Archive for the '読書' Category

坂口安吾『桜の森の満開の下』

どうして桜は人々を魅了するのだろう?
その疑問を呟いた時、友人氏は『桜の木の下には死体が埋まってるからだよ』と言った。だからこんなにも華やかなのだと。それ以来、桜の季節になると決まってその文句を思い出すようになった。

近頃は桜の花の下といえば人間がより集まって酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまうという話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。
ー坂口安吾『桜の森の満開の下』

桜の季節になると峠を越える旅人は決まって『気が変』になった。その妖艶な様は昔の人々に恐れられていたという。
物語に登場する山賊は、街道へ出ては都から来た人の命を絶ち、窃盗を繰り返している『むごたらしい』男である。ある日男はいつものように街道で女をさらい、それを8人目の女房にした。

女は今までのどの女房よりも美しかった。女は山の生活を嘆き、しきりに都の生活を恋しがった。山賊は都の景色を見たことがない。この山が彼の全てであった。
女はまた山賊以上に残虐な心を持っていた。共に暮らす代償に山賊に首刈りを迫ったが、彼にとって他人の首を切ることなど『大根を斬るのと同じようなもの』であった。山賊は夢中になって女の欲しがるものを手に入れた。

その存在の出現は山賊に人間的な感情を与えた。それは人間同士の営みの産物であったが、彼の手には負えないものばかりであった。毎晩のように首を欲しがる女に山賊は毎晩のように首を捧げた。退廃した生活の先には暗黒が広がるのみで、何の希望もない。その『明暗の無限のくりかえし』を考えると頭が痛んだ。
桜が題材でありながら、その文章は醜さや裏切りに満ちている。人間の感情の推移を描いた傑作であると思う。

新宿へ向かう中央線の車内から、線路近くの駐輪場の桜が見える。今年は桜をゆっくり眺めてすらいない。桜の見頃は過ぎたと思っていたが、そのモコモコとした花は、今まさに満開であった。
この時期には望まれない強風や雨で歩道に散った花びらは、来週になれば人々に踏まれ縮こまってしまうだろう。
限られた瞬間のこぼれるような生命力と淡い色彩の佇まいに我々は心を奪われてしまう。


本日の1曲
桜のダンス From シブヤROCKTRANSFORMED状態 / Number Girl



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桜の森の満開の下
桜の森の満開の下
講談社文芸文庫・坂口安吾著


インターネット図書館、
青空文庫でも読むことができます。→『桜の森の満開の下』ページへ


リリー・フランキー 『東京タワー』

リリー・フランキーの『東京タワー』を読んだ。日本でこれほどのベストセラーは久しぶりなのではないかと思う。普段ベストセラー的作品には興味が向かないが、今でも書店のランキングで上位に掲げられているのを眺めてちょっと読みたい気分になっていた。
そんな折、お姉さんN氏が「外出できないほど号泣」したというのを聞き、ただならぬ雰囲気を感じて読み始めた。(この先本の内容に触れています)

大好きな「オカン」とどこで何をしているのかもわからない「オトン」。リリー少年はあちこちと居を変えながら少年期を過ごした。
そして自分も決して普通の家庭環境に育ったわけではない。幼い頃に両親は離婚し、お互いの家を期限付きで行き来していた。広大な病院の駐車場で父と母によって数か月置きに子供の「受け渡し」がされた。両親の問答を聞こえないフリをしてやり過ごした。どちらが自分の家なのかわからない状態だった。しかし大人に聞いてはいけないことのような気がして、無邪気を装った。自分もまた、抱えきれない悩みで悶々とした子供だった。

リリー氏は大学の先輩である。自分もまた立川や国分寺で学生時代を過ごした。合格発表で掲示板が設置された駐輪場も、玉川上水の桜の美しさも知っている。
2001年3月末に東京に降った雪のこともよく覚えている。引越当日に降った春の雪を彼は「オカン」のいる病室から眺めていた。自分にとっては単なるエピソードとして記憶に残っているその景色も、ある人にとっては一生忘れられない春の雪であった。

