった。布団は欄干と外壁との狭い隙間に無理矢理干す始末。

この時、洗濯物の落下には十分気を付けなければならない。この部屋から落下した洗濯物は通行人を驚かせるだろう。シーツやタオルケットを干す時は特に注意が必要だ。丸めたままの洗濯物をバサッと屋外で広げた途端に、くるまっていた下着類が飛んでいくことだってある。

ある日自分のバイクのミラーにパンツが引っ掛けられていたことがある。道路に落ちて泥だらけではあったが、それは間違いなくマイパンツだった。
何故わかった!?恥ずかしい!と一人オロオロとしたが、集合住宅の洗濯物の主が容易にわかるはずもなく、たまたま落とし主のバイクにかかっていただけなのだろう。モノがモノだけに放っておくわけにもいかず、こそこそと丸めて部屋に持ち帰った。

風呂場の窓を開けると通気がよく、洗濯物は意外によく乾く。洗濯物特有の太陽の香りが恋しくなると、欄干にハンガーをつっかけ、そのストレスを解消している。
越してきた当初は色々気にかかったさまざまなことも、住んでしまえば自然に受け入れられるようになる。今は洗濯物を風呂場に干し、狭い欄干に布団を挟むのも気にならなくなってしまった。


本日の1曲
Easy Way Out / Tahiti 80


反抗期

中学生の時は、夜な夜な網戸を蹴飛ばし、新聞を床に叩き付け、思いつく限りの悪態を吐きまくっていた。
反抗期の標的になったのは祖母だった。両親が共働きで・・・というのとは少し訳が違う。その頃は両親と別の家に住んでいた。再婚した父親は新しく家を建て、”本家”に残ったのは、自分と祖父母だった。

幼い頃に両親は離婚し、長い間祖母が母親代わりだった。毎朝孫の弁当を作ってくれたけれど、その弁当は「彩り」に乏しく、詰め込まれた煮物やコロッケは茶色かった。若い母親達が作る弁当を羨ましく思い、皆の前で蓋を開けるのが恥ずかしかった。
授業参観にも祖母が来たが、学校の先生方に頭を下げる姿が嫌で仕方なかった。祖母の必死ななりで、片親のひいき目が余計に助長されるような気がした。

祖母は世の母親達と同じように口うるさく世話を焼いた。早く寝なさい、宿題はやったのか、忘れ物はないか、布団を掛けなさい。
そしてある時期から口答えすることを覚えた。自分の希望もロクに言えないような内気な子供だったのにも関わらず、それは突然始まった。

何を言われてもイライラする。(今夜こそ我慢しよう)と必死で保っていた安泰も、ほんの一言で崩れてしまった。
結局毎晩のように喧嘩が続いた。抑制がきかず、他に発散の方法も知らなかった。そのうち言葉を喋るのも嫌になって、近所中に響く奇声をあげるようになった。

しかし祖母は負けてはいなかった。ある日、孫に口汚く罵られた祖母は、ダスキンを持って廊下をドタドタと追いかけてきた。思いがけない反撃におののき、部屋に滑り込んだ。いつかテレビで見た”八つ墓村”みたいだった。
我が家の隣のアパートには耄碌寸前の老夫婦が暮らしていたが、さぞかしうるさかったろうと思う。

止めようと思っても止められない。孫が散らかした部屋を片付ける祖母を見ると一層情けなかった。いつしか祖母に当たり散らすこともなくなり、気がついたら反抗期は過ぎていた。


本日の1曲
Between Love & Hate / The Strokes


おうちでチャイ・ティー

チャイは牛乳で茶葉を煮出したミルクティー。一般的には香辛料が配合されるスパイシーなミルクティーで、簡単に言えばロイヤルミルクティーに香辛料を加えたものといったところだろう。アジア系飲食店ではよく見かけるが、喫茶店で扱っているところはまだ少ない。

茶葉の産地インドでは、商品にならない葉の「くず」をおいしく飲む方法としてチャイが定着した。チャイは庶民のおやつという位置づけで、一等の茶葉を使用するのは正しいチャイとは言えないらしい。「高級ホテルで出されるチャイはおいしくない」という定説すらあるようだ。

スターバックスにはタゾチャイティーラテというメニューがあり、これがチャイにハマるきっかけとなった。チャイ飲みたさにスターバックスを見つけては突進する日々。氷なしのオーダーでテイクアウトしたい衝動に駆られるが・・・さて、チャイを自宅で楽しめないものか。