「オカン」が癌に侵されてからの文章は、高校1年生の時に他界した祖父のことを思い出させた。それは今までに自分が経験した一番身近な人物の死である。

祖父はスポーツ観戦が好きな人で、部屋からはいつもひいきのチームを応援する威勢のいい声が聞こえた。それはワールドカップ予選のドーハの悲劇のテレビ中継を身終えた深夜。自宅の廊下で会った祖父は興奮した面持ちで「惜しいっけなぁ」と顔を歪めて悔しがった。それが祖父と交わした最後の「普段通り」の会話だった。祖父は翌日に倒れ、病院に搬送された。

薬の副作用で一気に痴呆が進み、理解できない言葉を口走るようになった。看病していた祖母は相づちを打っていたが、突然別人になってしまったようでどうしてよいのかわからなかった。

祖父は自慢のおじいちゃんだった。年季の入ったギャグを言っては自分で楽しそうに笑い、ハイライトの両切りの煙草をおいしそうに吸った。刺身が大好物で祖母が食べたいものを聞くと決まって「さかな」と答えた。家族喧嘩が始まるとそっと自分を誘い、公園に連れていってくれた。
ひとりっこだった自分を可愛がり、小さい頃からの写真はコメントと共に全てアルバムにきれいに貼付けてくれた。祖父の書く字はニョロニョロしていて子供には何が書いてあるのかよくわからなかった。藤子不二雄のキャラクターが沢山描かれた凧を作ってくれた。それは6畳にも及ぶ超大作で長年に渡って実家の玄関に飾られていたが、よく見ると中には誰なのかよくわからないキャラクターも混じっていた。

祖父が亡くなった直後の病室にいても涙が出なかった。その時父親の涙は床にぽとっと音を立て、昼夜つきっきりで看病していた祖母はテキパキと立ち回っていた。
人間が死ぬということが理解できなかった。ほんの少し前までサッカーの話をしていた祖父はもう生きていない。
自宅に戻ったその日の夜、部屋のソファーに寝転がった。
ほんの少し前までサッカーの話をしていたのに、祖父はなぜもう話さないのだろう。白い壁を見つめていたらどっと涙が溢れた。

今でも祖父の死をなんとなく認識しているに過ぎない。非日常的な衝撃と対峙した時「嘘みたい」という感覚が襲うのはなぜだろうか。事態をまったく飲み込めないまま、ただその現実だけが浮遊しているようにそこにある。

大事な人を亡くすという経験は必ずやってくる。
「オカン」が死んだ後、リリー氏は渋谷の歩道橋の上から群衆を見下ろし、(この人たちはみんなそういう経験をして、それでも生活しているんだな)と驚愕する。
人々は常に悲しみに暮れているわけではない。しかしながら世の中はこんなにも悲しい別れに溢れている。それに気付いた時、それまで無表情に見えていた街の景色は、どす黒いマーブルにうねりはじめる。

誰でも家族に後ろめたい思いはある。だからこの本を読む人全てにそれぞれの心当たりがある。彼が望んで経験したわけではないその物語は、おそらく彼が思っていた以上に深い共感を呼んだ。ある個人が自分を語ることは決して無意味ではない。


本日の1曲
Ob-La-Di Ob-La-Da / The Beatles


『いやいやえん』

20代終盤に差し掛かった今になっても心の中に強く残る本がある。
『いやいやえん』を初めて読んだのは小学校低学年の頃だった。この本は児童向けの童話でありながら今に至るまで強烈な印象を残し続けている。
出版社である福音館書店の作品紹介文には「元気な保育園児しげるが主人公の楽しいお話。」とあるが、その文章にはただならぬ違和感を感じる。自分にとっては決して「楽しいお話」ではなかった。

この作品がなぜそれほどまでに印象に残っているか。それは「本の世界に入り込んだ初めての体験」だったからだと思う。保育園児しげるは大人の言うことをきかず協調性が無い。そして身勝手な行動が”罰”を生む。
いたずらをしては保母さんに暗い押し入れに閉じこめられる。他の園児達と共に「りんごの山」や「みかんの山」に遠足に出かけ、行ってはいけないと注意されていたおどろおどろしい真っ黒な山の中で迷ってしまう。クネクネと奇妙な曲線を描く怪物のような樹木に遭遇し、しげるはその木の幹をくぐり抜けようとするが体を挟まれ出られなくなってしまう。しかもあろうことかその状態でものすごい形相の鬼と出くわしてしまう。
当時は物語を客観視することができなかった。しげるに起こる出来事をあたかも自分が体感しているような気になって次々に恐怖が襲ってきた。

そして作品の文章に添えられた絵が一層気色悪さを際だたせている。それまで親しんでいた色彩の豊かな絵本に比べ、その黒い線画の絵はショッキングだった。楽しそうに遊んだり、無邪気な笑顔のカットは(あったのかもしれないが)一切思い出せない。代わりにしげるの悲痛な表情だけが思い出される。動物とお話したり気球に乗ったりしてファンタジックな冒険をするのが童話ではなかったか?
しかしこれまで触れたことのないその世界観にみるみる飲み込まれていった。そしてひとりっ子の自分はその恐怖を誰とも共感できずに抱え込んでいた。こんなに怯えていることを大人に話しても判ってくれないだろう。

『いやいやえん』を最後に読んだのはいつだろうか。実家に帰れば本があるかもしれないけれど、間違いなく15年は経過している。今思えばその作品には「大人のいうことをよく聞いて約束は守りましょう」的な教訓が込められていたのだろうが、当時はそんなことは知る由もなく、ただ物語に描かれた残虐性におののいたものだ。
インターネット上で「子供を寝かせる前のお話にぴったり」「我が子は目を輝かせて聞き入っています」などという母親達のコメントを読んだが、こんな話を寝る前に聞かされたら確実に悪夢を見そうだ。幼き日の自分はさぞかし顔を歪めて頁をめくっていたはずで、それはもはやトラウマに近い感覚と言わざるを得ない。

大学時代に入った書店で久しぶりにその本を見かけた。しげると熊の絵が描かれたエンジ色の表紙を見かけて瞬時に胸騒ぎがしたのを覚えている。いくつかの有名な文学作品を読んだけれど、その読書体験の記憶は鮮烈で、決して色褪せることがない。


本日の1曲
戦士の屍のマーチ / ストレイテナー


ブンガクする

東京で一人暮らしを始めてから気付いたことは沢山ある。そのひとつが自分がインドア人間であるということだった。休日一歩も外に出ない(マンションの郵便受けすら見ない)ことも多い「深夜活動型インドア人間」を自称している。家族と暮らしていた頃はお出かけ好きの両親に連れられて半ば強引に街に出たし、第一高校生の放課後は忙しい。

大学生は年間の3分の1が休日である。「そんなに時間があるのも大学生の時だけヨー」と母親が言うのを耳にしても実感が湧かなかった。現在も常に時間に追われるような生活はしていないのではっきりと実感しているわけではないけれど、それでもあの時間の有り様は異様だったと思う。

そう、一人暮らしをしてみて初めて自分は時間を有効に使える人間ではないということに気付いた。休日の自堕落な様には我ながら飽きれる。中原中也の言葉を拝借すれば「怠惰を逃れるすべがない」という状態だ。

もっとも、その時間が全て無駄遣いであるわけではない。大学時代に本を読むことを覚えた。そしていわゆる純文学作品を読みまくった。多少カテゴリに偏りはあるが昼夜問わず読みまくった時期があった。
なにしろ、今まで読書とは無縁だった。ブンガクが恐ろしく面白いということに気が付いてからは青梅街道沿いの書店に入り浸り文庫本を買い漁った。読みたい本はいくらでもあった。

その時期に自分が選出したベスト3を覚えている。夏目漱石の『こころ』、中原中也の『中原中也詩集(大岡昇平編)』、遠藤周作『わたしが・捨てた・女』だった。当時は混沌の波にのまれた精神状態だったため、今よりもブンガクをすんなり理解できていたのではないかと思う。