調べてみると意外にもチャイに使用する茶葉は何でもよいことがわかった。向き、不向きはあるが、これでなければならないという決まりは特にないし、高級茶葉を使用しなくても充分おいしいチャイが作れるそうだ。(基本的には癖のないアッサムなどが向いているらしい)

チャイを自宅で楽しむべく、成城石井へ茶葉を買いに行く。店内を巡回していると商品棚の再上段にひっそりと佇むチャイ用ティーバックを発見した。数あるスパイスを買い集めるのも骨が折れる。これなら初めからスパイスが配合されているから、煮出すだけで簡単にチャイができる。初心者にはうってつけだった。(20パック入りで630円)

さっそくチャイを作ってみた。鍋に水を入れパックから出した茶葉を投入、煮立ったら弱火にし牛乳を加えさらに煮出す。(水:牛乳は3:7くらいの分量がいいようだ)
最後は茶葉を茶こしでこすのが一般的だが、最初から紐を切ったティーバックごと入れるという荒技もある。

好みに応じてシロップを追加すれば自宅でも手軽においしいチャイが飲める。満足する一方で”禁煙の”スターバックスに駆け寄る理由がまたひとつ減った気がして少々寂しい気もしている。


本日の1曲
Styrofoam Plates / Death Cab For Cutie


意外にモテない男

深夜番組を見ていたら若い芸人コンビが出演していた。雑誌で見かけたことはあるが、動いて喋っているところは初めて見た気がする。
彼らはいわゆる「売れっ子」である。あまりテレビを見なくなってからたった1年余りで、テレビ業界も世代交代した様子だ。その芸人が民放で人気を振りまいている間も長くその存在すら知らなかった。新番組の司会を任されたらしい若い芸人は慣れた様子で場をしきっていた。

インターネットで調べると彼らのうちのひとりのBlogに辿り着いた。添付された写真にはマンションの自室でくつろぐ彼の姿が写っている。写真を見る限り結構広そうだ。最近広い部屋に引っ越したのかもしれない。綺麗に片付けられた部屋に、デザイナーズ風の白いソファ。彼が最近購入した白いノートパソコンは『インテリアともよく合うのでお気に入り』だという。

文章を読むと彼の日課は「掃除」であるようだった。彼は毎日フローリングの床を磨き、知人が来るとモノの定位置が変わるのが気になって仕方がないという。文章は幾分コミカルに書かれていたが、最早彼が神経質な男であることに疑いは無い。

昔、ある女友達は意中の彼の自宅に招かれた。床に座った彼女がポテトチップスの袋を開けた途端、彼はおもむろにブルーシートをバサバサと広げだしたという。花見をする気なのだろうか。言うまでもないが彼は神経質な男で、ごく自然にその行動をとった。
彼女は仕方なくその上に座りポテトチップスを食した。きっと、味もわからなかったろう。彼はスナック菓子を食べるたびにシートを広げるのだろうか。ブルーシートがすぐに出てくるのにも驚くけれど。

台所に運んだコップをすかさず水につける。
大小さまざまあるリモコンの端を揃える。
灰皿の付近のタバコの灰を指先で集め、灰皿の上でゴニョゴニョする。

もちろん全ての女性が神経質な男性が嫌いというわけではないだろう。しかし神経質な男達が普段当然のようにやっている仕草が、何割かの女性を閉口させているのも事実である。
ポテトチップスの彼女はそれ以来、彼の部屋には行っていないらしい。彼は何故その日から彼女の好意的な視線が止んでしまったのかわからないだろう。
テレビの芸人を見つめてそんなエピソードを思い出した。売れっ子の彼も意外にモテないのかもしれない。


本日の1曲
Teenage Dandyism / DOPING PANDA


感銘のデルタ

ある時期から読書の際、気になったページを折るようになった。ページの隅を三角に折り込むのは、付箋をつけたり、書き込みをするよりも手っ取り早い「しるし」である。
今夜部屋の片付けの際に久々に手に取った本には、沢山の折目がついていた。さぞかし感嘆符が頭の上に踊るような読書体験だったのだろう。
自分にとって良い本ならその分だけページは折り込まれる。その数は感銘の証と言えなくもない。

その作品を読んだ時期は大体想像がつく。この部屋の本棚にある書籍の大多数は大学時代に購入されたもので、有り余る時間を本を読むことに捧げてきたからだ。今思えば、よくもこんな本を!という小難しい作品も含まれているが、それにも容赦なくついている折目を眺めていると、学生時代のカオスティックな生活が懐かしく思い出される。