高校時代の話だ。読書好きの友人のところに図書委員氏がやってきてなにやら取材をしていた。彼女は大江健三郎を愛読しているようだった。
オオエケンザブロー?
休み時間に彼は『個人的な体験』を読んでいた。オオエケンザブロー。
その本の冒頭を読み、鳥が主人公なの!と面食らい1ページでその読書体験は未遂に終わった。大学時代にこっそり読み「バード」は鳥でなく主人公の愛称であることを知った。当時その驚きを口にすれば彼が教えてくれたはずで、おそらく羞恥でその言葉を飲み込んだと思われる。(ちなみに大学時代に読んだ氏の作品の中で最も印象深かったのは『われらの時代』であった)

文学は世界共通である。以前、アメリカ人氏にミシマの『金閣寺』を読んだか?と問われ、『金閣寺』は読んでいないけれど『音楽』は読んだと伝えた。彼は『金閣寺』は読んだが『音楽』は読んでいなかった。ディスコミニケーション状態である。
ことにロシア文学は多くの読書人を虜にしているようだ。実家の応接間には世界文学全集が並んでいたが手に取ったことはなかった。『カラマーゾフの兄弟』や『アンナ・カレーニナ』などは最早誰もが知っている作品である。(難かしそうだナ)と思わせるその作品でも、言ってしまえば「読んでいる人」と「読んでいない人」に分けることもできる。触れたことがあるかないか。完全に物語を昇華していなくても、その作品に触れたことのある人とそうでない人の間にはそれなりの違いがある。

以前友人と話している時「ちょっと本を出すの待って!待って!」と彼にしては珍しくジェスチャーまで交えて力説し出した。彼は読書好きのあまり、出版されている文学作品は全部読みたいらしい。それまでとは打って変わったハイテンションをポカンと眺めたものだ。
最近、久々に本を読もうと思っている。


本日の1曲
ひまわり / 大貫妙子



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2/20 『村上春樹と君と僕


村上春樹と君と僕

彼は時々、会話の途中でふと救いのない言葉を口にした。そしてこちらが口を開く前に静かに笑い、それを追いやった。
それはほんの数秒の間だったけれど、彼を思い出す時は決まってその顔が浮かぶ。彼はいつもそうして自分と「なにか」の間に折り合いをつけているように見えた。しかし、自分がいくら想像してみたところでその「なにか」が何であるのかわからない気がしていた。

彼は村上春樹の作品を好んでいるようだった。
そして文庫本の『ノルウェイの森』を書店で買い求めた。大学2年生のその当時まで本とはほとんど無縁だった。中学、高校時代共に本も漫画も読まなかった。『ノルウェイの森』が刊行されたのは87年で自分はまだ小学生だった。

その小説の中には自分の経験したことのない喪失感や、到底納得できないような出来事が描かれていた。しかしその作品世界の中で、それらは見事に辻褄が合っていた。普段は消化できないであろう事柄が自分の中にすとんと落ちていく感覚を味わった。
そして、彼を度々襲うその感情の「種類」を理解して暫くの間放心した。

言葉にできない思いを表現する為にあらゆる芸術は存在する、というのは自分の勝手な持論である。その感情のひだを埋めるような、文学や、音楽や、芸術作品を求めている。村上春樹という作家は一瞬の心の動きを数ページの文章に置換する。正確でありながら正当ではない比喩は時にフィジカルなアプローチでこちらに語りかける。

先日、キッチンで洗い物をしていてある風景が目に浮かんだ。それはエメラルドグリーンにクリームを溶かしたような淡い色合いの海の風景だ。砂浜には一人の中年の女性がデッキチェアにもたれかかっている。彼女は海を見ているのではなく、彼女と海の間に横たわる空間に目を遣っている。
その風景は確かな映像として脳内再生されていた。風がそよぎ、ぼんやりと樹木の影が揺らいでいる。皿を洗いながら、それはどこで見た何の映像なのか思い出そうとした。
それが氏の小説『ハナレイ・ベイ』のワンシーンであることに気がついたのは数分後である。

最初に村上春樹の小説に出会ってからもう何年も経った。そして何年も経ったおかげでそれなりに色々な感情を理解できる年齢になった。彼が幾度も飲み込んだその感情についても。
目の前で一瞬、遠い目をする彼に語りかけてみたところで、もう目の前に彼はいない。


本日の1曲
Give me a reason / Mondo Grosso