あの頃は何にも邪魔されない時間がたっぷりとあった。本を伏せてはトイレに立ち、本を読みながら煙草を吸い、読書を中断してはコンビニに行った。
それまで本を読む習慣がなかったせいで、読みたい本は無限に湧いてくるように思えた。書店の書架の前で手当たり次第に小説を手に取り、気に入った作家の本は全て読んだ。

本を読み返す時、ふと三角折のページに出くわすことがある。その頃の自分にとって、このページのあるセンテンスは有効に作用したということになる。その三角が示す箇所からは当時一番大切にしていた想いや、心を支配していた感情の類が読み取れる。

注意深く文章を辿ると、(あー、ここだ!)と思い出す時もあれば、その一方で何度読み返してもその「部分」がわからないこともある。
その時、自分がどこにどうやられたかは想像するしかない。三角折の中途半端さこそが後の想像力を掻き立てる。

ある友人が手にしていた本は、彼がひいた蛍光マーカーのせいでまっ黄っ黄だった。即ち、彼は線を引くのが止められないほど作品の虜になったということだ。少々感銘を受けすぎではあるが悪いことではない。


本日の1曲
冗談 / Original Love


オタクとオシャレの境界線

その日、友人氏とオタクごっこをしながら帰宅していた。彼女はオタクの模倣がやけに上手い。それは彼女がオタクタウン(中野)で生まれ育ったことによる、ある種の勘なのかもしれないが・・・まぁとにかく我々はオタク的な会話をしているうちに新宿駅に着いた。
中央線のホームの列に並んでいる時、前方に”本物の”オタクを発見した。彼は我々と同じく、数分後に到着する中央線を待っていた。

まず目に付くのは彼の髪型だ。肩につく長さの黒髪を無造作に束ねていた。しかし少々無造作過ぎる。ゴムで固定されている髪より、後れ毛の方が量が多いのではないかという大雑把さだ。薄い素材のジーンズに丈の短い七部袖の白いTシャツを着ている。彼の持ち物らしいキャリーカートには「ポケットティッシュ」と書かれた大きな段ボールが乗っかっていて、軽いのか重いのかもわからない段ボールの存在がマニアック感を増長させていた。

我々はオタクごっこを中断し彼の挙動を観察した。左の手首にはくしゃくしゃのビニール袋がぶら下がり、その中から菓子パンを出し入れしてほおばっている。彼は食べかけのパンをぶっきらぼうにビニール袋に突っ込み、右手に持った飲料ですかさず流し込む。電車が来る前に食べ切ろうとしているのか、随分と慌ただしい。
当初、姿を一見してオタクと認識した我々であったが、少々雲行きが怪しくなってきた。友人氏が異論を唱え始めたのだ。

友人氏はジーンズと飲料に注目したようだった。彼はデニムより薄い妙な素材のジーンズを腰履きし、もぐもぐと口を動かしながらスターバックスのシアトルラテを飲んでいた。オタクはジーパンを”腰履き”しないし、”スターバックス”のラテは飲まない、というのが彼女の主張だった。

間もなく我々を乗せた車両は発車した。夜の車窓を利用して彼をチラ見する。彼の着ているTシャツは七分袖でフロントには英語のロゴが入っていた。後姿で気がつかなかったが、彼はうっすらと無精ひげを生やし、大きな眼鏡をかけていた。顔の半分が隠れそうな大きなめがねは見ようによっては、「どちらにも取れる」し、ファッションアイテムとしては難易度が高い。彼は「ものすごくオシャレ」か「ただのオタク」なのだ。
”メガネ”、”七部袖”、”英語のロゴ”が『オタクではなくてオシャレ。』だと彼女は主張する。車内で静かに、しかし確信を持った口調で。

あれだけ嫌われていたオタクという人種が今脚光を浴びている。日本製アニメやゲームソフトの人気に便乗して、オタク文化も海外では認知度を上げているようだ。アニメーションが氾濫する日本でオタクをやらないのは損なのかもしれない。
それに『オタクっぽくてかっこいい』というのは褒め言葉のようだ。しかるに漫画やゲームなどの”インドア系趣味”を持ち、”色白で痩せ型”という条件が合えば、オタクと呼べるのだろうか。オタクの垣根も随分低くなったものだ。

そしてオシャレとオタクの境界線も、今日では曖昧である。絶対中野だよ。高円寺でしょ!という言い合いも虚しく、高円寺で降りた時も彼は電車を降りなかった。オタクなのかオシャレなのか最後まで謎を残したまま、疑わしい彼を乗せた電車は西へ走り去った。


本日の1曲
Boys Don’t Cry / Comeback My Daughters


どこでもデスク術

待ち合わせに少し遅れて駅に到着すると、友人氏の姿が見えた。彼女は改札近くの柱のふもとにぺたんと座り込み、書き物をしているようだった。その周りを本や書類がぐるりと囲んでいる。本はあるページで開かれ、資料には所々ラインマーカーがひかれていた。

こちらに気づくと親しみのある笑顔を向け、散乱した資料を一斉にかき集め出した。そして手当たり次第にカバンに突っ込んでいる。
今更驚くことではない。彼女が所構わず勉強を始めるのはお馴染みの光景だ。彼女はどこでも勉強できる。それが駅構内であっても。

その頃の彼女はといえば、こちらがちょっと席を外した隙にもう文献を開き、席に戻るとパッと本を閉じる。そして先程の話の続きを始める。それも適当に話をするのではなく、オリジナリティに溢れた興味深い私見を述べ始める。その動作はもはや彼女の一部で、今更言及するまでもないみたいに自然に行われた。

彼女の集中力にはいつも感心させられた。彼女は当時勤勉な大学院生であったから、その集中力は学問に対して如何なく発揮されたはずだ。彼女は所構わず勉強をし、高い集中力を持続することが出来た。その特性は尊敬に値する。なぜなら自分が集中力に欠けたヒトだからだ。

環境に左右されてるあまり、自室以外では集中力が持続しない。読書はシンとした自室でないとできないし、喫茶店で勉強など以ての外で同じ箇所を何度読んでも頭に入らない。読書を再開する時は、数頁前から読み直すことになり、短時間の読書を繰り返してもちっとも頁は進まない。通勤時の読書を思い立ち、奮発して買った皮の文庫本カバーも結局出番がないままに放置されている。

だから街の喫茶店ではそれなりの過ごし方をする。iPodでお気に入りの音楽を聴けば、雑音も気にならずに瞑想できる。それに音楽で高揚した気分のお陰でスラスラと文章が書ける。ちなみにこの文章も喫茶店で書いている。インプットとアウトプットの問題なのかもしれない。人前でのインプットは困難だ。

街中で参考文献を広げる学生たちを見かけて、駅で勉強していた彼女を思い出すことがある。もっとも、駅の床で彼女ほど荷物を広げている人には会ったことがないけれど。


本日の1曲
すてきなメロディー / SUGAR BABE


いせや寄稿。

井の頭公園に次ぐ吉祥寺の名所と言っても過言ではない。『いせや』は精肉店として昭和初期に創業、焼き鳥を販売して50年の老舗。吉祥寺には2店舗あり、吉祥寺駅前交差点近くに「総本店」、井の頭公園入り口には「公園店」がある。
この度総本店が建物の老朽化のために建て替えられることになった。そしてそのニュースは世間でもちょっとした騒ぎになっている。

中央線のガード近くにいせや総本店はある。昼間に通りかかると並木の緑に映える築50年の木造建築が美しい。昼間から周辺にもうもうと煙が立ち上がり、カウンターは賑わっている。
名物の”安くて大きい”焼き鳥は1本80円。親しみを込めて「芸祭価格」と呼ばせていただいている。焼き鳥をつまみにちょっと飲む程度なら1000円でおつりがくる。

閉店前の最後の日曜日。夕刻のいせや総本店には入店待ちの長蛇の列が出来、歩道は人で溢れかえっていた。歩道に面した立ち飲みカウンターは2列3列とお客が押し寄せている。写真を撮っている人も多かった。
店の軒先では大勢の店員達がテキパキと焼き鳥を焼き続け、白い煙がもくもくと立ちのぼっている。忙しく手元を動かす店員氏と親しそうに会話するおじさん。きっと常連客なのだろう。

そういえば学生の頃、友人と3人で来店した時、向かいの席で飲んでいたヨレヨレのスーツ姿のおじさん2人に巻き込まれ、会計をおごって貰ったことがあった。持つべきものは酔っぱらいの扱いに長けた可愛い女友達である。

この混雑では入店まで時間がかかりそうだ。『20時以降は初めてのご来店のお客様お断りします。』の貼り紙も納得がいく。ひとしきり総本店を眺めた後、いせや公園口店に向かう。

予想通りこちらにも行列が出来ていた。いせやの行列は週末のお馴染みの光景なのだ。向かいのオシャレなダイニングバーに作業着姿のおじさんがいる。いせやの方をチラチラと眺めているところを見ると、混雑にはじき出されてしまったいせやの常連さんなのだろう。

並んでから約10分、長テーブルに丸イスという極めてシンプルな席につき手早くオーダーを済ませる。酒の飲めない小生、焼酎サワーの無い総本店ではなく、ほとんど公園口の店舗を選んでいる。足繁く通ったおかげでメニューを見なくともオーダーできるくらいだ。焼き鳥各種をシオで頼む。揚げ餃子、ジャンボシューマイ、モツ煮は必須だろう。ライスを頼めば定食気分で食事ができる。(最近レバ刺しがメニューから消えてしまったのが悔やまれる)

公園口店は2階建ての吹き抜け構造になっていて、傾斜の急な階段を上ると座敷スペースがある。
2階の通路脇に並んだテーブルを見上げ、チカチカと蛍光灯に照らされた座敷を眺める。ガヤガヤと騒がしい店内を若い店員達がすり抜けていく。年代物の扇風機がお客を見下ろす。
なんともいびつな店内の構造はアジア諸国の大衆食堂を思わせる趣がある。これは意図的な演出では絶対に出せない空気だ。

思えばこの店で友人達の色々な告白を聞いた気がする。銀色の灰皿を眺め、安っぽい緑のイスに座っていると学生時代を思い出して、懐かしい気分でいっぱいになった。
親しみのある店が解体されるのは心許ないだろうナ、とふと思う。総本店はあの場所で50年間も営業を続けていた。常連達にも店員達にも、それぞれ沢山の思い出があるのだろう。いせや総本店は来月解体され、来秋には14階建てビルが建つ。


本日の1曲
サヨナラダケガ人生ダ / eastern youth


肩のNIKONと鞄のRICOH



愛機はNIKON F3(マニュアル一眼レフ)とRICOH GR1v(コンパクトカメラ)。外出の際、どちらを持っていくかで結構悩む。

F3は鞄にも入らないし、それなりに重い。写真を撮るかわからない外出時に持って行くには大きい。いつでも鞄に入れておけるようなサブカメラを探している時、森山大道の愛機だと知りGR1vに飛びついた。しかしフジロックに持っていったせいで現在GRは壊れている。気軽に持ち歩きすぎたのだろう。
今はRICOHもフィルムカメラ市場からは撤退し、NIKONも数機種を残してフィルムカメラの生産が終了してしまった。

F3とGRではレンズの特性が大きく異なる。レンズの特性を表すmmの単位は、レンズ中の主点とフィルム面との距離を表し、数値 が小さくなるほど画角(写真に写る範囲)が広くなる。(ちなみにこの数値が大きくなれば望遠レンズ、小さくなれば魚眼レンズに近くなる)
28mm(広角気味)のGRと、52mm(標準)のF3では写真の仕上がりも結構違う。実際の視野に近いのはF3の方だが、画角の広いGRは背景を広く取り込める。

GRはシャッターを半押しすれば自動でピントは合うし、フラッシュも内蔵されている。カバンから出して電源を入れればすぐシャッターが切れる手軽さは魅力だ。
一方F3はというと、ほとんどがマニュアルで操作しなくてはならない。露出もシャッタースピードも、フィルム感度も状況によってその都度設定が必要。

しかしF3の方が思い通りに撮れている。適正露出はファインダー内部の表示が教えてくれるし、シャッタースピードは慣れれば勘で判断できるようになる。
絞りの調節で背景をぼかしたり、シャッタースピードを切り替えれば動いているものでも的確に撮影できる。マニュアル機は操作が難しそうだと避けられがちだが、慣れれば出来上がりをイメージして操作出来るようになる。フィルムを使い切った後の手動の巻き上げすら撮影の楽しみである。

晴れた日の昼間や風景撮影には気軽なGR、夜間や室内ならF3がいいだろう。しかし何を撮るかなど出掛けるときにはわからないのがほとんど。
それぞれの長所は捨て難く、短所を補おうとすれば結局2台になってしまう。


本日の1曲
そして風は吹く / サニーデイ・サービス


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2006/01/29 『NIKON